川端裕人のブログ

旧・リヴァイアさん日々のわざ

中田英寿の引退について

2006-07-04 06:47:11 | サッカーとか、スポーツ一般
ああ、ひとつの時代が終わりますね。
彼がいかに稀有な資質の持ち主だったかは、多くの人たちが語り、また、惜しまれてもいるのだけれど、ぼくにとって一番響いたのは、別のところかもしれない。

彼は新しい旅に出るのですね。
素晴らしい。
30近くなって、「自分探し」なんて聞くと、なにそれ? って思ってしまうかもしれないけれど、プロのサッカー選手は機会があったらそれをやるといいです。

サッカーって、プロになるような人はとても「早いスタート」を強いられるし、十代からスポットライトを浴びて「サッカー選手としての自己」確立していくことになる反面、「サッカーしかできない」「サッカーを取ったら何者でもない」というようなありように陥りがちでしょう。だから、多くの選手は、サッカーへの愛と、またはサッカーしかできないという「事実」がまぜこぜになった複雑な理由で、一生サッカーにぶらさがります。
中田英寿は、そういうのが嫌なんでしょうね。
自分の可能性をもっと知りたいんでしょうね。
いいじゃないっすか。

いずれ、「サッカー界」に戻ってくるにしても、戻ってこないにしても、納得の行く道を歩いてほしいです。彼がサッカーで得た知名度は正当な報酬。それを行使するにせよ、行使しないにせよ、非「サッカー選手」である中田英寿に祝福がありますように。


何を託しているのか。

2006-07-04 05:10:22 | サッカーとか、スポーツ一般
調子に乗って、質問シリーズです。
今更ですが……オーストラリア戦での敗北の後に大きな衝撃を受けたり、クロアチア戦のあとにイライラ、どよーんというような気分になったり、したのは何故でしょうか。
ぼくにとってはかなり強い感情体験だったのですが、多くの人がその感情の揺れを体験したように見えました。何かを「代表」に託していたからこそ起きることなのだと認識しており、ぼくは「自分に似た身体、そして心を持った代表が戦うからこそ、アイデンィティを彼らに託す」のではないか、と感じています。ただ、これはぼくにとって「かなり本当」ではあるといえ、完全にしっくりする説明ではないです。

ちなみに、同じ質問をした30歳男さんは、「努力の象徴」を託した、と回答くださいました。
では、みなさんはいかが?
これからナンバーのエッセーの記事を書きます。
ひょっとしたらここでのコメントに言及させていただきます。
24時間限定で、乞うコメント、です。

以下は、ぼくがオーストラリア戦の敗北の後のことを、ナンバーに書いた文章。コピペ。
 それにしてもなぜ、かくも強い衝撃を受けたのだろう。
 ぼくだけではない。旅の中で会った日本人の多くが、最後の10分間「頭が真っ白だった」とか「よく覚えていない」と表現した。気持ちの落としどころがなく、その夜は仲間と酒を飲んだり、ホテルで悶々とした人たちがほとんどだったようだ。
 要は、知らず知らずのうちに、多くの人たちがサッカー日本代表に何か大事なものを託していた、ということだ。じゃあ、それって何なのか。
 国の誇り? ざっくりと言ってしまえばそうなのかもしれない。でも、歴史やら政治やらが絡んだ意味での「国」かというと、少なくともぼくは違う。むしろ、ぼくたち固有の身体性と文化が大事なんじゃないか、という気がしてならない。
 自分に似た身体、そして心を持った代表が戦うからこそ、アイデンィティを彼らに託す。フィジカルの特性(アジリティやスピードはあるが体格は貧弱)や文化的特性(組織的な動きは得意だが、エゴイスティックなストライカーは育ちにくい)を自覚した上で、ストロング・ポイントを研ぎ澄まして勝ってほしい。日本代表の勝利は、ぼくたち与えたれた体と、培ってきた心の勝利なのだから。
 ジーコの日本代表はそんな「天然力」に依存して伸ばすことで形作られた。だからこそぼくは多くを期待し、見事に粉砕された時には心にざっくりと傷を負った。トゥルシエの時ならこんなふうには感じなかっただろう。負けたからといって世界が終わるわけではあるまいに、恋に破れたティーンエイジャーみたいな気分だ。こっ恥ずかしい。
 ほかの人たちは、どうなのだろう。例えば地元のJリーグチームを大事にしている人たちは違う「つながり方」をしているのだろうか。ふと疑問に思いつつも、旅先で聞いてまわるような話ではない。