川端裕人のブログ

旧・リヴァイアさん日々のわざ

かわ・盲導犬アンドリュー

2007-04-30 18:12:00 | ひとが書いたもの
かわ
価格:¥ 780(税込)
発売日:1966-09

すごく古い絵本を入手。
今にいたるまで72刷りを誇る、ロングセラーですね。
なんとなく多摩川を思わせる川の上流から下流を辿る、ただそれだけのお話。でも、味わい深い絵。

それと、今、小学二年生で一緒に仕事をしている鈴木びんこさんの作品。
盲導犬アンドリューの一日盲導犬アンドリューの一日
価格:¥ 1,470(税込)
発売日:2002-11
びんこさんの絵は、独特の躍動感があって(うまく言葉にできない)、もぞもぞとするスウィートスポットに届く。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

appleがサブノートを出すらしい

2007-04-29 08:26:24 | Macだし、親指シフトだし
AppleInsider | Resetting the timeline for Apple's ultra-portable initiative
とはいっても、2008年のサンフランシスコで、という気が遠くなるような話。
光学ドライヴもないような薄型モデルの構想が漏れ伝わっているそうです。
思えば、appleのサブノートは常にサブノートとしては半端で、懐かしいPowerbook2400(ニューヨークにいた時に使っていた。「夏のロケット」の最終バージョンをこれで手直しした)なんて、サブノートとは言えなかったよなあと思うのです(重たかった)。せめて1.5キロは切ってもらわないと……ね。
期待大。

コメント (9)
この記事をはてなブックマークに追加

最終コーナーを何度まわっているんだか

2007-04-27 06:32:59 | 自分の書いたもの
Lの最終コーナー。何度回っているんだろう。いったいこのトラックはどんな形をしているのか(笑)。

でも、とにかく打ち合わせで、「今年の9月か10月くらいには」と言われて、「9月はちょっと早いでしょう」なんて返すくらいには、自分の中でも煮詰まってきた(この前までだったら、「納得するまでやりますので、出版時期の話は今はちょっと……」だったのだけれど)。

というわけで、ふたたびLに戻る。
この3週間ほど、ひたすら小学2年生と婦人公論の連載の書きためをしていて、一ヵ月と少しは猶予があるかんじ。
その間にたぶん、ゲラにできるバージョンが完成できるだろう。と自分に期待。

でも、この一ヵ月というのは、PTAの総会に向けての一ヵ月でもあるのだなあ。ジェットコースター状態は続く。

とはいえ、明日はカヤックの日だ。わくわくする。ちょっとカヤックの腕前を磨いて、ちゃんと移動手段として使えるようになっておこうというのが、今年のスポーツ的課題。
コメント (6)
この記事をはてなブックマークに追加

どんな欠点にも長所がある

2007-04-25 06:19:35 | サッカーとか、スポーツ一般
もうサッカーを観る習慣が抜けてしまうほどバタバタな日々なのだけれど、毎朝ボール蹴るのだけは忘れてません。
クライフターン20回!しかし、切れ味はなし、みたいなふうに……というわけでヨハン・クライフはいつも、「隣にいる」んです。ぼくの生活に。というわけで(?)、このニュースは素敵。
クライフ語録のランキングが発表

一応こっちにも採録。
1.「どんな欠点にも長所がある」
2.「ボールを持っていれば、点を取られない」
3.「いくら点を取られても、相手より1点多く取ればいい」
4.「理解できるまでは分からない」
5.「イタリアは勝つことができなくても、われわれがイタリアに負けることはある」
6.「彼らの守備はヤギのチーズ(チーズの穴=穴だらけという慣用表現の言い間違い)」
7.「ウン・モメント・ダド(クライフによって作られたスペイン語表現。“あるときに”という意味)」

いやー、たしかにどんな欠点にも長所はあるし、「攻撃は最大の防御」とはいえないサッカーにおいて、「ボールを持っていれば、点をとられない」というのは、本当に的確な真実。

1974フットボールオデッセイ1974フットボールオデッセイ
価格:¥ 1,785(税込)
発売日:2006-04


あと、クライフ関連の本としては、西部さんのこの本が抜きんでておもしろいと思いますね。
1974ワールドカップの西ドイツ対オランダを描いたもので、主要登場人物はフォクツとクライフ。もちろん、ベッケンバウワー。しかし、西部さん、各人の内面描写バンバンやって、小説に仕上げちゃうんです。
それって、本当に許されるのかというのはほうっておいて、おもしろいです。

そういえば、これ、ドイツで読んだのだった。
こういう旅の中のエントリを発見。
コメント (1)
この記事をはてなブックマークに追加

気分転換にエンディミオン

2007-04-23 20:31:00 | ひとが書いたもの
エンディミオン〈上〉エンディミオン〈上〉
価格:¥ 924(税込)
発売日:2002-02
エンディミオン〈下〉エンディミオン〈下〉
価格:¥ 924(税込)
発売日:2002-02
のんびりゆったり読了。
いやー、もうたまりませんね。堪能しましたってば。
しょぼくなったシュライクも、ちょろっと出てくるケンタウロスの「ロール」も。
いよいよ、「覚醒」?
いえ、まだまだ読みません。
少なくともGW突入までは。もったいないもん!

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

婦人公論のPTA連載第2回、任意加入のこと

2007-04-21 21:09:47 | 保育園、小学校、育児やら教育やら
婦人公論2007年5月7日号(4月21日発売)に、PTA連載二回目が掲載。「任意加入が前提ってホント?」というタイトルで、ここで何度も話題にしている任意加入と強制加入の問題について書いています。あくまで、ぼくがPTAに深くかかわるきっかけになった、という意味で「根っこ」がどこにあるかという話。

たぶん、連載中、PTAについてもっともネガティヴな気持を表明している回になっていると思います。根本的な「息苦しさ」についてのプレゼンテーションなので。

さらにその次には、PTAの歴史について語り、PTAの構造について語っていく予定。

それにしても二週間に一回の連載は、やはり、次々と「次回」が出ますね。
目まぐるしい。
そんなこんなするうちに一年が終わって、ぼくの役員1年目も終わるのかしらん(2年目があるかどうかは、わからないけど)。まあ、今、それを言うのは早すぎ。

いきなり、ポカをしたりして、なんだか、人にフォローしてもらいつつの日々です。
コメント (48)
この記事をはてなブックマークに追加

水俣病の50年とパール兄弟

2007-04-21 07:30:51 | 日々のわざ
水俣病の50年―今それぞれに思うこと水俣病の50年―今それぞれに思うこと
価格:¥ 3,360(税込)
発売日:2006-12
以前紹介した時には、品切れ状態で、おそろしく高い中古価格で売りに出されていた。それが数日前、新品が定価でていたので、やっと購入。するとふたたび品切れになって、古書価格高騰……ラッキーだった。
非常にばたばたしております。
最近の困ったこと……。

いつもジョギングする時に使っていたネックバンド式のヘッドフォンが壊れた。新しいのを買いに行く暇がない。おかげで、はしっている時に音楽が聴けない……。

だから、眠る前にガンガン、パソコンで音楽再生したりするわけだが、iTunesでシャップルしていたら、パール兄弟のブルーキングダムが流れて、思わず、ほろりとしてしまった。
サエキケンゾウ、声が若い! あたりまえか……。
おまけに、記憶の中の彼よりも、ずっとちゃんと歌えている。
ピッチが心地よく上がりきらないところとか、そういうディテールの瑕疵ではなくて、大局的に歌えている。それに……やっぱり歌詞は折り紙付きってやつなのだ。

ゴールデン☆ベストゴールデン☆ベスト
価格:¥ 1,980(税込)
発売日:2004-09-08


このゴールデンベストというやつを買うことにする。3年前のものだ。


コメント (1)
この記事をはてなブックマークに追加

世田谷区学童クラブの歴史とか、全児童対策の展開とか

2007-04-18 19:37:29 | 保育園、小学校、育児やら教育やら
世田谷区の学童保育は?「全児童対策」新BOPの導入

世田谷区の学童クラブ父母連が作成した文書を発見。
2002年の時点の情報なのだけれど、とても参考になる。
ぼくたちが知る前の世田谷学童がどうなっていて、いかなる経緯でBOPと統合されていったか。基礎資料。

当面学童の保護者会に貢献することはできそうにないから、これが最後のおつとめとばかりに、総会資料のごくごく一部を書く。
その基礎資料として、この文書を読み直して、やはり歴史を感じている。
歴史は大事だ。
もっと大事なのは歴史認識、ということなのかもしれないが。
コメント (1)
この記事をはてなブックマークに追加

自分の限界がどこまでかを知りたいわけじゃないのに

2007-04-18 06:17:07 | 日々のわざ
 午前・午後、両方ともPTAでの諸々。
 ちょっといっぱいいっぱいなかんじだ。自分のキャパがどれくらいかというのを認識させられる。
 切り替えて仕事に戻りたいのだが、なかなか戻れない。
 仕方ないので、いつもの倍、1時間くらいはしってみる。リセット、リセット。
 ふむ、この4倍くらいはしれば、マラソンだなと思いつつ、それはさすがにやめておく。
 しかし、出るぞ、東京マラソン。
 
 それはそれとして……帰ってきたら、学童関係の文章とPTA関係の文章を書く。後者は仕事。結局どっぷりやんか。
 
 ああそうだ、きのうとても嬉しかったこと。
 学校をうろちょろしているぼくを、5年生か6年生の女の子がじろじろみて、名札を覗き込もうとするので、見せてあげたら、「本かいてるカワバタさんですか、本、よみましたー」と言ってくれたこと。
 読んだのはオランウータンということで、「このへんを舞台にした小説もあるよー」と言っておく。
 それにしても、こんなのうまれて「ほぼ」はじめてだ。思わずニヤケる。
 ムクワレルキブン。

 なんて書いていたら、自然と気分が盛り上がってきました(単純)。
 リセット完了。
 さあ、仕事、仕事。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

捕鯨やグリーンピースも関係する、とても昔の原稿を発掘した

2007-04-17 08:07:32 | 川のこと、水のこと、生き物のこと
東海教育研究所が出したムックに載せた文章。
たぶん5年以上前だと思う。
大昔に書いた別の文章を探していて、書いたことも忘れていたこいつを発見したので今さら公開。テーマは、「感情と自然保護」といったかんじ。
先日紹介した星川さんの本にも関係しているし、岸由二さんへの言及もあります。

 環境保護、自然保護を考える

 自然保護は感情的?
 最近、小さな環境教育系NGOの人たちと、意見交換をする機会があった。大学二年生の参加者が述べた言葉が心に残った。
「感情的なレヴェルで自然保護を言い立てるのは嫌なんです。でも、論理的に考えて、どうしても護らなきゃいけないという理由はなかなか発見できずに悩んでいます」
 彼は大学で生物学系サークルに属しており、その仲間も似た考えを持っているという。
 驚いたと同時に、そうだろうな、という気もした。
 今、「自然保護」と聞いて、その重要さを否定する人はまずいないだろう。にもかかわらず、我が国の社会が「自然を護る理由」をはっきりと持っているとはとうてい思えない。
 たとえば、長良川の河口堰、諫早湾の干拓など、不条理な「公共事業」。ワシントン条約に違反して多くの希少種が国内に持ち込まれ、「密輸天国」と呼ばれるお粗末な現状。今まさに力を入れるべきなのに、後手後手にまわっているようにしか思えない、イリオモテヤマネコやヤンバルクイナなど「固有種」の保護。そして、背後にある「種の保存法」の機能不全。行政には、「自然保護が大切」という公式見解に、血を注ぎ、力を与える強い思念が欠けている。
 ならば、市民が立ち上がって……と、思っても、自然保護の市民運動には、なぜか「感情的」というステレオタイプなイメージがある。活動家はまずそれと闘わねばならない。大学生の悩みは的を射たものなのだ。

 生命中心主義の世界
 世界の自然保護シーンで主導的な役割を果たすことが多いアメリカ合衆国に目を転じよう。かの国の人々はどのように、「自然保護」の正当性を捉えているのか。1997年から1998年にかけて、ニューヨーク市を拠点に取材した際、自然保護活動家たちの間に、共通するあるエイトスを感じた(拙著「緑のマンハッタン」(文藝春秋))。
 キーワードは、「生命中心主義」だ。この言葉は、欧米社会で常に人間が特権的な立場に立ち、ほかの生命を一方的に利用してきた「人間中心主義」を脱却しようと使われるようになった。背後には、「すべての生命は生態系の中で『自己実現』する権利を平等に持っている」とするノルウェーの哲学者アルル・ネスの考え(ディープエコロジー)や、人間以外の生命や景観すらも倫理の対象にできるよう、権利概念を拡大しようとするロデリック・ナッシュの主張(自然の権利)などの考えがある。
 たとえば、環境テロリストと恐れられる、アースファースト!は、ディープエコロジーを行動原理とすることを表明しているし、西海岸最大の自然保護団体であるシエラクラブは、「自然の権利」を援用し、生き物や景観を原告とした裁判を起こしてきた。
 彼らは決して突出した存在ではなく、北米で自然保護にかかわる団体のほとんどが、生命中心主義的な言説をごく自然に受け入れている。穏健であり、時に「体制より」と批判される、全米野生生物連盟(NWF)やオーデュボン協会といった団体ですら、「自然には人間の側が考える利用価値とは別に、それ自体として本性的(intrinsic)な価値があり、それを護らなければならない」というディープエコロジー的な言説に同意する。
 ここで大切なのは、活動家や、それを支持する市民たちにとって、生命中心主義がごく自然に「腑に落ちる」議論として容認されていることだ。「なぜ護るか」の部分を、人間側の理屈で追い込んでいくのではなく、「本性的な価値を持っている」とすることで納得し、自然を護る活動を正当化する。
 これを「感情的」「情緒的」という印象を持つのは、ぼくだけではないだろう。
 考えてみれば、当たり前のことだ。どんな信念も、論理の連鎖の中で、どこか感情に直接根差す部分がなければ、リアリティをもって人々に受け入れられることはない。日本の自然保護運動が「感情的」と言われる時、それは感情的であることが批判されているというよりも、むしろ、批判者がその「感情」を共有していないということなのだ。
 とすれば、冒頭の大学生の発言は、「悩み」としては正当だとしても「設問」としては間違っていたことになる。彼が探すべきものは、「論理的な理由」ではなく、彼が感じている情動的な「護りたい」という思いを、我々の社会に根差させることができるきわめて「感情的」な理由だったのだ。もちろん、それは多くの人に共有されて、はじめて普遍的なものになりえる。その共通のインターフェイスを探求することが、彼の、いや我々のなすべきことだった。

 パラダイム論争~捕鯨を例にして
 なぜ、我が国の「自然保護」は、理由を見つけられずに「感情的」なままのか。ひとつの不幸な経緯として、「捕鯨論争」を挙げたい。
 商業捕鯨をめぐって、国際的な反対の声があがったのは、1972年のこと。ストックホルムで開かれた国連人間環境会議ではじめて問題提起された。以後、我が国は一貫して、捕鯨擁護の立場をとり、アメリカ、イギリス、オーストラリア、フランスなどほとんどの欧米諸国はこぞって、反捕鯨の立場を鮮明にしている。商業捕鯨のモラトリアム(1982年)、南極海のサンクチュアリ化(1994年)と、一方的に押し切られる形になっており、捕鯨再開をにらんだいわゆる「調査捕鯨」も風当たりが強い。
 以前、ぼくは、日本政府の言い分と、反捕鯨NGOの代名詞ともいえる、グリーンピースの主張を、それぞれ比較してその妥当性を検討したことがある(『クリーンピースの正義VS捕鯨の論理』諸君!1999年11月号)。日本政府側は「根拠のないモラトリアムやサンクチュアリの設定は非科学的」と非難し、グリーンピースは「調査捕鯨は科学ではなく、科学に偽装した商業捕鯨だ」と主張する。おたがいを「非科学的」と論難し、一歩も歩み寄りを見せない不毛の議論だ。
 双方が、相手を非科学的とした場合、通常、考えられるのは、(1)どちらか一方だけが正しい、(2)両方間違っている、だろうが、この場合、ぼくが下した結論は、「双方の文脈に照らして、双方が正しい」だった。
 つまり、日本政府は、鯨類資源の産業利用を前提にして、適正利用を実現するための「水産資源管理学」的なアプローチをとっており、グリーンピース側(あるいは反捕鯨国の政府)は、「生命中心主義」的な市民の支持を受けて、利用せずに護ることを前提にした「保全生物学」的なアプローチをとっている。そして、それぞれの主張は、それぞれの前提に立った上では大きな矛盾はない。つまり、典型的なパラダイム論争だった。
 無自覚なパラダイム論争ほど、悲惨な結果をもたらすものはない。納得できる理由を見いだせないまま、数の論理で押し切られて商業捕鯨をあきらめた我が国の人々は、「一方的にやられた」「理が通らない」という鬱屈した感情を抱いた。特に南極海で捕鯨船とクジラの間にゴムボートで割り込む、グリーンピースの派手なパフォーマンスは、「日本人=クジラを殺す悪人」というイメージを世界的に確立すると共に、日本では、自然保護団体/環境団体に対する、拒否反応と「自然保護は論理を無視した感情論」というイメージを植え付けたのだ。
 グリーンピース・ジャパンの内部でもこういったことは問題にされていて、「本部が出したプレスリリースを直訳するのでなく、我が国の実状にあわせて『翻訳』して伝える努力が必要だった」と認めている(前掲論文に詳述)。
 結局、我が国で、自然保護が、どこか感情的で、それを推進する団体が胡散臭いと感じられるのは、煎じ詰めれば、まず、自然保護が海外から輸入されたものであったこと。その際に、我々は「なぜ護るのか」という根本的な部分を受容できず、かといって自分たちの「理由」を発見する間もなく、捕鯨問題など特定分野で、完膚無きまでに蹂躙されてしまったからなのではないか。

 日本版自然の権利裁判
 それでは、日本ではどういうことが「腑に落ちる」のだろうか。「自然保護は大切」と多くの人が原則的には認めるのだから、我々が感情的に共有できる「理由」はどこかにあるはずだ。
 平成7年、鹿児島地裁で起こされた「アマミノクロウサギ訴訟」が、意外なところからヒントを提示してくれている。奄美大島のゴルフ場開発差し止めを求めて、アマミノクロウサギやオオトラツグミなど、4種の固有種が原告に名を連ねて起こされたものだ。アメリカ流の「自然の権利」裁判の体裁をとっており、また、そのような報道がなされた。
 しかし、原告側がまとめた『報告・日本における[自然の権利]運動』という冊子を読むと、まったく違う実像が浮かび上がる。要点は、この訴訟が、開発が続けば「(自分たちの故郷である)奄美が奄美ではなくなってしまう」(原告・薗博明氏)という危機感のもと、「自然と人間が分かつことのできない関係にあり、人間にはそれを尊重する義務がある」(原告・中原貴久子氏)ことを訴えるために起こされたものだということだ。
 この時、自然は「本性的に価値があるから」というのではなく、「人間と分かちがたく結びついた」不可分の存在として、イメージされている。もともと我が国では、手つかずの原生自然など、ほとんどない。人間から切り離された「そのものの価値」を問う前に、人々の生活の中で、単純な利用価値にとどまらず、人格の一部にまで食い込む形で、自然の存在が重要な意味を持ってきたのではないだろうか。このような場合、自然を護ることは、人格権の一部にまでなる。
 ここにいたって、ひとつの重要な視点を提示することができそうだ。つまり、我が国において、リアリティを持った自然保護の「理由」は、「人間が自然と分かちがたく結びついていること」を元に構築すべきではなかっただろうか。ほとんどすべての土地が、人間に利用されてきた我が国のありようを考えれば、とても自然な考え方なのだ。

 分かちがたい結びつき
 それでは、首都圏など、自然があまり残っていない大都市の人たちは、その「分かちがたい結びつき」を維持できるだろうか。絶望的に見えて、実はそれほど困難ではないと信じている。
 たとえば、日本版「自然の権利訴訟」のひとつが行われた「生田緑地」は政令指定都市である川崎市に位置する。地域住民は、奄美のように、長年住み続けた人たちばかりではない。それでも、人は住む場所と自分のアイデンティティを容易に結びつける。大都市であればあるほど、人は自然を欲していて、身近なささやかな自然に愛着を感じるのではないか。
 たぶんこのことは、遺伝子レヴェルにまで深く埋め込まれた人間の本源的な欲望てはないだろうか。自然が強大であると、それを開発し、人間の領域に変えていくくせに、いざ、自然を失うと週末には森へ出かけて森林浴したくなったり、テラスでささやかなガーデニングを試みたりもする。反自然的な存在と自らを規定しがちだが、自然なくしては、人間は人間らしくあることができないことを、我々はなんとなく知っているのだ。
 日本に住む我々が、自然との絆をたえず再確認し、維持する方策として、「鶴見川流域ネットワーキング」の岸由二氏が提唱する「流域思考」が示唆に富んでいる。ぼく自身が心惹かれるという意味で、紹介しておこう。
 我々が暮らしている場所は、必ずなにがしかの河川の流域だ。身近な小川を下って、大きな川に合流し、海に至るプロセス。あるいは上流へ、源流へと向かうプロセス。川はごく自然に、自分が今立っている場所とほかの場所をネットワークする。東京のような都市部でも、自分が属する流域に目を転じれば、緑がないところなんてない。川を軸に自分の立ち位置を見直すと実に多くのことが見えてくる。ここで紙幅を割くことはできないが、川の多い我が国では実に有効に機能しそうなアイデアである(「自然へのまなざし」(岸由二、紀伊国屋書店)を参照のこと)。
 また、最近、よく言われるようになった「里山」など、我が国固有の概念を、自然保護の考えに組み込む動きにも注目すべきだ。多くの人にとってすとんと腑に落ちる、地に足のついた価値観のセットを手に入れるのに、我々は後一歩のところまで来ている。
 その過程で、ぼくが常々気になっている、「自然保護」と「環境保護」との間の微妙な緊張関係も解消されよう。一見、似ているが、非人間の事象を扱うことが多い「自然保護」と、人間が中心にイメージされる「環境保護」は、時にねじれの関係にある。もちろん、同じ地球に人間も非人間も住んでいる以上、多くの場で重なり合うにしても、たとえば、身につまされるダイオキシン問題と、ヤンバルクイナの保護の問題が、かなり位相がズレているのは明らかだろう。「人間と分かちがたく結びついた」自然を、自然保護の出発点にすることで、我が国では、環境保護と自然保護か同じベクトルの上に乗ることができるのではないだろうか。
 共感、共生、絆、いくらだってキーワードはある。いったんは、スポイルされかけた我々の「自然保護」を、自らの手に取り戻さなければならない。自分自身の問題として、自然をイメージすることができて、はじめて、我が国に根付く「自然保護」が見えてくる。

関連書籍
日本はなぜ世界で一番クジラを殺すのか日本はなぜ世界で一番クジラを殺すのか
価格:¥ 819(税込)
発売日:2007-03

自然へのまなざし―ナチュラリストたちの大地自然へのまなざし―ナチュラリストたちの大地
価格:¥ 1,835(税込)
発売日:1996-07

コメント (10)
この記事をはてなブックマークに追加

Zookeeper2

2007-04-16 20:52:45 | ひとが書いたもの
ZOOKEEPER 2 (2)ZOOKEEPER 2 (2)
価格:¥ 540(税込)
発売日:2007-02-23
1巻に比べでグレードアップ。
設定をこなさなきゃならない緒戦にくらべて、扱えるテーマの懐が深くなっている。
ひねた少年とクマの話など、たぶん、人間描写という意味ではクリシェなのだけれど、それがゆえに「動物園のジレンマ」を際だたせる。こういうところで、ヒトではなく、コトに焦点が当たってしまう作風は、ぼくにはとても親しみが持てる。
クマ園長は、将来その少年が、バリバリの反動物園派に成長する可能性を示唆するのだけれど、たしかにそうなのだ。
動物園は、動物好きを作るかもしれないし、また、その極北に、「動物を愛するが故に」動物園不要論などを振りかざす人々も作りかねない。それは動物園としてはマズいことなのではという指摘に対して、そのような議論が始まる場所が動物なのだ、と言い切る、クマ園長は本質を理解している。

リアルな動物園人も、動物園に対する批判を、むしろ歓びとして捉える人が多い。
怖いのは無関心だ。
生き物にもっと興味をもってくれよ、と。

とはいえ、これまで公務員として、仕事からあぶれる心配がなかった時代にそうだったのであって、動物園不要論がそのまま動物園封鎖につながりかねない場合、どこまで、これからの動物人が突っ張れるのかは、今後に期待。

閑話休題。
エピソードのうち、子ども動物園の話しが、一番、響いた。

なかなかよかったですよ。
オススメ。
コメント (12)
この記事をはてなブックマークに追加

ヴォネガットの死

2007-04-15 06:14:26 | ひとが書いたもの
4月11日永眠。
VONNEGUT?COM -- The Official Website of Kurt Vonnegut
公式サイトは、こんなふうにジーンと来るイラスト。
うん、じっちゃん、あなたは、この地を飛び立って、今もぼくらと一緒にいるのね。
ありがとう!
たまたま、「スローターハウス5」を再読中だった。
そういうものだ。
ヴォネガットは、大変偉大な作家であることは、多くの人が認めていると思うのだけれど、ぼくにとっても、それは同様。
物書きとしての、志、という部分では、常に胸を張って、彼みたいでありたいと願う。

ちなみに、みなさん、「わが心のヴォネガット」というような、特別な作品ってありますか。

ぼくは、「タイタンの妖女」と「ローズウォーターさん……」あたり。
もっとも、愛する登場人物はキルゴア・トラウトではなくて、エリオット・ローズウォーター。
そして、むろん、ボコノン教徒であったりもいたします。

タイタンの妖女タイタンの妖女
価格:¥ 672(税込)
発売日:2000

ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを (1982年)
価格:¥ 399(税込)
発売日:1982-02

猫のゆりかご猫のゆりかご
価格:¥ 1,470(税込)
発売日:2001-12

コメント (2)
この記事をはてなブックマークに追加

桜川ピクニック、ほぼ一ヵ月

2007-04-13 20:51:58 | 自分の書いたもの
桜川ピクニック桜川ピクニック
価格:¥ 1,300(税込)
発売日:2007-03
きがついたら、そろそろ書店にならんで一ヵ月。
どうも、バカ売れしている気配はまったくないですね(笑)。
でも、じわじわ広がってくれれば、それでよろし。
自分としては、それなりの満足感のある短篇集です。
コメント欄に書評を書いて下さった方々のURLを張っておきます。

コメント (8)
この記事をはてなブックマークに追加

子どもの視界・チャイルドビジョン

2007-04-13 20:39:40 | 保育園、小学校、育児やら教育やら
ホンダがつくったおもしろいサイトを発見した。
子どもと交通安全の話。

Honda | 安全運転普及活動 トラフィック・パートナー/子どもの危険予測

ここによると、

子どもの目の高さは、大人と比べてとても低いため、見える範囲がとても狭くなっていることをご存知ですか。駐停車している車などで視界がさえぎられて事故になるケースが子どもに多いのは、こうした目の高さの違いが原因といわれます。
 また、6歳児の場合、垂直方向の視野は大人約120度に対して70度、水平方向は大人約150度に対して90度しかありません。


とのこと

「6歳児の場合、垂直方向の視野は大人約120度に対して70度、水平方向は大人約150度に対して90度」とは!
背の高さのせいで視界がせばまるのは分かるとして、これじゃあ「見えている」面積は半分以下だ。

チャントルビジョンという「子どもの視野を確認するメガネ」のペーパークラフトの「設計図」もPDFで落とせる。

おもしろそう。
作ってみよう。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

PTAのスローガンをぐぐる

2007-04-13 18:00:25 | 保育園、小学校、育児やら教育やら
自分のPTAのスローガンを考えねばならないので、よそはどんなのがあるのだろうとぐぐってみた。
一部、読んだ本で出てきたスローガンも入ってますが。
声かけ合って,手をつなGo!

タブーのないPTA

なんでも話せるPTA

○小ルネサンス

思いやりのある 素直でたくましい子どもを育てよう

誇れる笑顔に夢学ぼう

親子・豊かな心で,幸せの輪

思いやりとやる気のある子を育てよう

守ろう子どもの安全!! 広げよう親の輪!! 和気合愛のPTA

パワー全開 勝利の女神をつかみとれ」

支え合い育もう子どもたちの成長!


てな、かんじ。
いかがなもんでしょうか。
コメント (4)
この記事をはてなブックマークに追加