川端裕人のブログ

旧・リヴァイアさん日々のわざ

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いろいろな読み方がありえるけれどケモノ道からたどる倫理学は刺激的だ

2010-09-28 18:57:55 | ひとが書いたもの
動物からの倫理学入門動物からの倫理学入門
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発売日:2008-10-30
「動物の権利」やら「動物の福祉(本書では福利)」など動物にまつわる倫理について考えることで、倫理学という学問について見取り図を描いてしまおうという野心的な書。
「科学と疑似科学の哲学」の伊勢田さんの著書故、気合いを入れて読み始めたら、実に骨がある!

ぼくは、途中で流した部分もあるけど、得るところは多かった。
倫理学に興味があるけど、イマイチよく分からない人はぜひ食らいついてみてほしいし、ザ・コーヴでイルカ漁についてもやもやしている人などは、イルカ漁に反対する人たちの論理的なよりどころがいかに形成されてきたのか(あるいは、いかに、形成しそこなっているのかも)理解できるのでお奨めだ。
で、ぼくもまさに後者の方。
倫理学そのものより、ケモノ道の方に興味がある。

基礎編では、倫理学にはとりあえず、功利主義的なものと(ベンサム系)、義務論的なものとがある(カント系)ということをはっきり意識できたのは大きい。これまでも薄々、感じてはいたのだけれどね(笑)。その際に、価値が、そのものに内在するか、功利計算によって決められるのかという面での違いがあるというのも、まさに自分の問題意識に引きつけられるものだった。。

また、一見矛盾するふたつの流れをうまく折衷しようとする二層理論というのも興味深い。というのも、これは、我々が日常生活の中でおきていることだと思われるから。
我々は、ふだんは個々人の権利ベースでのルールの中で生きているけれど(義務論と親和的)、しかし、なにかコトがおきた時には、功利的な立場に立つこともある。感染症対策の現場などまさにそうだ。感染疑いの人の人権が一定期間サスペンドされることは、よくある話で、それは、その個人にはつらい体験だけれど、社会全体の安全はそれで保たれると期待される。

さらに、最近、ぼくはこういう図表をイルカがらみで紹介した。(これ内容自体は、「緑のマンハッタン」の執筆時に思いついて、講演なんかでは言ってきたことではあるのだが)。
http://wol.nikkeibp.co.jp/article/column/20100823/108270/

で、その際、自分は第一象限に軸足を置くなんてうそぶいてきた。だって、ぼく人間だもん、とか。
でも、伊勢田さんのこの本によれば、そういうのは、Why be moral?な立場といって、メタ倫理学の話になってしまうのだそうだ。なるほどね。

第二部、発展編では、動物実験、菜食主義、野生動物問題などを通して、さらに深く倫理学の森に入っていくのだが、基礎編で置いて行かれた人も、大丈夫。読める。

本論ではないけれど、キャリコットという学者が展開する議論に個人的に注目。
人間中心主義と動物解放論と生態系中心主義は相容れない三角関係であると述べられているのに対して、ぼくはさっき言及したデカルト座標的図表で考える方がもっと分かりやすい!と主張したくなったり(笑)。
だって動物解放論といっただけだと、こぼれおちてしまう動物の権利論と福利論との「あいだ」や、解放論とはあまりかさならない権利論や福利論の領域も扱えるから。

いずれにしても、様々な知的な発見がケモノ道にちりばめられていて、倫理学の見取り図をクリアに思い描くのには失敗しても(ぼくはロールズの当たりを流した、いかんやつです)、得るものは大。

伊勢田さんの、粘着するところは粘着しといて、しかし、手離れ・切り分けのさっくりした筆致は健在。
ザ・コーヴのこととか、動物園水族館のこととか、肉食菜食などについて問題意識を持っている人なら、間違いなくリコメンドできる内容です。

未読の人は、こちらもどうぞ。
ホメオパシー問題などで、「疑似科学」に興味を持った人なんから、まずこちらが先ですね。
疑似科学と科学の哲学疑似科学と科学の哲学
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追記
倫理学者って存在が、辞書的な意味で倫理的というわけではなく、普遍化可能性テストについて考えあぐねるうち、非常に邪悪な議論を展開することもあるというのは、そうじゃないかと思っていたけれと本当にそのようでもあって、ちょっと衝撃を受けた。
倫理学的に誠実で一貫した態度が社会的に鬼畜だったりすることはありえて、それを回避するために、多くの倫理学者たちはいろいろ考えをめぐらせているのだった。
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湯川潮音の叙景、ふたたび

2010-09-27 03:12:20 | ソングライン、ぼくらの音楽のこと
灰色とわたし灰色とわたし
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決して新しいわけではないのだけれど、たまたま目にしたので聴いた。
前にも書いた通り、湯川潮音のおもしろいところは、「叙景」的な歌詞を書くこと。
目に見えるものから感情のひだを表現しようとしていると思われる部分もあるかと思われれば、ぶっとんだランドスケープ、サウンドスケープ描写そのもののためにコトバが費やされたりする。
すごく珍しいタイプの歌い手だと思う。
だから、その分、フックに欠けいて、大ブレイクにはつながらないのかもしれないけれど、こつこつと曲を書いてほしいと思うのだった。

ぼくは、リンダ・リンダ・リンダで彼女が「風来坊」を歌っているのを聴いて、こりゃ聴かなきゃと思いました。
その思いはまったく変わらず。
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旅行博→未来館

2010-09-26 20:08:53 | 日々のわざ
_1037413_1037434チャイナの出展が取りやめなになった旅行博へ。
せっかくの一等地だったのにね。
マレーシア・サバ州の観光局の人やルワンダの観光庁の人と話をしてから、未来館へ。
娘を遊ばせておいて、こちらは月や地球を見上げながら、少しうとうとした。

ちなみに、ビッグサイトから未来館までは徒歩30分くらいだ。
途中、海沿いでキモチイイ。釣りをしている人もぱらぱら。釣れてた人は見なかったけれど。



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午前中エンリッチメント大賞@京大東京オフィス+午後ネイチャーライティングについての講演@立教大

2010-09-26 01:32:46 | 川のこと、水のこと、生き物のこと
予定が重なって、1日中でずっぱりになった。
午前中は、毎年恒例エンリッチメント大賞の審査会。今年で9回目。去年は、ニュージーランドにいたので遠隔参加でコメントのみだったけれど、今年は2年ぶりに皆さんと会えると思ったら、ロニさんが欠席で残念であった。
今年もエントリは多種多彩で、楽しかった。
たまたま伊勢田さんの本を読んでいる途中だったので、このエンリッチメントは野生の本性志向だなとか、こっちは個体の選好重視とか、そういう見方をしていると新鮮だった。

午後の講演は、「ネイチャーライティングなんて書いたつもりじゃなかった」というタイトル。実はこの10年、自分のことをネイチャーライティングの書き手として意識したことはない。いや、それ以前に、自分が「ネイチャーライター」であるとはっきりした自覚があったことはないし(書いたものがしばしばネイチャーライティング的なことは自覚していて、英語の名刺にはやっている取り組みのひとつとしてNature Writingsを挙げていた)、なんだかアメリカで取材するかぎりそう言った方が通りがいい、というレベルで使っていたにすぎないと思う。

そこで、10年前、OUTDOORという雑誌(いつのまにかなくなってしまった)から頼まれたエッセイに、「自然ってなに? 自称ネイチャーライターの脱ネイチャーライティング宣言」という文章を書いた。これは最終的にボツ原稿になって日の目を見なかったのだけれど、この文章ではじめて、自分について「ネイチャーライター」という表現を使い、同時に「脱」してしまったので、以降はあまり考えなくなってしまった次第だ。

だから、10年の間、その頃、考えていたことからあまり進歩がない。
要は、我々は、「自然」という抽象的な概念に振り回されすぎているのではないか、ということなんだけど。
おそらくは、このジレンマは多くの人が感じていて、この文章を書いた時に、書いた後にも、様々な人が、「現場」で「机上」で考えてきたに違いない。

気恥ずかしくはあるが、ここに掲載しときます(昔1度、アップした記憶があるけど、どこにいってしまったやら)。
************
自然ってなに?
自称ネイチャーライターの脱ネイチャーライティング宣言

(2000年の原稿)


自称ネイチャーライターの戸惑い
自分の著作のうち、生き物について書いたものを「ネイチャーライティング」と称してきた。もちろん、ソローのように森にどっぷり浸りこんだり、ミューアのようにひたすら山歩きしたりといった生活をしているわけではない。日本の都市部に住み、一度は自然と「切れて」したまった人間が、今あえて自然と人間がダイナミックにかかわる現場(時には「紛争」の現場ですらある)にでかけていって、人と自然や野生生物との間にあるものについて考える、そういう意味でのネイチャーライティングだ。

ただ、ひとつ困ったことがある。実は、「自然」について書きつつ、ぼくにはある重大なことが理解できないのだ。
自然 【ネイチャー】っていったい何?

あまりにも基本的で恥ずかしいのだが、ぼくは長い間、その回答を得られずにきた。
広辞苑の第五版はなんのためらいもなく、「人工・人為になったものとしての文化に対し、人力によって変更・形成・規整されることなく、おのずからなる生成・展開によって成りいでた状態・・」と教えてくれる。

なんと素朴なことか。ぼくが「自然とは」と思い悩むのは、「人工・人為」が及んでいない場所が、いまやこの地球上に事実上ないからなのだから。


南極海よ、おまえもか
だいたい、ぼくの最初の著作『クジラを捕って、考えた』の中で詳述した半年にわたる南極海生活(92年11月から93年4月まで)にしてからそうだった。

南極海は世界でもっとも人里はなれた海であり、人間の活動の影響など絶無だと思いたかった。しかし、それは甘いのである。今世紀に入ってからの捕鯨のせいで、シロナガスクジラなど大型鯨類は、いまだ数を回復していない。採餌量の大きな彼らは、生態系の鍵を握る生き物であり、その消長は生態系そのものの構造変化に結びつく。シロナガスなどの激減を受けて、とりあえず、目に見える変化として、ミンククジラ、カニクイアザラシ、アデリーペンギンといった比較的小型のオキアミ食の生き物たちが、爆発的に増えたと言われている。捕鯨推進派が、「シロナガスを回復させるにはミンクを間引かなければ」というのは生態学の常識を無視した眉唾発言だとしても、とにかく、「人工・人為」によって、この海の生態系が崩れたことは間違いない。何年か前には、人工的な毒物である有機塩素が、調査捕鯨で捕獲されたミンククジラの脂肪から検出されて驚かされた。南極海が、もはや、辞書的な意味において「自然」を維持していないのは明白なのである。


飛べない鳥が教えてくれたこと
ニュージーランドやオーストラリアをフィールドにするようになって、自然と人工の境界の「崩壊」をさらに強く感じるようになった。

初めてニュージーランドを訪れたのは、ペンギンの取材をするためだった。南島第二の都市ダニーデン近郊、オタゴ半島に、一属一種の希少なキガシラペンギンが棲んでいる。その生息地がひどい。元々は森林の中に巣を作って繁殖する鳥だったのに、今では牧場の片隅の草むらにかろうじて営巣している。森のペンギンという、ロマンティックなイメージは完全に打ち砕かれた。ニュージーランドという日本に似た島国は、まずはマオリ族によって、19世紀以降はヨーロッパからの移民によって、自然が徹底的に改変された(つまり、自然を失った)土地であることを実感した。

この時の取材が縁になって、以後、カカポ、タカヘ、キーウィといった、飛べない鳥の取材へと進んでいく。特にカカポが印象深い。現在、残っているのは六十数羽で、世界でもっとも絶滅に近い野生生物のひとつだ。元々はニュージーランド中にいたらしいが、最後の個体群は南島の南に位置するスチュアート島で発見された。導入されて野生化したネコやテンにやられて、絶滅寸前までいった時点で全羽捕獲され、導入種のいない沖合いの島々に送られた。多くの個体に発信機が取り付けられていて、常時、追跡可能であるだけでなく、抱卵の様子をモニターして、危険があれば人間が人工孵化させる。各個体はいたって普通に半野生として生活しているのだが、ここでは自然だけではなく「野生」の意味さえ揺らいでいる。

一方、本土で起きていることは、目を覆わんばかりだ。コウモリ以外の哺乳類が存在せず、飛べない鳥の楽園だったこの島の森で、目下のところ最大の「敵」は、19世紀にオーストラリアから毛皮獣として導入された有袋類ポッサムだ。少なくとも2000万頭はいると言われており、新芽を食べて木々を枯らす森林の破壊者として厄介者扱いされている。政府が毒薬をヘリコプターから森にまいて、毒殺大作戦を展開しているほどだ。
ポッサムは、一応、野生生物だ。原産地では希少になって、保護されている。しかしニュージーランドでは、憎しみの対象であり、動物福祉団体やアニマルライツ団体ですら「ポッサムが不憫だ」とは言い出さない。なぜなら、ポッサムがここでは「人間が持ち込んだもの」であり、「自然」ではないからだ。

アボリジニの見た自然
お隣のオーストラリアも同様。ただ、ずっと根が深い。2万年以上にアボリジニに祖先がこの島大陸にやってきた時、大地は今よりも緑に覆われていた。しかし彼らは、狩のために火を放ち森や草原を焼き払い、結果、砂漠化が進行した。つまり、この大陸にもはや「自然」は存在しない。

4度目の渡豪で、西オーストラリアの海洋アボリジニの共同体ワン・アーム・ポイントを訪ね、ぼくはまたもや衝撃を受けた。彼らのなまりの強い英語を聞き取るのに苦労しつつ、感じ取ったのは、彼らが使う”nature”という言葉が、ぼくが思っているものとかなりずれているということだ。彼らにとって、この言葉は無尽蔵の恵みを意味する。海で猟(漁)をする彼らにとって、ジュゴンやアオウミガメといった食料資源は、超越的な存在からの贈り物であり、いくら享受してもかまわない。

彼らは政府から支給される生活保障で牛肉やビールやコカコーラを買い、足りない部分を、絶滅が危惧されるジュゴンやウミガメの肉でしのぐ。年間のジュゴン捕獲頭数は、付近のジュゴン生息数と比べて過多で、遠からず彼らはジュゴンの地域個体群を壊滅させるだろう。それでもこれまでのところ、「近代兵器」であるモーターボートを使って探索距離を伸ばすことで捕獲を維持しており、天からの「恵み」が枯渇しようとしていることを認めようとしない。なぜなら、それは無制限の「自然」【ネイチャー】なのだから。

この共同体から南に1000キロほどのところにあるペロン半島では、壊滅状態に陥った固有生態系の保護のために、導入種であるキツネの大毒殺作戦が展開されている。「本来の『自然』【ネイチャー】を回復するため」と銘打たれているが、ここで使われている「自然」【ネイチャー】は、アボリジニたちの用例とは、明らかに違う。ひとつの言葉をめぐって、様々な想念が交錯しているのである。


「自然」【ネイチャー】とは何だろう
「都市生活者のネイチャーライティング」の仕事で旅をするようになってからまだ9年ほどしか過ぎていない。前述した南極海、ニュージーランド、オーストラリアのほか、マダガスカル、マレー半島諸国、中国、ボルネオ、ハワイ諸島、北米各地、コスタリカ、チリ、アルゼンチン、フォークランド諸島、といった国や地域をそれぞれその時々の目的とともに訪れた程度。

 起こっていることはどこでも同じだった。人間の活動と、そこで「自然」とされているものとの境界線は、事実上は消滅している。島環境であればほぼ100パーセント、人間が持ち込んだ導入生物に侵食されて、もともとの生態系は大きな(たいていの場合壊滅的な)変動を蒙っている。地球上のすべてが、もはや「人工・人為」と無関係ではありえないことは自明のように思える。

こんな状況下で、ぼくたちが「自然」という言葉を使い続けるなぜなのだろう。むしろそのことが興味深く思われるのだ。

元々、ぼくたちは、どのような意味で、この言葉を使ってきたのだろうか。広辞苑によれば『枕草子』の昔から存在した言葉だが、ただ、その時の語義は「あるがまま」を意味する広い意味で、現在の用例とはずれている。おそらく、現代的な「自然」は、明治時代に英語の”nature”の訳語として充てられて定着したものだろう。

ならば英語の”nature”の歴史をたどりたい。こんな時便利なのが、OED(Oxford English Dictionary)だ。フルセット揃えれば書棚をまるまる占領するこの百科事典的な辞書には、英語の歴史がぎっしり詰まっている。CD-ROM第二版によれば、”nature”の歴史は13世紀末の古英語にまで遡る。もっとも、語義は、「物事の本質」だ。数々の用例からみて、神から与えられた本性という意味で使われることが多かったようだ。一方、日本語の「自然」のオリジナルとしての”nature”、「森羅万象。人間による文明との対比で」が生まれてくるのは、17世紀いわゆる「科学革命」の最中のことだった。

これが実に象徴的に思える。中世の神学的な世界観から離れ、ものごと対象化して解明する個別科学【サイエンス】は、この世界を畏怖し敬うべき対象から、征服可能なものへと変えたのだから。

ふと思い出すのが、ぼくが滞在した海洋アボリジニの共同体だ。彼らの生活は多くの点で近代化されているとはいえ、祖先から伝わる独特の世界観は今も生きている。英語の”nature”は、部族が信じる、与え、奪う、畏怖すべき超越的な存在に接続されていた。しかし、にもかかわらず、近代的な武装で挑む彼らは、知らないうちに超越的だったはずの存在に、深い爪あとを刻みつけることになる。これは現代の世界の歪がもたらしたひとつの不幸な例。

一方、過去3世紀にわたって、西欧や日本のような「文明国」が行ってきたことはもっと大きな不幸を導いた。文明の対極にある征服すべき自然を切り開き、人間の版図へと変えていく。相手は手ごわかったが、それでも20世紀、ふと気づくと、人間と拮抗しえる自然は失われていた。かつて対極にあったものは、すべて支配下に、少なくとも影響下にあった。

この時に「自然」は死んだのだ。そもそもが、近代社会が版図を拡大していく際に仮設された作業上の概念だったと思ってよい。だからその意味での「自然」は、二度と復活しない。今後、環境保護活動の進展で、緑あふれる地球が再生されたとしても、それは「自然」ではなく、人によって構築され、管理される人工物だ。


脱ネイチャーライティング宣言
今、ぼくたちが、ありもしない人工/自然の区別にこだわり、「手付かずの自然」の幻想を堅持しようとしているように思える。理由として、ぼくは、ただひとつだけ、仮説を持っている。

つまり、人間が自分たちのことを特別だと思いたいからではないだろうか。かつては神に選ばれた存在として「特別」だったかもしれないが、それを失った近代では自然をねじ伏せ、支配する者としての自己イメージが身に付いた。もともとその考えと親和性のあるキリスト教諸国だけではなく、ぼくたち日本人も例外ではなかった。自分たちの優位をたえず確認するためには、外部性を持った存在としての自然が不可欠だからだ。

ぼく自身腑に落ちる説明なのだが、いかがだろうか。もし、近々、「自然」の中へ繰り出す機会があったら、ぜひ考えてみてほしい。

そして、これまでネイチャーライティングを書いてきた自称ネイチャーライターの話に戻らせてほしい。
こういったことを考え始めてしまった以上、ぼくは以後、ネイチャーライティングを放棄しようと思っている。もちろんこれまでとおり、「自然」と呼ばれるものの中に身を置いたり、考えたりしたことを書き続けることは間違いない。ただ、それを「自然」について書いたものとは、自分では考えないという意味で。

「自然」ではないとすると何か。正直言って、その言葉をぼくは発明も発見もしていない。たぶん文章の中で、「自然」の意味を多少ずらしつつ使うことになるだろう。ただ、「自然」が内包する、自然/人工の区分から自由になった時、より大きな自然理解(さっそく意味をずらして使ってます)をできると信じている。

例えば、最近、ぼくはこれまで行ってきたような「自然」を求めてのフィールドトリップをほとんどしていない。我が内なる自然と相対するのに精一杯で、そのための時間がとれないからだ。ここでいう「自然」とは、ことしの9月に生まれたばかりのヒト科動物のメスと、妹の誕生に興奮し、また嫉妬もしている2歳10ヶ月の幼いオスにほかならない。

ぼくたちはつくづく野生生物だ。自然と切り離された文明という区分の中に自らを押し込めると見えなくなってしまうが、出産や育児といった特別な瞬間には気づかされる。

もちろんこれはただの一例。人間が支配する側でも、支配される側でもなく、ごく自然自然の一部であると思えるような自然観の中で、ぼくは生きたい。都市環境の中で生活しながらも、自らの体の中に息づく自然や野生をたえず意識していたいのだ。

そんなことを考えていると、新宿の高層ビル街さえ、シロアリが作る蟻塚と比べてどこが違うのかわからなくなる。自分の都合で環境に働きかけ、環境を改変した結果、出来上がったものとして、まったく同じではないか。

ぼくの「脱ネイチャーライティング宣言」は、自然と人間の世界の区分を超えて、ぜんぶ自然なんだ、というところへとつながっていきそうだ。環境問題についてはぼくたち自身のサバイバル問題として、自然保護についてはぼくたちもその一部である自然への共感と当事者意識を通じて回路を開くことができるはずだ。

追記
当時なぜこんなことを書きたくなったか思いだしてきた。
今よりも、ずっとエコエコみんなが言っており、政策レベルで、あるいは国際関係の中で、「地球温暖化以前」の環境保護運動の機運が高まっていた。
92年のリオ以来、生命多様性の大切さが訴え続けられ、それはあきらかに、アメリカ的な生命中心主義から来ていた。けれど、条約レベルに落とし込む時には、「新たな薬剤が発見されるなど人間のためになる」と説明されたり、かなり無茶な議論だと結構多くの人が気づいていたにもかかわらず、その考えがグローバルスタンダードになっていた。
それをキモチワルイと感じていたのだった。
そう感じさせられる背景は、今よりも切実だった。

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相対性理論+スガシカオ

2010-09-25 02:47:36 | ソングライン、ぼくらの音楽のこと
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ニュージーランドに行く前から今まで、J-POPをあんまり聴いていなかった。今iTunesに入っているので十分間に合ってるよ、ってかんじで。

近所のレンタルショップがもうすぐ閉店というので、つい大量に借りて、Jポップ復帰。

いきなり相対性理論にはまる。デビュー版には、若干ジッタリンジンフレイバーがあるけど、のちのち、特異な歌詞世界で、そういうのが相殺されてしまう。「学級崩壊」だとか「バーモント・キッス」あたりを今のところ愛聴中。

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発売日:2010-05-12
やっと、ファンカスティックにおいついた。
一聴して耳に入ってくるのは、とりあえず「サヨナラホームラン」。でも、いろいろ突き刺さるものがありそうだ。

Jポップはいい。やっぱり、母語で歌われるうたは大事だ。

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かわいい!ホッキョクグマtwins

2010-09-21 05:07:47 | ひとが書いたもの
ホッキョクグマのイコロとキロルホッキョクグマのイコロとキロル
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さとうあきらさんの写真で綴られる、ホッキョクグマの双子ちゃんの成長記録@円山動物園。

これがかわいい! 動物の赤ちゃんはたいていかわいいけれど、ちょっと反則ってくらいにかわいいのだ。

ちなみに、ホッキョグマには思い入れが多少。

以前「動物園にできること」を書いた時、序章を上野動物園のホッキョクグマの常同行動から始めた。
それだけ「健全に」飼育するのが難しい種。

その後、セントラルパーク動物園で、ホッキョクグマがほとんど常同行動を示さない秘密を追いかけたりとか、いろいろありましたっけ。
今となっては懐かしいかぎり。
そして、日本でも飼育環境がどんどんよくなっているのもうれしいかぎり。上野動物園のホッキョクグマの飼育場もリニューアルされたんですよね。

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6年生の読み聞かせは楽しい

2010-09-15 00:07:37 | 日々のわざ
十五少年漂流記 痛快世界の冒険文学 (1)十五少年漂流記 痛快世界の冒険文学 (1)
価格:¥ 1,575(税込)
発売日:1997-10-16
体調がややすぐれなかったものの、代打を頼まれるとうれしくなって読みに行くわけです。
高学年は特に楽しい。
去年、息子のクラスでやったように「十五少年漂流記」の一章だけ読んで、本を学級文庫に置いてくるというパターンで。
誰か、読んでくれるといいなあ。


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夜を走りながら

2010-09-12 02:47:01 | 日々のわざ
_1037361_1037358神田川沿いを走ってみる。
これは久々。
そして、昔、娘をよくつれていった公園にも。
ナナちゃん、ヤヤちゃん、ミミちゃんという、字面からどうみてもナヤミ多き姉妹によく遊んでもらったっけ。
彼女たちは、今どうしているかなあ、と思いつつ、本日のナイトウォッチRUNは終了。


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範馬刃牙、、復ッ活ッ!(GRD3がふたたび手元に)

2010-09-10 21:26:28 | 日々のわざ
_0017348_0017345南アフリカでGRD3をなくしてしまって、しばらく、GRD2を持ち歩いていたのだけれど、最近のナイトウォッチ業務(就寝前に走ってる)の友としてはまったく使えない。暗いと、話にならないから。

ああ、懐かしいGRD3と思い、願い、ふたたび手にすることができました。
もちろん新品じゃないけどね。
しかし、てになじむ。
範馬刃牙、、復ッ活ッ! と叫びたいぜ。

RICOH デジタルカメラ GR DIGITAL III GRDIGITAL3RICOH デジタルカメラ GR DIGITAL III GRDIGITAL3
価格:(税込)
発売日:2009-08-05

考えてみたらこの大きさのカメラの到達点として、たぶん、5年、10年使えるという確信があるので、やはり手元に持っておくのは正解なのだ。

GRD4が出る時というのは、もう別のものになっている気がするし。

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「イルカと泳ぎ、イルカを食べる」の評判

2010-09-08 14:07:53 | 自分の書いたもの
イルカと泳ぎ、イルカを食べる (ちくま文庫)イルカと泳ぎ、イルカを食べる (ちくま文庫)
価格:¥ 840(税込)
発売日:2010-08-09
文庫版の発売よりほぼ1ヵ月たちました。
そこで、ネット上での言及を調査。
コメント覧にはり付けますので、ご覧くださいませ。
コメントしてくださったみなさんありがとうございます。

コメント (6)
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ギャング・エイジの5回目がアップされています

2010-09-05 22:09:23 | 自分の書いたもの
Gangウェブメディア「文蔵」にて、連載中の「ギャング・エイジ」第5話「7月の冷たい雨が掲載されました。
1学期篇もいよいよ佳境で、今回と次回でいったん中締め的な展開になります。

http://www.php.co.jp/bunzo/web_bunzo_list.php#kawabata

ちなみに、次回の更新が10/14。1ヵ月半あくのはなぜなのか、ぼくは理由を知らなかったりいたします。

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13年間見落としていた(見過ごされていた)誤りを正す オットセイ→アシカ

2010-09-02 04:10:54 | 自分の書いたもの
イルカと泳ぎ、イルカを食べる (ちくま文庫)イルカと泳ぎ、イルカを食べる (ちくま文庫)
価格:¥ 840(税込)
発売日:2010-08-09
この本の224ページに、以下のような記述があります。

私見だが……我が国では、小型海洋哺乳類では、スジイルカとオットセイの資源管理に失敗していると思う。

最初に書いておきますが、ここのオットセイ→ニホンアシカ、と訂正します。

それに気づいたのは、ある水産系記者さん(実は知っている人で、会った当時はオットセイの研究中)で、ここのオットセイの部分については、違和感があると指摘してくれました。
サンクス・ア・ロット!
おっしゃる通り。
キタオットセイは、たしかに、20世紀初頭にえらく数を減らした時期があって、資源管理に失敗といえなくもないです。
ただ、それは、日本だけでどうなる話でもなく、ロシアやアメリカを含めた北太平洋全体で、日本の失敗寄与分はそれほど高くなり得ないんですね。

失敗したことがあったかなかったか、というと、あったと言えるので、まあ、間違いじゃないんだけど……とはいえ、間違いじゃなくても、適切でもない充分な理由もあるんです。

というのも、キタオットセイは、いったん個体数を落としたあとで、のちの国際条約締結に後押しされ、わりと順調に数を戻しているのに対して、キタオットセイよりずっと日本の近くで暮らしていた、ニッポンアシカは事実上の絶滅状態なのです(最終目撃から、四半世紀がまだ経っていないので、本格的絶滅認定にはなっていない)。

ニッポンアシカは、アシカ漁や、漁業と競合するため害獣駆除の対象として捕殺され、数を減らしました。最終目撃は竹島だそうです。

13年前の「私見」にどんな背景があったのか、さっぱり思い出せないのですが、想像するに、頭の中で「アシカ→オットセイ」と自然に誤変換が起こってしまったんじゃないか、と。

実際、ぼくは、アシカとオットセイの区別、見るたびにいちいち「見分け方」を参照してるくらいですから。

てなわけで、訂正します。
指摘してくださった、記者さんありがとう。
で、誤解を与えてしまったみなさん、ごめんなさい。

願わくば、訂正、できる重版が出せればいいんですが。
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「間」や分布を考えること、2次元で考えること(とりあえずイルカをめぐって。しかし、もっと他のことにも

2010-09-01 15:02:15 | 川のこと、水のこと、生き物のこと
Ph1 川端裕人の“かわいい”だけじゃすまないイルカの話、の短期連載最終回で、こんな図表を紹介しました。本文はこちら。

http://wol.nikkeibp.co.jp/article/column/20100823/108270/

これは、ぼくがわりとよく使っている考え方で、ポイントは2つ。本文に書き切れてないことも加えて解説しておきます。

まず、複雑な世界を切り取る時に単純すぎる、「あれか・これか」に還元するのは得策じゃないってこと。
たとえば、おまえは、捕鯨推進か・反捕鯨か、という二者択一を迫るのは不毛。

「間」の見解だっていろいろあるわけです。条件付き賛成とか、一部賛成とかいろいろあるでしょう。
だから、あれかこれかの問題じゃない、というのは大事。
それと同時に、考えられるばあいは「頻度」や「分布」も意識すること。イルカの問題ではそれほど意識する局面は少ないかもしれないけど。
これが、疫学関係の話だったりすると、この部分もすごく大事になってくる。
つまり、どんな対立軸を建てたとしても、それはあれかこれかではなく、大抵「間」があり、その間にも頻度や分布ってものがあるってことを意識すること。

そして、もうひとつ。
これは、連載コラム中に書いたことなので思い切り簡単に言うと、一つの対立軸ではなく、二つくらい取った方が、現実を切り取る「モデル」として、議論の役に立つことが多いということ。
少なくとも、「あれかこれか」に陥るのは簡単に回避できるし、適切に選ばれた2軸なら、かなり広範囲の問題系を包括的に扱うことが出来る。

ただイルカ問題ついて、別の切り取り方をしたい人もいるだろうなあというのは事実。
ぼくは自然保護や動物愛護などを含む、自然・生き物との付き合い方という問題意識で2軸を選んだけど、イルカと対する時の態度として、「高次元生命体とコンタクトする超・生物としてリスペクト」か、「単なる動物と考えるか」みたない軸を出したがる人だってありえる(だって、本当にそういう人、いるんですから! びっくりすると思うけど)。

でも、3軸出しちゃうと、人間の頭でイメージしにくくなるので、ぼくとしては2軸くらいが適切だと思ってます。

なにしろ、本気でさまざまな「軸」をさがしてくるなら、10や20でもきかないだろうし。

今、我々が議論していることの中で、中心的な部分をうまく掬い上げてくるのがボイントなんですね、きっと。
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