Forever hill

男は夢に追われる孤独なランナー

山田久志が王に挑んだ勝負

2008-04-14 01:21:31 | スポーツ

世の中に語り継がれる伝説というものがある。

球界にも数々ある。沢村栄治のドロップ、藤村富美男のものほし竿、神様仏様稲尾様。新しい所では絶体絶命江夏豊の21球。たくさんあって思い出せない。

でも自分にとって語り継いでいきたい伝説とはこの対決だ。「山田久志が王に挑んだ勝負」である。なぜなら自分がその場にいた生き証人であるからだ。

1971年日本シリーズは阪急との四度目の対決となっていた。前年まで巨人は六連覇、その年七連覇をめざしていた。一勝一敗でむかえた第三戦。

そこに立ちはだかったのが阪急若きエース山田久志であった。山田は1点を守り巨人打線を九回二死まで完璧に抑え込んでいた。

その時自分は一塁側二階席スタンドにいた。高校の午後の授業をさぼって友達と後楽園球場に来ていたのだ。巨人ファンであるふたりは敗戦濃厚で帰り支度をしていた。

グチを言いながら席を立とうとした時、最後のバッターになるはずの柴田が四球で出た。次のバッターは長嶋だ。席を立つのを止める。

長嶋や王はこれまでに何度も自分らの夢を叶えてきてくれた。ここぞという時に打ってくれた。また今日もその予感がしてきていた。

長嶋打った。ボテボテのゴロだ。万事休すか・・・。ところが打球はセンターに抜けたのだ。まさに長嶋執念のヒット。

二死一塁、二塁で四番王に打順が回ってきた。阪急西本監督は敬遠も考えただろう。果たして・・・山田は王との勝負を選んだ。観衆は騒然としてきた。

そして運命の三球目。山田は力いっぱいの速球を投げ込む。その速球を王は見事にとらえた。自分の目の前で白球が大きな放物線を描いてライトスタンドに吸い込まれた。

逆転サヨナラホームラン。球場は歓喜の渦に包まれた。抱き合って喜ぶ人たちの姿がそこにあった。自分らも興奮し感激した。

この劇的ホームランがシリーズの流れを変えた。このあと阪急は一勝もできず敗退する。しかし山田は「この一球」の悔しさをバネに常勝阪急の大エースに君臨する。あの時敬遠で逃げていたらのちの山田はもしかしたらなかったかも知れない。

こうして巨人は七連覇を達成しさらに九連覇まで伸ばすのである。この時見た「山田が王に挑んだ勝負」はこのあとも語り継いで行こうと思う。何せ自分は生き証人なのだから。

 

 

 


ボロ車の四国一周旅行

2008-04-12 02:06:09 | 旅行記

その昔、オヤジにやっとボロ中古車を買ってもらい、すぐにひとりでドライブ旅行に出た。車に家財道具を詰め込んで旅に出るのが、子供の頃からの夢であった。

時は春、行く先は四国。なぜ四国か。それは行ったことがない所だったからだ。計画は行き当たりばったり、気の向くまま。

前の晩興奮して眠れず、待ちきれず暗いうちに出発した。・・・が、東名の沼津あたりでパンク。一時は死ぬかと思った。最初から大冷汗。前途多難。

路肩で修理して再出発。路肩でパンク修理なんて今なら絶対やらない。怖いもの知らずとはこの事か。

あとは順調で浜名湖SAで日の出を迎える。東名、名神を無事に走り切り、明石からフェリーで淡路島へ。淡路島からまたフェリーに乗ってやっと四国へ上陸。

フェリーに乗るのも初体験で冷汗ものだった。当時は橋などひとつもかかっていない。四国は陸の孤島であった。

ます゛向かったのが鳴門。うず潮より鳴門ラインからの内海の景色がとても美しく印象に残っている。きれいな海岸線を西へ。

屋島ドライブウェイではノッキングで後ずさりしそうで冷汗。屋島からは瀬戸内海に夕日が映って見え、きれいで日が沈むまでいた。

その日は高松まで。畑の真ん中に車を止め、後座席の寝袋にくるまる。貧乏旅行ですべて車の中で寝た。足は伸ばせないが寒くはなかった。

次の日、朝食はオフクロに作ってもらったおにぎり。ここまで口にしたのはおにぎりだけ。十個位作ってもらった。近くの栗林公園の名園を見てから出発。

五色台スカイラインを通り、坂出の海岸に出る。これがまた狭い道路でトラックとすれ違いざまにドブに脱輪。幸いドブに泥がつまっていたのでバックで脱出できた。今日も冷汗から始まる。

丸亀城を見て、一気に琴平まで。日本人なら一度は行ってみたい金刀比羅まいり。本宮まで階段を何百段も登らなくてはならない。

登り始めは両側にお土産屋がぎっしり。だんだん足がきつくなる。有料だが楽な籠もあるのだ。籠は横向きに登って行く。本宮からの眺めがまたすばらしい。登ってきたかいがあるというもの。

さらに走り、高校野球で有名な池田町に入る。なんとネズミ捕りにひっかかる。冷汗のピーク。赤信号で先頭に止まったのが運の尽き。スピード発進してしまった。罰金の額だけが頭に残る。

気を取り直して、大歩危、小歩危を見ながら進む。ここでは鉄橋を渡る列車の写真を撮った。鉄道ファンでもあるのだ。

そして当時はまだ秘境の祖谷峡へ向かう。道は極端に狭い。下は谷底ガードレールなんてない。冷汗の連続。そこに向こうから路線バスがくる。すれ違いもできない。絶体絶命。

さあどうする。どうすると言っても自分では動けない。・・・なんとかバスの方がバックしてくれた。汗びっしょり。

やっとの思いで着いたところにはかずら橋がある。かずらの木を編んで橋にしている。下がつつぬけで見える。高所恐怖症ゆえ渡らず。

帰りはまた来た道を引き返す。また冷汗。対向車が来ないことを祈る。運転には自信がないのだ。

そして高知まで来た。ここでは裁判所の駐車場にかってに止め眠る。誰もとがめる人がいない。昔は平和だった。

次の朝愕然とした。ちょうど日曜で門が閉められていた。これは明日まで出られないか・・・。ところが門に鍵がかかっていなかった。

どうにか旅行は続けられ、板垣退助の銅像を見て高知を出発。竜河洞という鍾乳洞に行ってみた。大きな洞くつで水がかぎりなく透明に近いブルーでとてもきれいだった。

いよいよ坂本竜馬と会うため桂浜へ。途中道が狭く冷汗。桂浜で坂本竜馬の銅像と対面した。ゴミとお土産屋の建物が興ざめ。

ここから足摺岬へ向かうのだが、道が狭いのがいやで一度高知方面にもどり国道に出る。このころから雨が降ってくる。途中四万十川の土手を通り、土佐清水ではかつお船が見事に並んでいるのに驚く。

足摺スカイラインではものすごい濃霧ほんの先が見えない、また冷汗。ひたすらすぐ前の道路を見て運転した。怖かった。

やっとこさ足摺岬に着いて、初めてとんかつライスを食べた。公共駐車場でゆっくり寝た。

灯台が有名で思えば遠くにきたもんだ。椿のトンネルは時期的に少し遅かった。落ちてしまい地面が椿の花だらけとなっていた。

次の日、出発してすぐ竜串という所があった。団体にまぎれてグラスボートに乗る。着いたのが見残しという所。奇形の岩が延々と続き気持ち悪い程見事であった。

さらに宇和島に向かう途中山崩れで引き返し海岸線を行くことになる。渋滞がほとんどない四国だったがその時だけ渋滞した。それでも海がきれいで退屈しなかった。

宇和島城に寄り、松山まで来た。病院の駐車場にかってに車を止める。横になるとライトアップされた松山城が見える絶好の場所であった。ここでも怪しむ人はいなかった。平和な時代。

松山では子規堂に坊ちゃん列車があった。松山城はローブウェイとリフトで登る。桜がちらほら咲き始めていた。このお城と桜は絶景である。

道後温泉街を散歩していると四人組の女性たちに写真を撮ってと頼まれた。ついでに自分のカメラでも撮らせてもらった。写真はすべてポジでスライドにした。

四国五十一番所の石手寺まで足を伸ばす。おみやげに姫だるまを買う。

天気快晴とてもおだやかな海岸線を今治まで行って、そこから三原行きのフェリーに乗る。これで四国とはおさらばである。冷汗の連続であったが四国を一周したのだ。

このあと尾道の夜景を見たり、倉敷、吉備路を回ったり、姫路城に行ったりして旅行は続く。最初はどうなるかと思ったがなんとか無事に旅行は終わるのである。

子供の頃からの夢を実現してみると、とても楽しくてまたすぐ行きたくなった。

その後車は変わって行くがひとり旅は続いた。東北、九州一周、北陸、北海道一周、佐渡、山陰から山陽、紀伊半島縦断・・・何回も行った所もあり、今だに続いている。

さすがに車の中では寝なくなったが、気ままな旅の原点はこの四国一周にある。

 

 

 

 


高校野球ふたりの二年生

2008-04-05 23:42:52 | スポーツ

選抜高校野球が終わったばかりだが、夏になるとオヤジと一緒に千葉までオヤジの母校を応援しによく高校野球を見に行った。自分の出た高校には硬式野球部がなかったからだ。

ある夏、オヤジの母校を見に行くと前の試合がまだ終わってなかった。見ていると、やけに「小さいの」と、やけに「でかいの」が目に留まる。

「小さいの」はショートで四番。このチビが四番?ところが、左右に打ち分けるシュアなバッティングをするのだ。

「でかいの」はというと補欠番号ながらキャッチャーで六番。元気がよくユニフォームは泥だらけ張り上げる声もでかかった。

この「小さいの」と「でかいの」は、ともに二年生ながらチームを引っぱっていた。

試合が終わり、スタンド観戦するため「小さいの」が目の前を通り過ぎた。こいつがさっきの四番か・・・?いっそう小柄に見えたからだ。

この夏彼らの高校は勝ち進み甲子園出場を果たすが、一回戦で負けてしまう。次の年も県予選では活躍しただろうが記憶がない。こうしてふたりの二年生のことはすっかり忘れてしまった。

数年後、阪神-巨人のテレビ中継を見ていた。突然驚愕した。

あの「小さいの」が映っているではないか。なんだあの小さな体でプロになれたんだ。しかもサードのレギュラーだ。やっていけるのか?

自分の心配をよそに、「小さいの」は阪神の不動の四番ホームランバッターに成長し、ミスタータイガースと言われる男となる。

一方、「でかいの」の消息を知るにはあと数十年あとになる。巨人に中大から有望キャッチャーが入団する。

そのキャッチャーの父親があの「でかいの」らしいと知ったときだ。これもびっくりした。あの「でかいの」が自分の息子をプロにしたのだ。息子がキャッチャーになったのは父親の影響だろう。

もう、おわかりであろう。

あの夏の、ふたりの二年生。「小さいの」は掛布雅之、「でかいの」は阿部慎之助の父親阿部東司である。

掛布は自分の夢を貫きプロ野球選手になった。阿部東司氏は自分の夢を息子に託した。

そしてふたりとも夢を勝ち取ったのだ。

 

 

 


サッカーメキシコ五輪予選死闘の日韓戦

2008-04-05 01:03:52 | スポーツ

その日、オヤジは会社が終わってから同僚を数人連れてきた。皆で夢中になって見たテレビ番組とは・・・?

メキシコ五輪サッカーアジア予選、日本対韓国戦。ちょうど日本サッカーリーグが発足し、サッカーはブームになっていた。国立競技場は六万の大観衆。無敗同士の雨中の決戦だ。

おそらく生まれて初めて見るサッカーの日韓戦。当然日本が簡単に勝つと思っていた。皆で食事をしている中、試合は始まった。

前半13分日本はゴール前の混戦から宮本輝がゴール先取点を取る。さらに37分杉山がドリブル突破して2点目。杉山はレバノン戦で左肩亜脱臼し痛み止めの注射を打って出場していた。

前半終了2-0とリードする。なあんだ楽勝だ。皆思った。緊張感は薄らいできた。そのあと、血が逆流するようなドラマが待っているとは。

後半そうそうから、韓国の猛反撃が始まった。早くも6分に1点取られる。赤いユニフォームがめまぐるしく動き回る。日本防戦一方、浮き足立つ。24分とうとう同点にされた。

韓国はこんなに強いのか!その日初めて知って現在まで続いている。ここまでくると皆真剣な顔になっている。

しかし、日本も同点にされた直後、エース釜本がフリーとなり値千金の勝ち越しゴールを奪う。よしこれで五輪へ行ける。皆手を叩いて喜んだ。

喜びもつかの間、しつこく攻めてくる韓国。27分金基福に決められあっけなく再び同点とされる。あーあまたダメか。皆ため息をつく。

疲れを知らない韓国。圧倒的に押しまくる。今度は恐怖を感じてきた。逆転される。こうなったら引き分けでいい。皆時間を気にする。時間が長い。体に力が入ったままだ。まだ終わらないのか。

後半44分日本ピンチ、韓国ロングシュート・・・入ったか?GK横山がセービングしてふりかえる運命の一瞬。皆血の気が引いた、・・・クロスバーに当たった。

ここでやっとホイッスルが鳴る。試合終了3-3の引き分け。

皆安堵したが、自らが戦ったように疲れ果てていた。韓国はこんなに強かったんだ。これが本音の感想だった。自分の日韓サッカーの歴史はこの日から始まった。

五輪の銅メダルよりも、予選のこの日韓戦の方が強烈に記憶の中に残っている。

そのあと日本は南ベトナムに勝ち、得失点差でメキシコ行の切符を手にする。こうしてサッカー日本代表は夢をふくらませてくれた。

その夢は1968年メキシコ五輪で銅メダルを取り現実となる。あの時韓国のシュートが10cmずれていたら日本の銅メダルはなかったかも知れない。

試合内容は当時のサッカーマガジンを参考にしました。

この日韓戦がきっかけで黄金の左足杉山選手が好きになり、三菱(現レッズ)を応援しに足繁く競技場に通うことになる。勝てばメキシコ行という固くなった南ベトナム戦で後半唯一の得点を入れたのも杉山だった。

この日韓戦、メキシコ五輪銅メダルがやがてくる夢のJリーグの礎となったことは確かだと思う。

追記

メキシコ五輪サッカー銅メダルの時の日本代表監督長沼健氏がお亡くなりになりました。

日本サッカー界の礎を築いてくださった氏のご冥福を心よりお祈りいたします。