ちよ
散歩、今回は隅田川に架かる橋をめぐりながら白鬚橋まで歩きます。
靖国通りが通る両国橋から、スタートします。
武蔵と下総との二国を結ぶ橋であるところから、両国橋と呼ばれました。
1657(明暦3年)明暦大火(振袖火事)後に、この橋が架けられました。
この橋が出来たので、本所や深川が江戸新市街として発展しました。
現在の橋は、1932(昭和7年)に完成したものです。
両国と言えば大相撲ですが、新国技館が出来て「大相撲の町両国」が復活しました。
それまでの大相撲は、蔵前国技館で行われていたのです。
両国橋を、渡って行きます。
回向院(えこういん)が、あります。
この寺は、明暦大火での犠牲者を弔うため建立されました。
江戸時代、この回向院で勧進相撲が始まりました。
その事から、ドーム型屋根の旧国技館がこの境内に1909(明治42年)完成しました。(戦後は日大講堂)
回向院前から、両国駅に向かいます。
両国駅までの歩道には、力士像と歴代横綱の手形が並んでいます。
画像下の方が、宿敵ライバルの栃錦(左)と初代若乃花(右)の手形です。
物心ついた時からなぜか栃錦の大ファンで、栃錦が負けると泣いていたそうです。
両国駅、目の前が両国新国技館です。
新国技館は、1985(昭和60年)初場所より使用されています。
総工費150億円を、借金なしでまかないました。
これは、当時の理事長春日野親方(元横綱栃錦)の功績です。
ちょうど、初場所の真っ最中でたくさんののぼりが掲げられています。
うしろの高みやぐらは、やぐら太鼓を打ち鳴らす所です。
新国技館では、開館から千代の富士が7回連続で優勝していました。
力士入口では、関取が通るたびに鬢付け油の甘い香りが漂います。
入口付近では見る場所が限られ、しかも黒山の人だかりで関取の後ろ姿しか撮れませんでした。
この関取は、関脇把瑠都でしょうか。
ただし横綱や大関は、ここからは入らないそうです。
他の関取も見たかったのですが、先を急ぐので新国技館をあとにします。
新国技館のすぐとなりには、この江戸東京博物館があります。
一階展示場では、「珠玉の輿(たまのこし)」と題して天璋院篤姫の駕籠などが公開されていました。
この博物館は、1993(平成5年)開館です。
北に、向かいます。
まず、あるのが横網町公園です。
ここには、関東大震災記念屋外ギャラリーがあります。
手前は、東京高等商船学校内で焼損した魚雷の残がいです。
奥は、淀橋浄水場に山積みされていた水道の幹線が損壊されたものです。
隅田川の方へ、もどります。
旧安田庭園が、あります。
1891(明治24年)安田財閥の創始者初代安田善次郎の所有となりました。
この庭園は、いわゆる潮入り池泉廻遊式庭園です。
画像の建物は、両国公会堂です。
旧安田庭園から、隅田川の堤防に上がります。
すると、蔵前橋通りに架かる蔵前橋が見えます。
蔵前には幕府の御米蔵があり、その蔵の前の地というのが地名になったと言われています。
関東大震災後の1927(昭和2年)、新しい構造の橋が完成しました。
堤防から川側に降りて、隅田川テラスの上を歩きます。
やがて、春日通りが通る厩橋(うまやはし)が見えてきます。
三連アーチ形の橋で、特異な姿を誇っているかのように見えます。
近くには、たくさんの屋形船が係留されています。
アーチの曲線がすばらしく、頑丈さも伝わってきます。
厩の名は、御米蔵に付属する御厩があったことに由来します。
厩とは、馬小屋のことです。
この厩橋も、大震災後の1929(昭和4年)に完成しました。
さらに、鮮やかなライトブルーの駒形橋が見えてきます。
駒形橋は、浅草通りが通っています。
駒形の名は、駒形堂に由来しています。
もともと古来から交通の要地で、「駒形の渡し」のあった所です。
優美なアーチの駒形橋を、渡ります。
この日は、陽が燦燦として暖かく気持ちがいいです。
この駒形橋も、大震災後復興事業の一環として新しい橋として1927(昭和2年)に完成しました。
駒形橋を渡ったところにあるのが、駒形堂です。
駒形橋の、名前の由来になりました。
ただし、現在のお堂は2002(平成15年)に再建されたものです。
船で浅草寺参詣に訪れた人は、まずこの地に上陸し駒形堂をお参りして観音堂へと向かったそうです。
江戸通りを北へ向かうと、吾妻橋交差点に出ます。
ここに、東武浅草の駅があり駅ビルは松屋デパートとなっています。
ちょうど腹が減ってきたので、駅ビルの地下街に入ってみます。
昔なつかしいような店が、並んでいます。
その中の「浅草焼きそば福ちゃん」で昼食です。
大盛なのに400円の安さで、味もなつかしい味です。
吾妻橋を渡って行くと、今や浅草の新ランドマークと言える「炎のオブジェ」が見えてきます。
これは、アサヒビールスーパードライホールの上にあります。
「躍進するアサヒビールの心」を、象徴しています。
これは、渡ってきた吾妻橋です。
もとは「竹町の渡し」があった所で、江戸時代住民によって有料の橋が架けられたのが始まりです。
現在の橋は、1931(昭和6年)に完成されたものです。
吾妻の名は、古来東国を総称するあずまに由来しています。
隅田川を離れて、浅草通りを東に向かいます。
東京スカイツリーの工事現場に、行って見ることにしました。
画像は、北十間川越しに撮ったものです。
まだまだ、基礎工事の段階です。
東京スカイツリーは、業平橋駅と押上駅の間に2011(平成23年)末に完成予定です。
隅田川に、もどります。
途中、隅田公園の中にある牛嶋神社に寄ります。
ここでは、撫牛(なでうし)が迎えてくれます。
撫牛とは、自分の体の悪い部分をなで牛の同じところをなでると病気が治ると言うものです。
なでられ過ぎて、光っています。
隅田川 の川岸に、もどります。
すぐ見えるのが、言問橋(ことといはし)です。
言問橋は、水戸街道や言問通りが通っています。
言問の名称は、在原業平が詠んだ「~いざこと問はむ都鳥~」の歌に因んでいます。
この言問橋も、大震災後の1928(昭和3年)完成です。
向こう岸に、前回行った待乳山聖天(ちよ散歩⑪浅草界隈参照)が見えます。
広重らが待乳山聖天を描いた頃は、今より絶景だったのでしょう。
ほどなく、桜橋が見えてきます。
桜橋は、台東区と墨田区の姉妹区協定の記念に造られました。
歩行者専用橋として、1985(昭和60年)に完成した新しい橋です。
SAKURA(CHERRY BLOSSON)BRIDGEと、書かれています。
この橋が完成した時、ワシントンD.Cより桜が贈られてきました。
もともとポトマック河畔の桜は、明治末期に東京市が贈ったものです。
約七十年の時を経て、その桜の子孫が再び向島に帰ってきました。
隅田川の堤防から陸橋を渡って、長命寺に向かいます。
「長命寺桜もち」の山本やに寄り、桜もちを買いました。
ここの桜もちは桜の葉が三枚巻かれていますが、桜の葉は食べずに香りを楽しむのが通だそうです。
墨堤通りを、北へ向かいます。
しばらく歩くと、東向島の白鬚神社があります。
951(天暦5年)慈恵大師が、白鬚大明神の御分室を祀ったと伝えられています。
隅田川七福神詣では、寿老人として親しまれています。
再び、隅田川の堤防に上がります。
ゴールの白鬚橋(しらひげはし)が、見えます。
白鬚の名は、向島白鬚神社に由来します。
大震災後、1931(昭和6年)重量感あふれるアーチ橋として架けかえられました。
明治通りが通る白髭橋は、重要な橋となっています。
白鬚橋を渡り、明治通りを進んで最後に少し寄道です。
三ノ輪橋近くにある、この浄閑寺(じょうかんじ)という所です。
新吉原の遊女が亡くなると、亡骸は浄閑寺に運び込まれたのです。
1825(文政8年)大地震では、遊女が投げ込み同然に葬られました。
そのことから、投込寺と呼ばれるようになったそうです。
本日のおみやげは、長命寺門前山本やの「長命寺桜もち」です。
-ちよ散歩⑫隅田川白髭橋・おわり-