Forever hill

男は夢に追われる孤独なランナー

ちよ馬券高松宮記念

2009-03-28 22:43:58 | ギャンブル

競馬予想のタイトルをちよ馬券としますので、これからもよろしくお願いします。今回はGⅠ第二弾の高松宮記念1200mスプリントレースです。

高松宮記念の思い出としては予想が的中したという意味では昨年の印象が強く残ります。今年も出場している4番人気ファイングレインを本命にすると見事優勝、2着キンシャサノキセキ、3着スズカフェニックスも的中し、予想は完璧でした。

このレースが行われる中京競馬場は左回りの小回りで直線坂がないのが特徴です。坂がないので底力がない馬でも何とかなりそうだが。

内枠を引いた先行馬は有利で、小回りで距離も短いので大外回され後から行くとまず前が止まらない。ならば先行同士で決まるかというとそうでもなくて、先行争い激化は必至で差し馬がズブズブとくる時もけっこう多い。

必ずハイペースになり先行して勝つには相当実力がないとムリ。雨でも降れば先行馬は断然有利となる。

今年のレース本命は・・・。

今年五歳になる世代の牝馬は強かった。ダイワスカーレットは引退したが昨年の有馬記念を完勝、ウオッカドバイ・ワールドカップにこの後すぐ挑戦する。

ところが同世代牝馬にもう一頭強い馬がいるのをご存知だろうか。昨年の中山で行われた同じ1200mのGⅠスプリンターズSを優勝した4スリープレスナイト(牝5)だ。

現在5連勝中(芝はGⅠ含む3連勝)でダイワスカーレットに代わる今年の主役はこの馬と見る。先行馬なので内枠を引いたのは有利で、ハイペースになろうとも先行して押し切る実力をもっている。

ただし順調ではない。外傷、その後じんましんを発症6ヶ月の休みを余儀なくされ、休養明けでこのレースに臨むことになる。そこで仕上がりが気になるが、調教時計は抜群で問題なさそう。

順調なら一本かぶりになっていたであろうから馬券的におもしろい。ここは黙って本命にする。

さてヒモは・・・。

過去九年連続で阪急杯組が連対している。阪急杯組を中心にヒモを探せば間違いない。

阪急杯5着までの16ビービーカルダン(牡5)、13ローレルゲレイロ(牡5)、14ドラゴンファング(牡4)、5トウショウカレッジ(牡7)までは順当。

他にも京都金杯でお世話になった8ファリダット(牡4)、昨年のこのレースでお世話になった10ファイングレイン(牡6)まで。

オーシャンS組からは15アーバニティ(牡5)と見捨てられない9キンシャサノキセキ(牡6)

ちよ馬券結論

三連複軸1頭 4-5、8、9、10、13、14、15、16 28点買い

追記

13ローレルゲレイロが逃げ切り勝ち、たしかに力をつけている。4スリープレスナイトは最後伸び切れず2着。順調さを欠いたからだろうが、2着は想定内。

問題は3着の馬だ。レースの時は5トウショウカレッジが入ったと思いガッツポーズまでしたが、結果はハナ差の4着。3着は2ソルジャーズソングだった。万馬券を取り損ねて悔しい。

三連複 2-4-13 35,840円 

今年のGⅠは連敗でスタートです。ちよ馬券、次の桜花賞をお楽しみに。


ちよ散歩⑭お台場

2009-03-15 18:09:13 | まち歩き

ちよ散歩、今回はレインボーブリッジを渡りお台場まで歩きます。

103この鉄道唱歌の碑がある、新橋駅からスタートします。

1872(明治5年)新橋-横浜間で、日本初の鉄道が走りました。

実際の駅は、新橋が汐留駅で横浜は桜木町駅でした。

東京駅が出来ると烏森駅が現在の新橋駅となり、それまでの旧新橋駅貨物専用駅となり汐留駅と改称しました。

 

 

014その汐留駅は、1986(昭和61年)その使命を終え廃止されました。

貨物駅跡の発掘調査により、旧新橋駅の遺構が発見されたのです。

それに基づき、外観や位置を忠実に再現した旧新橋停車場です。

中は、鉄道歴史展示室となっています。

 

 

013これは、駅舎から伸びるプラットホームを再現したものです。

実際は、全長151.5m幅9.1mあったそうです。

この先端には、ガラス張りの遺構が見えるようになっています。

他にも、1階展示室駅舎玄関でも遺構が見られます。

 

 

021_2これは、0哩(ゼロマイル)標識と復元した軌道です。

日本最初の鉄道建設の時、新橋側の測量起点となった所です。

そこに置かれたのが、0哩標識です。

東京駅が開業するまで、東海道本線の起点となっていました。

 

 

017旧汐留貨物駅跡は、再開発で汐留シオサイトに生まれ変わりました。

手前の低い建物が、旧新橋停車場です。

後は汐留シティーセンターで、左はパナソニック電工ビルです。

 

 

 

023少し歩いて、日テレタワーに向かいます。

日テレタワーにはアンパンマンテラスがあり、そこで売っているアンパンマンあんぱんが人気です。

寄ってみると、残っていたので二個買いました。

 

 

 

長い歩道橋を渡って、汐留シオサイトをあとにします。

築地川に架かる大手門橋を、渡ります。

028浜離宮恩賜庭園に、大手門から入ります。

この庭園には、海水を引き入れた潮入の池大泉水があります。

他に、ふたつの鴨場を伝える徳川将軍家の庭園です。

背後に、汐留の高層ビルが迫ります。

 

 

032大泉水に浮かぶ、中島の御茶屋です。

将軍が、休憩し賓客をもてなした所です。

現在の建物は、1983(昭和58年)に復元したものです。

庭園は江戸時代浜御殿と呼ばれましたが、明治になってから浜離宮と改めました。

 

 

中の御門より外に出て、海岸通りを進みます。

043竹芝桟橋に隣接する、竹芝ふ頭公園です。

中央広場に、船のマストがあります。

ここには、旅客ターミナルとレストランやホテルを備えたニュートピア竹芝が建っています。

ここから、伊豆七島小笠原諸島へ出航します。

 

 

 

日の出ふ頭芝浦ふ頭と歩き続けて、ようやくレインボーブリッジのふもとまできました。

048芝浦側入口である芝浦アンカレイジから、遊歩道に出ます。

遊歩道には、ノースルートサウスルートがあります。

エレベーターも、ふたつありますので気をつけてください。

 

 

 

050エレベーターで七階まで上がり、サウスルートの遊歩道に出ました。

レインボーブリッジは、1993(平成5年)にオープンしました。

二重構造のつり橋で、上層は首都高速11号台場線です。

下層は、臨港道路、遊歩道ゆりかもめの軌道が走っています。

 

 

054遊歩道は、狭い上に車の騒音と風の音でうるさいです。

それでも、数ヶ所車道から離れナイスビューとなる所があります。

その画像で、真ん中の弧島が自然のままの第六台場です。

その向こうに、お台場のフジテレビが見えます。

 

 

059これは第三台場で、公園として開放されています。

黒船来航時、江戸を守る砲台を据え付けた島を台場と言いました。

現在では、第三・第六台場のふたつが残るだけです。

 

 

 

065台場側は、台場アンカレイジが出口ではなく遊歩道が続きます。

坂を一気に下って行くと、ノースルートといっしょになります。

画像の、左が通ってきたサウスルートで右がノースルートでここでいっしょになります。

ここまで出会った人は、エレベーターですれ違ったひとりだけでした。

 

 

台場側入口からレインボーブリッジを出て、臨海副都心へと入って行きます。

068すぐに、人工の砂浜が続くお台場海浜公園となります。

今は寒いので、まだ人より鳥の数の方が多いです。

砂浜を、歩いて行きます。

 

 

 

078_2フジテレビの前にある低い建物が、「AQUA CITY ODAIBA」です。

ここの5階のラーメン国技館で、昼食です。

札幌から博多まで、6店舗の強者たちの饗宴です。

とんこつが大好きなので「博多秀ちゃんラーメン」に入りましたが、濃厚豚骨のコクのあるスープで大満足でした。

 

 

084_2この自由の女神像は、パリセーヌ川にある女神像の完全復刻像です。

オリジナル像と、形はもちろん同じ工房鋳造製法で製作されました。

この台座上には、1998(平成十年)日仏友好のためフランス本国の女神像が移築されたことがありました。

それは、パリを離れた世界初の海外公開でした。

 

 

お台場海浜公園から、海沿いの道を奥へ歩いて行きます。

091静かな公園である潮風公園が、あります。

向う岸の品川ふ頭辺りの大型クレーンが、よく見えます。

湾岸道路の上を渡って行くと、大型帆船が見えてきます。

ちょうど、海王丸遠洋航海から帰ってきたところでした。

 

 

093さらに、青函航路羊蹄丸(ようていまる)が係留されています。

1988(昭和63年)青函トンネルが完成し、それに伴い青函航路は約80年の幕を閉じました。

羊蹄丸は、最後までその任務を遂行しました。

 

 

 

094そのとなりには、日本初の南極観測船宗谷が展示されています。

宗谷は、1956(昭和31年)より6次の南極観測に活躍しました。

その後は、海上保安庁巡視船として退役するまで活躍しました。

 

 

 

099この建物は、船の科学館です。

科学館が船の形をしていて、煙突マスト展望台になっています。

ゆりかもめ船の科学館駅が、ゴールです。

往きは新橋から何時間もかかったのに、帰りはゆりかもめであっという間でした。

 

 

104本日のおみやげは、アンパンマンテラスのアンパンマンあんぱんです。

 

 

 

 

-ちよ散歩⑭お台場・おわり- 

 


ファイティング原田の大番狂わせ

2009-03-04 17:19:11 | スポーツ

1965(昭和四十年)「黄金のバンタム、史上最強の王者エデル・ジョフレ(ブラジル)来日」新聞の活字が躍った。

世界バンタム級チャンピオンエデル・ジョフレが来日した。戦績は49戦無敗で、過去8度の防衛戦はすべてKO勝ちという怪物だった。

迎え撃つ挑戦者は若きファイティング原田。自分が初めてファンになったプロボクサーで、フライ級からバンタム級へクラスを上げての挑戦だった。

自分はこの王者が来日した時から恐ろしくて、自分が戦うわけではないのに怖かった。とうてい原田が勝てる相手だとは思っていなかった。KO負けする場面ばかりが頭にちらついた。

5月18日名古屋世界バンタム級タイトルマッチのゴングが鳴った。当時はプロレスとともにボクシングも人気があり、国民的スポーツだった。テレビの視聴率は50%を超えたのではないか。自分は緊張のあまり気持ち悪くなった。

試合は・・・。原田は初回から挑戦者らしく怖いもの知らずで前へ前へと突進していった。時たまパンチをもらったが一進一退だった。当時世界戦は15回制で、終盤はスタミナ勝負のところがあった。原田はけっしてパンチ力がある方ではなかったが、スタミナにはめっぽう自信がありそれに基づくラッシュ戦法が武器となっていた。とうとう怪物相手に15回を戦い抜き、勝敗は判定に持ち込まれた。とにかく原田がKO負けしなかったのがうれしかったのを憶えている。

判定の結果、原田が2-1の僅差で勝ち最強王者ジョフレに初黒星をつけ新チャンピオンとなる。これは「世紀の大番狂わせ」となり世界中を驚かせた。自分は夢心地で雄叫びを上げた。

 

原田はこれで二階級制覇となった。これより三年前原田は世界フライ級チャンピオンポーン・キングピッチ(タイ)に挑戦し、11回KO勝ちでタイトルを獲得しているのだった。

こちらの試合の方が強烈な記憶がある。11回原田はチャンピオンをコーナーに追いつめるとラッシュの嵐で何十発という連打を打ち続けKO勝ちした。原田は19歳という若さで白井義男以来日本人二人目の世界チャンピオンとなったのだ。この時初めてファイティング原田を知り、応援するようになる。しかしタイで行われたリターンマッチでは負けてしまう。

そのすぐ後原田のライバル海老原博幸がキングピッチに挑戦し1回鮮やかなKO勝ちでチャンピオンとなるが、原田と同じようにリターンマッチで敗れてしまう。このライバルは以前新人戦でぶつかりその時は原田が勝っていた。

 

世界バンタム級チャンピオンとなった原田は初防衛戦を完勝して、翌年2度目の防衛戦相手に元チャンピオンのジョフレを選んだ。いわばリターンマッチだったが、今度は負けるのではないかという心配をよそに3-0の判定で決着をつけた。

これは知らなかったのだが、ジョフレはその後クラスを上げ世界フェザー級の王座を獲得している。生涯78戦しているが、負けたのは原田の2戦だけだそうだ。

原田の3度目の防衛戦相手は修行時代負けを喫していたジョー・メデル(メキシコ)だった。メデルは「ロープ際の魔術師」と呼ばれテクニシャンであった。しかし原田は危なげなく若い頃の雪辱を果たした。

原田は4度目の防衛戦に勝ち、5度目の防衛戦に選んだ相手はライオネル・ローズ(オーストラリア)だった。原田はこのローズに判定で破れ5度目の防衛戦に失敗する。ローズは原田を倒したことにより国民的ヒーローとなる。

 

その後、原田はさらに階級を上げフェザー級でチャンピオンのジョニー・ファメション(オーストラリア)に敵地で挑戦する。この試合原田は3度のダウンを奪うも疑惑の判定負けとなる。

1970(昭和45年)1月東京で再度ファメションに挑戦するも14回KO負けする。その3週間後原田は引退を表明した。原田は生涯日本人ボクサーには負けていない。

原田は現在日本ボクシング協会会長を勤め、アメリカで日本人ボクサーとしてはただひとり世界の殿堂入りを果たしている。

当時は階級も少なく、協会もひとつで世界にチャンピオンは11人しかいなかった。そのうえで最強の王者ジョフレを破ったことはとてつもないことで、それを殿堂入りしたことで世界が認めているのだ。

当時世界中を驚かせた「世紀の大番狂わせ」としては、ファイティング原田がジョフレを破ったのと翌年イングランドで行われたワールドカップサッカー北朝鮮イタリアを1-0で破ったのが双璧であろう。

報知新聞「主役再び」を参考にしました。