Forever hill

男は夢に追われる孤独なランナー

フェブラリーSもっか7連勝中

2009-02-21 21:52:29 | ギャンブル

待ちに待った今年初めてのGⅠとなるフェブラリーSがやってきました。

フェブラリーSとは非常に相性が良く、'02から昨年までもっか7連勝中です。に比べるとダートは実力通り決まるケースが多いような気がします。

さて今年は・・・。

過去三年間の優勝馬9ヴァーミリアン、3サンライズバッカス、2カネヒキリの七歳馬トリオが揃って出場する。

対する四歳馬トリオも強力で14カジノドライヴ、15サクセスブロッケン、12エスポワールシチーが挑戦する。

その間の世代にも根岸S上位組の16フェラーリピサ、7ヒシカツリーダー、5バンブーエールなどが虎視眈々。

今年の予想は世代交代があるかどうかがカギとなる。

本命は・・・。

ずばり世代交代は今の時点ではない。七歳馬が強い。

中でも昨年のフェブラリーSや三着だったJCダートで儲けさせてもらった9ヴァーミリアンを本命にする。肩の出が悪く調教を一日延ばしたのが微妙だが、冬にはよくあるそうで問題なしと見た。

ヒモは書いた馬すべてに流す。やはり2カネヒキリが怖い。

-結論-

三連複軸一頭流し 9-2、3、5、7、12、14、15、16 28点買い

追記

完敗です。世代交代は行われた。サクセスブロッケン、カジノドライヴの四歳馬がワンツーフィニッシュで、四歳馬を甘く見た。屈腱炎克服した七歳馬カネヒキリの三着には頭が下がります。

この三頭は先行して直線叩きあいレコード決着。レースそのものは見ごたえありました。七歳馬は勝てないというデータは生きていた。

馬券はお呼びでなかった。ヴァーミリアンは四コーナーで少し置いていかれとどかず六着。でも衰えるにはまだ早い、中距離ならまだ行ける。

三連複 2-14-15  5,730円 ハズレ

次は高松宮記念でお会いしましょう。


長嶋監督初の日本一

2009-02-17 01:03:59 | スポーツ

いよいよWBCが始まりますが、日本人のメジャーリーガーを身近に感じ応援出来るのはこの時だけです。WBCで選手はやってくれるでしょう。心配なのは監督だけです。

昨年の日本シリーズで先発陣をリリーフに惜しげもなく起用したL渡辺監督に対して、G原監督は公式戦のようにローテーションを守り、第7戦8回の大ピンチではどう見ても限界だった越智を続投させた。なぜ山口を、いや上原をリリーフで起用しなかったのか疑問だ。実際上原はベンチにも入れてない。今頃になって文句を言うのはまだ悔しさが抜けてないからだ。

監督の執念の差が勝敗を分けた。勝負は時の運で負けてもしかたない。けれども悔いの残らないねばりのある采配をしてもらいたい。

でもファンはわがままだから野球は勝ってこそおもしろい。結果がすべてだ。一年総決算の試合でこんな情けない野球を見せられたらファンは離れていく。責任はすべてビビリまくった原監督にある。それなのに何でWBC監督がなのか。なべ久でいいでしょう。

 

FAでいい選手ばかりを取っているのに日本一にとどかないだが、胸躍りエキサイティングな年もあったのだ。それはあの10・8決戦1994年である。監督は長嶋だった。

その年のは8/2の時点でに9ゲーム差をつけて首位を独走していた。8/18にはマジック25が早くも点灯していた。

ピッチャー三本柱は槙原・斉藤・桑田。クリーンアップは松井・落合・原。こんな夢のようなビックネームが並んだ時もあったのだ。5/18槙原戦でパーフェクトゲームを達成していた。

このまま独走優勝だ、誰もがそう思った。しかし8月末から8連敗して、9/3には10連勝して2位に浮上したに3ゲーム差に迫られてしまった。もちろんマジックも消えた。

それでも薄氷を踏む思いで何とか持ちこたえていたが、9/28戦で負けてとうとうに同率首位で並ばれてしまったのである。この時点で両チーム残り5試合。

は7連勝となり勢いは完全に上だった。次の日9/29も戦があったのだが(実はこの試合は9/27に中止になってこの日に組み込まれていたものだった)、ところが運命のいたずらか台風が上陸してまたもや中止となってしまった。2度の中止でこの試合は10/8最終戦に組み込まれたのだ。しかしこの時点では消化試合になる可能性もあった。

その後は9連勝まで伸ばすもも負けじと3連勝し、10/5には桑田戦で8回2死までノーヒットノーランを続ける力投を見せた。この時点でに1ゲーム差をつけて両チーム残り2試合のところまできた。

そして10/6D10-2T、S6-2G槙原痛恨のリリーフ失敗。かくして69勝60敗で同率となり、10・8D-G最終決戦となるのである。あの9/29中止でなかったらの勢いに屈していただろう。は最後のチャンスを台風にもらったのだ。

優勝決定戦ともいえる10/8の先発は槙原斉藤は中継ぎで好ロングリリーフ。そして押さえが桑田。最終戦に三本柱をもってくるゾクゾクするような采配を長嶋監督はやってのけた。打つ方でも落合松井のホームランなどで6-3を破りリーグ優勝を飾ったのである。

その勢いで日本シリーズでは過去三度叩きのめされてきた王者にも槙原の活躍などにより4勝2敗で初めて勝ち、長嶋監督として初の日本一に輝くのである。

 

ファンはひいきのチームが勝った時は記憶にとどめようとするが、負ければとたんに忘れてしまう。でも昨年の日本シリーズのように悔しくて忘れられない試合もたまにはある。


ちよ散歩⑬隅田川勝鬨橋

2009-02-11 17:05:02 | まち歩き

ちよ散歩、今回は前回の続きで隅田川に架かる橋をめぐりながら勝鬨橋まで歩きます。

前回と同じく両国橋からスタートしますが、反対方向の南へ進みます。

001西側土手沿いを行くと、右下に浜町公園が見えてきます。

江戸時代、両国橋から河口までの西岸は浜町と呼ばれていました。

明治になって、その俗名を町名としました。

 

 

 

014新大橋通りが通る新大橋が、見えます。(逆光のため橋の画像は散歩の方向とは逆になります)

江戸時代、両国橋が「大橋」と呼ばれていました。

新しく架けられたこの橋を、「新大橋」と称しました。

現在のモダンな橋は、1977(昭和52年)に架けかえられたものです。

 

 

新大橋を渡り、東側堤防の上を歩きます。

019この辺りは、俳聖芭蕉深川芭蕉庵があった所です。

小名木川沿いの芭蕉記念館分室には、芭蕉翁之像があります。

芭蕉は病没までの約15年間、芭蕉庵を本拠として旅に出ていました。

「奥の細道」もこの庵から出船していますが、現在でも芭蕉庵の正確な位置はわかっていません。

 

 

小名木川に架かる萬年橋を渡り、清洲橋通りを横断して行きます。

026すると、清澄公園があります。

画像は、清澄公園はずれにある時計台です。

清澄公園は、清澄庭園西側の隣接地を買収して開園されました。

 

 

 

 

036となりにあるのが、清澄庭園です。

初めは、明治時代岩崎弥太郎が造園させ開園しました。

その後、1932(昭和7年)東京市が清澄庭園として開園しました。

これは、池の端に石を飛び飛びに置いて歩けるようにした「大磯渡り」です。

 

 

清洲橋通りを、清洲橋(きよすはし)に向かいます。

044清洲の名は、深川清澄町日本橋中洲町を結ぶことに由来します。

清洲橋は、関東大震災復興事業によって建造されました。

ドイツケルンの大吊橋に範をとり、女性的な曲線美をもつ吊橋として1928(昭和3年)に完成しました。

 

 

 

清洲橋を渡って、日本橋寄りの隅田川テラスを行きます。

051見えてくるのが、隅田川大橋です。

この橋は、首都高9号線都道が重なった珍しい橋です。

1979(昭和54年)に完成した新しい橋でもありますが、残念ながら塗装工事中でした。

全景は、見えません。

 

 

隅田川大橋を渡り、今度は深川寄りのテラスを行きます。

054永代橋(えいたいはし)が、すぐに見えてきます。

佐賀町付近が、昔永代島と呼ばれたので永代橋と名付けられました。

江戸元禄年間に架けられ、あの赤穂浪士も討入り後まだ新しい永代橋を渡って泉岳寺に向かったそうです。

男性的な重量感をもつ橋として、1926(大正15年)に完成しました。

 

 

ここで隅田川を離れ、永代通りを東に向かいます。

063門前仲町の交差点を過ぎると、深川不動尊があります。

深川不動尊は、成田山不動堂新勝寺の出張所とされています。

本堂が、1881(明治14年)建立されました。

 

 

 

067すぐとなりにあるのが、富岡八幡宮です。

江戸の初め長盛法院が、永代島周辺を埋立て八幡宮を創祀したのが始まりです。

古くは、永代島八幡宮とも言われていました。

昔から「神輿深川」と言われ、日本一の大神輿で有名でした。

 

 

この日は寒かったので、富岡八幡宮門前にある「そば処中むら」で早めの昼食です。

永代通りをもどり、永代橋を渡ります。

076_2隅田川支流の日本橋川に架かる豊海橋(とよみはし)に、行きます。

日本橋川は、江戸城と隅田川を一直線に結ぶ運河として重要でした。

豊海橋のように、支流河口部の第一橋梁はデザインを変えて区別しやすく工夫していました。

これは、隅田川から帰港する船頭に対する配慮でした。

 

 

再び、西側テラスを南へ進みます。

085隅田川と晴海運河に分かれていく間に建つ佃島高層マンション群が、目の前に迫ってきます。(画像は逆光で暗いです)

ここは、石川島播磨重工業工場跡地でした。

このマンション群は、大川端都市整備計画によって建てられたものです。

 

 

 

余談ですがテラスには撮影クルーがいましたが、その中に泉ピン子金子貴俊を見つけました。

中央大橋を渡り、佃島の堤防上にある佃公園を進みます。

090中央大橋は、1993(平成5年)に完成した新しい橋です。

家康本能寺の変の時、大阪佃村の人々に助けられた恩で漁師達を招いて佃島に住まわせました。

佃島は、その漁師達が幕府の許可を得て築造した漁村です。

彼らには、江戸近海で特権的に漁が出来るようにしました。

 

 

さらに、佃公園を進みます。

0961964(昭和39年)完成の佃大橋(つくだおおはし)があります。

この橋が出来るまで、三百年の歴史を持った「佃の渡し」がありました。

この橋のたもとには、「佃島渡船」石碑があります。

この石碑は、1927(昭和2年)無償曳船渡船となり手こぎ渡船を廃止した記念に建てられました。

 

 

佃大橋を渡り、築地寄りのテラスを進みます。

102テラス工事中のため、道路から勝鬨橋(かちどきはし)に向かいます。

勝鬨の名は、勝ったときにあげる「かちどき」からとったものです。

日露戦争を祝って、1905(明治38年)「勝鬨の渡し」を造りました。

「勝鬨の渡し」は、勝鬨橋が架けられると廃止されました。

 

 

109_2勝鬨橋は、1940(昭和15年)に完成した特異な橋です。

中央二連が、ハの字形に跳ね上がる可動橋でした。

画像は、跳ね上がる橋の先端部でここが跳ね上がっていきました。

しかし、昭和43年頃から船の減少や交通渋滞などにより開かなくなりました。

この勝鬨橋が、ゴールです。

 

 

115帰りに寄ったのは、浄土真宗本願寺派築地本願寺です。

これは、異色な古代インド仏教様式本堂です。

江戸時代明暦大火で焼失後幕府から八丁堀海上が与えられ、そこを埋め立てて造られたのが築地本願寺です。

築地の地名は、「新たに築いた土地」という意味をもちます。

 

 

122本日のおみやげは、深川不動尊入口にある深川伊勢屋「あんみつ」です。

 

 

 

 

-ちよ散歩⑬隅田川勝鬨橋・おわり- 


ちよ散歩⑫隅田川白鬚橋

2009-02-01 00:28:21 | まち歩き

ちよ散歩、今回は隅田川に架かる橋をめぐりながら白鬚橋まで歩きます。

005靖国通りが通る両国橋から、スタートします。

武蔵下総との二国を結ぶ橋であるところから、両国橋と呼ばれました。

1657(明暦3年)明暦大火(振袖火事)後に、この橋が架けられました。

この橋が出来たので、本所深川江戸新市街として発展しました。

 

 

 

006現在の橋は、1932(昭和7年)に完成したものです。

両国と言えば大相撲ですが、新国技館が出来て「大相撲の町両国」が復活しました。

それまでの大相撲は、蔵前国技館で行われていたのです。

 

 

 

両国橋を、渡って行きます。

003回向院(えこういん)が、あります。

この寺は、明暦大火での犠牲者を弔うため建立されました。

江戸時代、この回向院で勧進相撲が始まりました。

その事から、ドーム型屋根の旧国技館がこの境内に1909(明治42年)完成しました。(戦後は日大講堂

 

 

回向院前から、両国駅に向かいます。

011両国駅までの歩道には、力士像歴代横綱の手形が並んでいます。

画像下の方が、宿敵ライバルの栃錦(左)と初代若乃花(右)の手形です。

物心ついた時からなぜか栃錦の大ファンで、栃錦が負けると泣いていたそうです。

 

 

 

 

016両国駅、目の前が両国新国技館です。

新国技館は、1985(昭和60年)初場所より使用されています。

総工費150億円を、借金なしでまかないました。

これは、当時の理事長春日野親方(元横綱栃錦)の功績です。

 

 

014ちょうど、初場所の真っ最中でたくさんののぼりが掲げられています。

うしろの高みやぐらは、やぐら太鼓を打ち鳴らす所です。

新国技館では、開館から千代の富士が7回連続で優勝していました。

 

 

 

019力士入口では、関取が通るたびに鬢付け油の甘い香りが漂います。

入口付近では見る場所が限られ、しかも黒山の人だかりで関取の後ろ姿しか撮れませんでした。

この関取は、関脇把瑠都でしょうか。

ただし横綱大関は、ここからは入らないそうです。

 

 

 

他の関取も見たかったのですが、先を急ぐので新国技館をあとにします。

024新国技館のすぐとなりには、この江戸東京博物館があります。

一階展示場では、「珠玉の輿(たまのこし)」と題して天璋院篤姫駕籠などが公開されていました。

この博物館は、1993(平成5年)開館です。

 

 

 

北に、向かいます。            

041まず、あるのが横網町公園です。

ここには、関東大震災記念屋外ギャラリーがあります。

手前は、東京高等商船学校内で焼損した魚雷の残がいです。

奥は、淀橋浄水場に山積みされていた水道の幹線が損壊されたものです。

 

 

隅田川の方へ、もどります。

029旧安田庭園が、あります。

1891(明治24年)安田財閥の創始者初代安田善次郎の所有となりました。

この庭園は、いわゆる潮入り池泉廻遊式庭園です。

画像の建物は、両国公会堂です。

 

 

旧安田庭園から、隅田川の堤防に上がります。

045すると、蔵前橋通りに架かる蔵前橋が見えます。

蔵前には幕府御米蔵があり、その蔵の前の地というのが地名になったと言われています。

関東大震災後の1927(昭和2年)、新しい構造の橋が完成しました。

 

 

 

堤防から川側に降りて、隅田川テラスの上を歩きます。

050やがて、春日通りが通る厩橋(うまやはし)が見えてきます。

三連アーチ形の橋で、特異な姿を誇っているかのように見えます。

近くには、たくさんの屋形船が係留されています。

 

 

 

015アーチの曲線がすばらしく、頑丈さも伝わってきます。

の名は、御米蔵に付属する御厩があったことに由来します。

厩とは、馬小屋のことです。

この厩橋も、大震災後の1929(昭和4年)に完成しました。

 

 

057_2さらに、鮮やかなライトブルーの駒形橋が見えてきます。

駒形橋は、浅草通りが通っています。

駒形の名は、駒形堂に由来しています。

もともと古来から交通の要地で、「駒形の渡し」のあった所です。

 

 

059_2優美なアーチの駒形橋を、渡ります。

この日は、陽が燦燦として暖かく気持ちがいいです。

この駒形橋も、大震災後復興事業の一環として新しい橋として1927(昭和2年)に完成しました。

 

 

 

063駒形橋を渡ったところにあるのが、駒形堂です。

駒形橋の、名前の由来になりました。

ただし、現在のお堂は2002(平成15年)に再建されたものです。 

船で浅草寺参詣に訪れた人は、まずこの地に上陸し駒形堂をお参りして観音堂へと向かったそうです。

 

 

江戸通りを北へ向かうと、吾妻橋交差点に出ます。

065ここに、東武浅草の駅があり駅ビルは松屋デパートとなっています。

ちょうど腹が減ってきたので、駅ビルの地下街に入ってみます。

昔なつかしいような店が、並んでいます。

その中の「浅草焼きそば福ちゃん」で昼食です。

大盛なのに400円の安さで、味もなつかしい味です。

 

 

066吾妻橋を渡って行くと、今や浅草の新ランドマークと言える「炎のオブジェ」が見えてきます。

これは、アサヒビールスーパードライホールの上にあります。

「躍進するアサヒビールの心」を、象徴しています。

 

 

 

068これは、渡ってきた吾妻橋です。

もとは「竹町の渡し」があった所で、江戸時代住民によって有料の橋が架けられたのが始まりです。

現在の橋は、1931(昭和6年)に完成されたものです。

吾妻の名は、古来東国を総称するあずまに由来しています。

 

 

隅田川を離れて、浅草通りを東に向かいます。

073_2東京スカイツリーの工事現場に、行って見ることにしました。

画像は、北十間川越しに撮ったものです。

まだまだ、基礎工事の段階です。

東京スカイツリーは、業平橋駅押上駅の間に2011(平成23年)末に完成予定です。

 

 

隅田川に、もどります。

076途中、隅田公園の中にある牛嶋神社に寄ります。

ここでは、撫牛(なでうし)が迎えてくれます。

撫牛とは、自分の体の悪い部分をなで牛の同じところをなでると病気が治ると言うものです。

なでられ過ぎて、光っています。

 

 

隅田川 の川岸に、もどります。

081すぐ見えるのが、言問橋(ことといはし)です。

言問橋は、水戸街道言問通りが通っています。

言問の名称は、在原業平が詠んだ「~いざこと問はむ都鳥~」の歌に因んでいます。

この言問橋も、大震災後の1928(昭和3年)完成です。

 

 

向こう岸に、前回行った待乳山聖天(ちよ散歩⑪浅草界隈参照)が見えます。

084広重らが待乳山聖天を描いた頃は、今より絶景だったのでしょう。

ほどなく、桜橋が見えてきます。

桜橋は、台東区墨田区姉妹区協定の記念に造られました。

歩行者専用橋として、1985(昭和60年)に完成した新しい橋です。

 

 

025_2SAKURA(CHERRY BLOSSON)BRIDGEと、書かれています。

この橋が完成した時、ワシントンD.Cより桜が贈られてきました。

もともとポトマック河畔の桜は、明治末期東京市が贈ったものです。

約七十年の時を経て、その桜の子孫が再び向島に帰ってきました。

 

 

087隅田川の堤防から陸橋を渡って、長命寺に向かいます。

「長命寺桜もち」山本やに寄り、桜もちを買いました。

ここの桜もちは桜の葉が三枚巻かれていますが、桜の葉は食べずに香りを楽しむのが通だそうです。

 

 

 

墨堤通りを、北へ向かいます

090しばらく歩くと、東向島白鬚神社があります。

951(天暦5年)慈恵大師が、白鬚大明神の御分室を祀ったと伝えられています。

隅田川七福神詣では、寿老人として親しまれています。

 

 

 

再び、隅田川の堤防に上がります。

093ゴールの白鬚橋(しらひげはし)が、見えます。

白鬚の名は、向島白鬚神社に由来します。

大震災後、1931(昭和6年)重量感あふれるアーチ橋として架けかえられました。

明治通りが通る白髭橋は、重要な橋となっています。

 

 

白鬚橋を渡り、明治通りを進んで最後に少し寄道です。

101三ノ輪橋近くにある、この浄閑寺(じょうかんじ)という所です。

新吉原遊女が亡くなると、亡骸は浄閑寺に運び込まれたのです。

1825(文政8年)大地震では、遊女が投げ込み同然に葬られました。

そのことから、投込寺と呼ばれるようになったそうです。

 

 

108本日のおみやげは、長命寺門前山本やの「長命寺桜もち」です。

 

 

 

 

-ちよ散歩⑫隅田川白髭橋・おわり-