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ちよ旅9板橋区砲兵本廠

2015-03-28 20:12:08 | まち歩き

ちよ、今回は消失が心配される板橋区砲兵本廠(ほうへいほんしょう)の遺構を探しに行きます。

板橋区砲兵本廠とは、明治政府旧加賀藩江戸下屋敷跡一帯に造った火薬製造所のことです。

1876(明治9)「陸軍砲兵本廠板橋属廠」として創業を開始しました。

  

加賀西公園にある、圧磨機圧輪(あつまきあつりん)記念碑です。(上) 

この圧磨機圧輪は、黒色火薬を製造するための機械です。

圧磨機は水車の動力で動くため、石神井川が流れるこの場所は最適でした。

しかし当所で無煙火薬が製造されるようになり、1906(明治39)圧磨機圧輪は使用されなくなりました。

1922(大正11)圧磨機圧輪をそのまま記念碑とし、戦後この地に移転されました。

同じ公園内に、1903(明治36)火薬製造所有志が建立した招魂之碑があります。(上)

黒色火薬は取扱いが難しく爆発事故がよくあったそうで、これは火薬製造の課程等で亡くなった方々を悼んで建てたものです。

「陸軍砲兵本廠板橋属廠」は、最終的に1940(昭和15)「東京第二陸軍造兵廠・板橋製造所(通称二造)」と名称が変わっていきます。

そして、1945(昭和20)終戦で閉鎖になるまで続きました。

これから、二造時代の遺構を探って行きます。

 

野口研究所の正門で、ここには二造時代に火薬研究所が置かれていました。(左上)

構内には、当時からの構造物が残されています。(右上)

これは、野口研究所の敷地内に残る電気軌道(トロッコ)線路敷跡です。(上 

電気軌道は十条銃包製造所王子製薬場と結び、物資や人の運搬に大きな役割を果たしました。 

加賀公園にあるこの小高い山は、旧加賀藩下屋敷の庭園にあった築山の跡です。

中腹に残るコンクリート製の構築物は、火薬研究所で行われていた弾道検査管(爆速測定管)の標的跡です。(上)

長さ十数m内径686mmのコンクリート製弾道検査管で、トンネル射場と呼ばれていました。

 

金沢橋から見た石神井川ですが、桜はまだ五分咲きと言ったところでしょうか。(上)

 

埼京線に架かる十条台橋から、南側を見たところです。

線路両側にあるコンクリートの土台は、トロッコの軌道設置のため建設された跨線橋(こせんきょう)跡です。(上)

  

二造の一部は、戦後の払下げ後も学校・工場・研究所等として利用されました。

これらも二造時代からの建物と思われるもので、理化学研究所・板橋分所(左上、中上)と愛歯技工専門学校です。(右上)

 

石神井川沿いのみどり橋緑地に、レンガのモニュメントがあります。(左上)

このモニュメントは、二造時代ここの敷地にあったレンガ造建物の壁をかたどっています。

そして、その一部には当時のレンガ造建物の壁をそのまま保存利用しています。(右上)

桜越しの帝京大学附属病院ですが、桜はまだ五分咲きです。(上)

 

民家の前にある二造との境界線に置かれたと見られる石柱で、陸軍用地と書かれています。(左上)

金沢小学校の校庭には、二造で使用していた消火栓が保存されています。(右上)

星の印は、陸軍のマークです。

こういった遺構は、戦争を風化させないためにも残していってもらいたいものです。

ーちよ旅9板橋区砲兵本廠・おわりー