Forever hill

男は夢に追われる孤独なランナー

ちよ散歩③旧中山道日本橋

2008-09-28 23:49:48 | まち歩き

ちよ散歩、今回は前回の続きで旧中山道日本橋まで歩きます。

004前回ゴールの旧中山道板橋平尾宿から、スタートします。

すぐに、滝野川銀座の商店街になります。

そこに亀の子束子(たわし)本舗西尾商店があったのですが、入口に大きな亀の子束子が飾ってありました。

 

やがて、明治通りとの掘割交差点に出ます。

006交差点右に、千川上水公園があります。

玉川上水を分水したのが、千川上水です。

ここには、江戸時代沈澱池がつくられ上水はここで砂やゴミを沈殿させたあと江戸市民へ給水されました。

1880(明治13年)、王子分水との分配堰が設けられました。

この公園には、六義園へ給水していた導水門のバルブが残っています。

商店街は、庚申塚商栄会となります。

009歩いて行くと、都電の踏切があります。

ここが、都内唯一残る都電の庚申塚駅です。

踏切を渡ると、巣鴨庚申塚があります。

庚申信仰については(ちよ散歩②旧中山道板橋宿参照)。

 

011巣鴨庚申塚は、江戸と板橋宿の間で休息所として茶店などがあり賑わいを見せていました。

猿の石仏で、下に見ざる・言わざる・聞かざる三猿が見えます。

庚申信仰では、仏教では「青面金剛」を本尊としています。

神道では、申は猿の発想で「猿田彦」を担ぎ出しました。

巣鴨地蔵通商店街に入ると、景色が一変します。

015_2今日は4の日とげぬき地蔵縁日で、たいそう混みあっていました。

出店が両側に立ち並び、さらに狭くなった通りに人があふれています。

その中のひとつ、骨董品が並んでいます。

大きな招き猫が、見えます。

 

019今日は、縁日の中でも大祭と言うことでした。

人をかき分け、やっとの思いで地蔵様の入口までやって来ました。

とげぬき地蔵は、萬頂山高岩寺といいます。

開創地は神田明神下で、下谷屏風坂下を経て1891(明治24年)当地に移転しました。

とげぬき地蔵の由来は、「針を飲み込んだ女中に地蔵尊の御影を一枚飲ませると腹の中のものを吐き御影を洗ってみると飲み込んだ針がささって出て来た」というものです。

025これは境内にある洗い観音で、洗うために長蛇の列が出来ていました。

観音様に水をかけ、自分の悪いところを洗うと治るというものです。

1992(平成4年)に聖観世音菩薩像は新しくなり、同時に束子を廃止して布で洗うようになりました。

 

旧道と新道が交差する右手前に、眞性寺があります。

039江戸中期造立の地蔵尊像があるのですが、破損箇所が目立ってきたので現在修理中です。

そこで、姿を縮小した御身代わり地蔵尊を迎えることになったそうです。

江戸の各街道出入り口に建立した、江戸六地蔵尊のひとつです。

巡礼順は、第三番です。

 

旧道は終わり新道の白山通りに吸収され、ここからは新道を歩きます。

042巣鴨駅を過ぎ、千石の交差点を渡ると二又があります。

左が旧白山通りで、右が車線の広い新白山通りです。

昔は、左の道しかなく都電も走っていました。

旧白山通りが中山道で左の道を進み、東洋大学を過ぎて坂を上ったところが白山上交差点です。

直進して、左に入って行きます。

056すると、大円寺があります。

ここの墓地に、板橋区の地名高島平の由来となった人物高島秋帆の墓があります。

高島秋帆の功績は、(ちよ散歩①東京大仏参照)。

このお寺には、八百屋お七に因むほうろく地蔵があります。

放火の大罪で火あぶりの刑となったお七の罪業を救うため、熱した炮烙(ほうろく・素焼きのふちの浅い土鍋)を頭にかぶり自ら焦熱の苦しみを受けたお地蔵様とされています。

中山道を進むと本郷通りとの丁字路に出て、そこが本郷追分です。

063ここは、日本橋から来ると日光御成道(岩槻街道)との分かれ道です。

中山道最初の一里塚があり、追分一里塚とも呼ばれていました。

正面は東京大学で、この丁字路を右に曲がります。

東大の赤レンガの壁が続き、やがて正門を通ります。

 

067さらに、赤門を通ります。

赤門は、加賀藩主前田斉泰に嫁いだ徳川家斉の息女溶姫(やすひめ)のために建てられた朱塗りの御守殿門です。

雑踏が気にかかると、そこが本郷三丁目交差点です。

 

古川柳「本郷も かねやすまでは 江戸の内」とあり、この交差点の角にかねやすの店があります。

しばらく、本郷通りを行きます。

074東京医科歯科大学の高い建物を仰ぎ見て過ぎると、湯島聖堂です。

右に曲がって聖橋手前の聖門(ひじりもん)から、湯島聖堂に入ります。

階段を下りると、唯一焼け残った入徳門(にゅうとくもん)があります。

さらに進むとこの孔子の銅像が現れ、高さは4.5mあります。

徳川綱吉は1690(元禄3年)湯島聖堂を創建し、孔子を祀る大成殿(孔子廟)学舎を建て学問を奨励しました。

入徳門は工事中で通れませんので、横の迂回路を行きます。

078階段を上ると、杏壇門(きょうだんもん)があります。

この門をくぐると、この大成殿と左右には回廊があります。

土・日曜・祭日は、大成殿の中が公開されます。

1797(寛政9年)江戸幕府は学舎拡げて、孔子の生まれた中国昌平郷の地名をとって昌平坂学問所を開きました。

本郷通りを隔てて、神田明神があります。

084これは、随神門です。

両側には甘酒屋・土産屋・食事処などが並んでいます。

その中のあまざけ茶屋天野屋で、麹で作った明神甘酒を買いました。

徳川家康が幕府を開き江戸城を拡張された時、江戸城から表鬼門に当たる現在の地へ遷座しました。

坂を下り明神下交差点を右に曲がり、昌平橋の所で左に曲がります。

096この辺りは、秋葉原の電気街です。

中央通りに出た所で、右に曲がりこの万世橋を渡ります。

橋を渡った所に見えるビルが肉の万世で、昼食はここの1階で排骨ラーメンを食べました。

 

このそばには子供の頃によく通った交通博物館がありましたが、現在は閉鎖されました。

103交通博物館は、その昔あった万世橋駅の跡に建てられていました。

万世橋からは、真っすぐであと少しです。

靖国通り須田町交差点をぬけ神田駅のガード下をくぐり、この三越本店を通り過ぎます。

 

ついに、日本橋のゴールに着きました。

111日本橋は1603(慶長8年)創架され、五街道の起点と定められました。

現在の橋は、石造二連アーチ道路橋として1911(明治44年)完成しました。

この橋銘の文字は、第15代将軍徳川慶喜の筆によるものです。

橋柱上の獅子は、東京の守護を表わしています。

手前の広場には日本国道路元標(複製)のプレートが埋め込まれていますが、本物は橋の中央にあるそうです。

板橋宿までは(ちよ散歩②旧中山道板橋宿)で歩いていますので、これで都内の中山道はほぼ走破したことになります。

083121本日のおみやげは、神田明神あまざけ茶屋天野屋(左)の麹で作った明神甘酒(右)です。

 

 

 

-ちよ散歩③旧中山道日本橋・おわり- 


大杉勝男の放った大飛球

2008-09-22 22:47:19 | スポーツ

メジャーリーグではホームランの判定に限りビデオ導入を決めた。

その第一号はA・ロッド(ヤンキース)の打った打球だった。審判の判定はホームランだったが相手チームからファールではないかと抗議が出てビデオ判定となった。

テレビでもスロービデオを流していたが、ボールがポールの金網に当たっているのが見えた。確かにビデオだとよくわかる。

結局ビデオ判定でもA・ロッドの打球はホームランと判定され、試合は再開された。ビデオ判定への抗議はできないそうだ。

日本でもホームランかファールかの微妙な判定は後を絶たない。その中で最も記憶に残るものは「世紀の大誤審」と言われた、大杉勝男(当時ヤクルト)の放った大飛球だ。

1978広岡監督率いるヤクルトスワローズセ・リーグ初優勝を果たし、日本シリーズでもっか三連覇中の常勝軍団阪急ブレーブスに挑戦していた。

三勝三敗で迎えた後楽園球場第七戦。ヤクルト一点リードの六回ウラ四番大杉はレフトポールぎりぎりに大飛球を放つ。

判定はホームラン。阪急上田監督の猛烈な抗議が延々と続いた。終いには当時の金子コミッショナーが説得するまでに至った。

その間テレビでは何回となく拡大されたスロービデオが流れた。自分はヤクルトを応援していたが正直ビデオを見てファールと思えた。

結局1時間19分という日本シリーズ最長の中断時間を経て試合は再開された。上田監督はこの時点で辞任を決意していたと言う。

このホームランでヤクルトは勝利を引寄せ日本一に輝く。また大杉は八回ウラに正真正銘のホームランを打ちMVPを獲得している。

もしそこにビデオ判定が導入されていれば「世紀の大誤審」と言われないですんだかも知れない。でも「審判は誤審でも正しい」この大原則の方が壊れてしまう。


ちよ散歩②旧中山道板橋宿

2008-09-14 22:55:17 | まち歩き

ちよ散歩、今回は旧中山道板橋宿まで歩きます。

002 旧中山道の清水坂(板橋区志村)からスタートします。

日本橋から来ると、唯一富士を右手に一望できる名所であったと言われています。

今は閑静な住宅街で、いかにも裏通りで車もほとんど通りません。

坂は、途中で大きく曲がっていてなかなかきついです。

清水坂を上ると、志村坂上交差点に出ます。

ここで旧道は国道17号線に吸収され、新道を歩くことになります。

010次の交差点に、志村一里塚があります。

日本橋から本郷森川宿・板橋平尾宿に続き三番目の一里塚です。

道を挟んで、左右に二基あります。

現存する一里塚は非常にまれで、都内では西ヶ原とこの志村だけだそうです。

014_3志村一里塚のとなりに、江戸時代のような商店がありました。

大きな籠竹ぼうきが、置いてあるのが見えます。

1604(慶長9年)江戸幕府は街道整備を命じ、日本橋を基点として一里を三十六丁と定め五街道の幅員を五間と決めました。

街道の両側には、松・杉を植えて一里ごとに一里塚を築きました。

しばらく、新道を進みます。

015すると、清水町交番の所で左に入る旧道が復活します。

歩いて行くと、環七通りがあり中山道陸橋の下をくぐります。

この辺りから、板橋宿の始まりです。

板橋宿は、江戸に向かって上宿・中宿・平尾宿の三宿で構成されていました。

1601(慶長6年)徳川家康は、東海道・中山道に伝馬の制を定めました。

これにより板橋は、中山道の第一宿となりました。

1635(寛永12年)参勤交代の制がしかれ、板橋宿はこれより繁昌していきました。

021_2まずは、上宿を歩いて行くと縁切榎があります。

嫁入りの際には、縁が短くなることを恐れその下を通らなかったそうです。

今では、難病の縁切や悪縁を絶ち良縁を結ぶという信仰が広がっています。 

1861(文久元年)公武合体皇女和宮家茂に降嫁の時には、縁切榎を菰(こも)でおおい通過して板橋宿に泊まったそうです。

 

すぐに、石神井川に架かる板橋を渡ります。

027板橋という地名は、この板橋に由来すると言われています。

石神井川沿いのは、川にしだれかかって春にはそれは見事です。

板橋本町交番そばに、江戸名所図会「板橋驛」があります。

これを見ると、この上宿辺りも相当の賑わいがあったと思われます。

 

 

061板橋から見た、桜満開の石神井川です。

川にしだれかかり、見事なものです。

石神井川沿いには、桜並木が延々と続いています。

(画像2009.4.10更新)

 

031板橋からが、中宿です。

板橋宿の中心は、本陣飯田家・問屋場・旅籠が軒を並べる中宿でした。

スーパーのとなりに隠れるように、板橋宿本陣跡の碑が立っています。

あとは、ほんじん児童遊園の名前に面影が残っているだけです。

 

 

034中宿は、今は仲宿と書き活気のある商店街となっています。

途中、宿場時代境内が馬つなぎ場だった遍照寺を通ります。

本陣のほかに三宿にそれぞれ脇本陣があり、上宿板橋家・中宿飯田家・平尾宿豊田家の名主三家が勤めていました。

東京大仏のある乗蓮寺は、以前は仲宿のこの辺りにありました。

王子新道との交差点を過ぎ、しばらく歩きます。

042_2すると、観明寺があります。

その前に、門前にある田丸庵で昼食と休憩です。

先ほどの王子新道(板橋・王子間)は、1888(明治21年)完成です。

東京府内、最初の新設公道として完成しました。

板橋地方の東京府編入は1871(明治4年)廃藩置県の年でした。

046_2これは、 観明寺の赤門です。

もともと、加賀下屋敷内通用門だったそうです。

観明寺は、出世不動と呼ばれて親しまれています。

不動通りの名は、このお不動様に由来します。

 

044入口には1661(寛文元年)造立された庚申塔があり、本尊青面金剛像が刻まれたものとしては都内最古のものだそうです。

江戸時代に、庚申を祀る庚申講が結成され民間信仰のひとつとなりました。

その信者や講の人々によって、庚申塔や庚申塚が造立されました。

 

 

庚申信仰とは、「庚申(かのえさる)の日の夜に寝ると人の腹の中にいる三匹の虫が抜け出して昇天し寿命を司る天帝にその人の罪過を告げ命を奪われる」という災いから逃れるため庚申の夜には眠らないで過ごし庚申を祀る風習のことです。

049観明寺辺りから、平尾宿となります。

旧中山道は、17号線をななめに横切るように通っています。

日本橋から来ると、平尾追分があり川越街道と別れていました。

そばには東光寺があり、関ヶ原の戦いの西軍重鎮で加賀前田家にゆかりの深い宇喜多秀家の墓などがあります。

17号線を渡ると、また旧道が始まります。

054旧道が始まる横に平尾交番があります。

交番の名前に、平尾宿の面影が残っていました。

1764(明和元年)板橋宿は飯盛女150人をおくことが認められ、飯盛旅籠屋は平尾宿に集中するようになりました。

 

賑やかな商店街を、しばらく歩いて行きます。

056板橋駅西口の駅前広場に、出ます。

この辺りで板橋宿は終わりとなりますので、ここがゴールです。

埼京線の踏切を渡ると、昔の看板に赤羽線の文字が見えます。

埼京線の前には、池袋・赤羽間を往復する赤羽線が走っていました。

 

1883(明治16年)日本鉄道上野・熊谷間が開通すると、旅人はすべて汽車に奪われ板橋宿は急速に衰退していきました。

その2年後に山手線として赤羽・新宿経由・品川間が開通すると、同時に板橋駅も開設されました。

094板橋宿は上野・熊谷間の鉄道開通と、その翌年の火災によりしだいにさびれていきました。

その再起策として、旅籠業者は実態を遊郭に変え営業を再開しました。

この建物は、板橋遊郭の中で最大の規模を誇った新藤楼の玄関です。

郷土資料館に、移築されたものです。(画像2008.10.27更新)

踏切を渡り、右に曲がり旧道から離れます。

058板橋駅東口ロータリー前に、近藤勇新選組隊士供養塔があります。

正面には近藤勇、土方歳三之墓と刻まれ、左右側面には合計110名の隊士などの名前が刻まれています。

1868(明治元年)新選組局長近藤勇は、板橋刑場で斬首処刑されました。

首はに送られ、胴体は供養塔のあるこの場所に埋葬されました。

供養塔は、1876(明治9年)隊士永倉心八が発起人となり造立されました。

最後は観明寺までもどり、加賀公園に向かいます。

062この公園には、加賀藩下屋敷跡の碑があります。

この辺りは、加賀藩下屋敷があった所で加賀の地名が残っています。

加賀藩は、幕府より膨大な土地をここに拝領しました。

石神井川を包む敷地に庭園を設け、別邸として利用されました。

今では、この公園の小山にその面影がわずかに残るだけです。

065本日のおみやげは、不動通り商店街田ぐち菓子店の串だんごです。

 

 

 

-ちよ散歩②旧中山道板橋宿・おわり- 


ちよ散歩①赤塚東京大仏

2008-09-06 00:51:29 | まち歩き

ちよ散歩では、目的地まで気ままに歩きその道のりで見たり聞たりしたことなどを紹介していきたいと思います。

今回は記念すべき第1回なので、地元自慢ということで赤塚東京大仏まで歩きます。

087西台交差点の大きな歩道橋から、スタートです。

新しい街高島平が現われ、道路が整備拡張されたため出来ました。

1976(昭和51年)完成で、真ん中が丸い吹き抜きになっています。

そばには、熊手市が行われる西台大鷲(おおとり)神社のある善長寺があります。

善長寺前の細い道を、行きます。

003ハーブ&おいしい野菜塾という、自家製の野菜を中心にしたレストランがあります。

店の敷地内に、大きな野菜の畑が見えます。

スペシャルランチは、カキのピラフきのこ添えノルマンディー風です。

                                         

歩道橋から続く、大きな通りにもどります。

082首都高下の分かれ道に、出ます。

昔は、下赤塚方面に行くには左の細い道しかなく一本道でした。

右側は、見渡すかぎりの田んぼでした。

首都高の右側にあるのが大東文化大で、今回は右の首都高沿いの道を行きます。

しばらく、歩いて行きます。

005左に見えてくるのが、赤塚公園芝生広場で延々と続きます。

今は緑が気持ちよく、いちょうもあり四季を通じて楽しめます。

少し行くと、区の花ニリンソウ群落の都内最大の自生地が見られます。

こちらの見ごろは、4月始めです。

 

018桜の咲く頃、赤塚公園大門地区ではニリンソウが白いじゅうたんを敷き詰められたように美しい花を見せます。

ニリンソウの名は、二本の花茎の先に花をつけることから付いたものです。

(2009.4.9更新)

新大宮バイパスの歩道橋を、渡ります。

014_2区立赤塚溜池公園が、あります。

いつも、釣りをする人で賑わっています。

この辺りには、区立郷土資料館区立美術館もあります。

 

 

016 溜池公園裏の小山が、赤塚城跡です。

登ってみると、広場になっていて赤塚城本丸跡の碑だけが建っていました。

1456(康正2年)千葉自胤(これたね)が、赤塚城に移ります。

武蔵千葉氏として勢力をふるうも、北条氏が進出するとこれに従います。

1590(天正18年)豊臣秀吉小田原攻めで北条氏が滅び、その旗下にあった赤塚城も廃城となります。

赤塚城跡を下りて、東京大仏通りを行きます。

021ついに、東京大仏のある赤塚山乗蓮寺のゴールに着きました。

階段を登って、この仁王門をくぐります。

乗蓮寺は、仲宿から現在の赤塚城二の丸跡に移転建立されました。

江戸時代の乗蓮寺は、将軍家鷹狩りの小休所御膳所となっていました。

026                     

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さらに、階段を登り切ると右に東京大仏が見えてきます。

これが、1977(昭和52年)に完成した板橋の誇る大仏様です。

阿弥陀如来坐像で、ブロンズ製でピカピカの体をしています。

025重さ32トン・座高8.2m・蓮台2.3mあります。

他の大仏と座高を比べて見ると、奈良大仏15.0m・鎌倉大仏11.4mで3番目の高さです。

 

 

040乗蓮寺は赤塚山慶学院と称し、これは本堂です。

1837(天保8年)天保大飢饉で、板橋宿で餓死するもの多数出ました。

この遺体を乗蓮寺撮誉上人が寺内に埋葬し、供養塔を建立しました。

その供養塔が、境内に立っています。

 

東京大仏通りの坂道を、上って行きます。

062松月院が、あります。

1841(天保12年)高島秋帆は、徳丸ヶ原洋式調練を行いました。

この時、松月院に本陣を置いて門弟約百名と起居を共にしました。

それは、日本最初の本格的な西洋式砲術調練だったのです。

 

063これは、松月院境内にある紀功碑です。

高島秋帆を顕彰した目的で、建立された記念碑です。

碑心は鋳造銅製の大砲で、まわりに砲弾四発を配し大理石製の台座にのせた特異な形をしています。

現在の地名高島平は、この高島秋帆が由来となり名づけられています。

ちなみに、地下鉄高島平駅は開通当時志村駅と言っていました。

帰りは、昔からある旧道を行きます。

077紅梅小学校の裏から見た、高島平団地です。

あの辺りで、高島秋帆は西洋式砲術調練をしたのでしょうか。

紅梅小は歴史が古く、農家の子息を教育するため1874(明治7年)安楽寺を仮校舎として開校されました。

 

最後に寄ったのは、徳丸北野神社です。

081ここでは、毎年重要無形民俗文化財である田遊びが奉納されます。

前には郷土芸能伝承館があり、その衣装や道具が展示されています。

田遊びは、五穀豊穣を祈願して行われます。

農家一年間の行事を、所作と唄で表わす古い形を残した祭です。

 

001本日のおみやげは、乗蓮寺のミニュチュア東京大仏です。

 

 

 

 

-ちよ散歩①赤塚東京大仏・おわり- 


オリンピックマラソンの惨敗-男子編

2008-09-01 01:02:03 | スポーツ

男子マラソンの惨敗には正直腹が立った。

-男子編-

大﨑悟史が左股関節痛で前日に欠場を決めた。今大会は補欠選手の出場は無理だったが、日本は五輪マラソン男女で一人ずつの出場権利を放棄したことになる。試合放棄は負けることより重大なことだ。ぜひ補欠選手が出られるよう熟慮を重ねていただきたい。補欠選手の経験は将来絶対生きるはずだ。

尾方剛は世界陸上’05三位、’07五位の実力者でメダルを期待した。しかしその思いは木っ端微塵に砕かれた。スタートからのハイペースについて行けず20km26位で後半粘って順位を13位まで上げるのが精一杯だった。

佐藤敦之は完走最下位の76位。ゴールでは中国大観衆に拍手声援を送られる始末で完走は立派だが情けなく恥ずかしいかぎり。おそらくどこかの故障か体調不良だろう。'07福岡国際マラソンで優勝したワンジルから34秒差の三位に入りこんな選手ではない。

マラソン王国日本はロス五輪で女子マラソンが採用されてから男女でメダルはおろか入賞者までも出なかったのは史上初だそうだ。欠場者が出たのも初めてではないか。翌日の新聞には「マラソン日本屈辱」と書いてあった。やはり野口みずきの欠場が痛い。

さてレースは女子の時と違って猛暑のなかにもかかわらず序盤からアフリカ勢が脅威のハイペースで飛ばした。ほとんどの選手がついていけない。36km過ぎにサムエル・ワンジル(ケニア)がスパートしあっと言う間に引き離しそのままゴールして金メダル。平坦ではあったが夏場のレースで2.06.32は驚きだ。

優勝したワンジルは流暢な日本語でインタビューに答えた。それもそのはず仙台育英高に留学し実業団にも籍を置いていた、いわば日本が育て強くした選手だ。日本育ちが活躍するのはうれしいが、本音は日本の敵を日本で作るなよ。過去にダグラス・ワキウリ、エリック・ワイナイナ(ケニア)も日本育ちで五輪でメダルを獲得している。

ジャウアド・ガリブ(モロッコ)は世界陸上二大会連続金メダルの優勝候補だったがワンジルの前に屈し銀メダル。ガリブの2.07.16は優勝してあまりある記録だ。

三位以下は大きく離れエチオピア勢の争いとなった。’07福岡で二位だったデリバ・メルガ(エチオピア)を若いツェガエ・ケベデ(エチオピア)が抜いて銅メダル。メルガが四位。マーティン・レル(ケニア)が五位。

男子のスピードマラソンそれも驚異的な高速レースはもう始まっている。マラソンではワンジルを始めとするアフリカ勢が1~5位までを独占している。五千、一万mでもケネニサ・ベケレ(エチオピア)が二冠でメダルはすべてアフリカ勢。いまやアフリカ勢のスピードは誰にも止められなくなっている。次回ロンドンは涼しいのでスピードマラソンはさらに加速しそう。

日本男子マラソン惨敗の原因はなんだ。はっきり言って1996アトランタ五輪以来世界に通用する選手は出ていない、十年以上暗黒の時代に入っている。渡辺康幸、高岡寿成藤田敦史などに期待したときもあったがダメだった。

いみじくも金メダルのワンジルが言った。「日本にいると駅伝の練習ばかりでマラソンの練習が出来ない」。こうして日本の実業団を退社していった。この言葉に惨敗の原因が隠れているように思える。

高校、大学、実業団すべてまずは駅伝の練習である。マラソンの練習はいつするの。箱根駅伝という最大の駅伝文化がくせものだ。多くの高校ランナーは箱根駅伝をめざすのはいいが、そこにたどり着くと燃え尽きてしまいマラソンどころではない。実業団に入ってからマラソンをめざそうとしてもワンジルが言うようにまたもや駅伝の練習が待っている。大学、実業団の駅伝至上主義が男子マラソンの若い芽を摘んでいるのではないのか。

大学や実業団の駅伝監督は、もっと広い視野で世界に通用する選手を育ててもらいたい。素質ある選手にはどんどんマラソンの練習をさせてほしい。一番成長する若い時に駅伝練習ばかりではマラソンの素質が開花するのを妨げているようにしか思えてならない。「日本人が五千、一万mをやってもメダルは永久に取れない。アフリカ勢のスピードに挑めるのはマラソンでしかない」と瀬古利彦は前から言っている。

東京五輪より円谷幸吉、君原健二、宗兄弟、瀬古利彦、中山竹通、谷口浩美、森下広一と続いた世界に誇れるランナーたち。メダルもほしいがその前に世界に誇れるマラソンランナーを育ててもらいたい。必ずやマラソン王国日本は復活すると信じている。

-おわり-