『「色のふしぎ」と不思議な社会──2020年代の「色覚」原論』(川端裕人 筑摩書房)を紹介します。
まず、最初に、エクストリームな読書体験をお約束します。
個人史上、一番、気合が入ったノンフィクションです。
執筆中、自分はこれを書くために生まれてきたのでは、とはさすがに思いませんでしたが、このためにスキルを積み上げてきたのではないかとは常に感じていました。培った技術を十全に使って、この大きな問題の輪郭を捉え、ディテールに宿る大切なことをすくい上げようと努力しました。壮大に滑っているかもしれませんが、大切なことを壮大かつ的確に捉えているかもしれません。それはご判断ただければと思いますが、かりに全体がイビツであったとしても、それ自体、掘り出すことが必要だった多くのパーツから成っていると確信しています。
具体的な内容はというと──
21世紀になってからほとんどアップデートされなかった「色覚の科学」の最先端に追いついた上で、色ってなんだろう、色の見え方ってなんだろう、色覚異常ってなんだろう、ということを追いかけています。
すると、色覚について考えることが、「ゲノムの時代の練習問題」「多様性の時代のはじめの一歩」というふうに見え始えてきたよ、という話です。
まず章立てを紹介します。
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はじめに〜準備の章 先天色覚異常ってなんだろう
(第1部)"今"を知り、古きを温ねる
第1章 21世紀の眼科のリアリティ
第2章 20世紀の当事者と社会のリアリティ
(第2部)21世紀の色覚のサイエンス
第3章 色覚の進化と遺伝
第4章 目に入った光が色になるまで
(第3部)色覚の医学と科学をめぐって
第6章 多様な、そして、連続したもの
第7章 誰が誰をあぶり出すのか──色覚スクリーニングをめぐって
終章 残響を鎮める、新しい物語を始める
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なんとなくイメージできますか?
まだ書き上げたばかりのぼくは、頭がぼーっとしたままで、うまくまとめることができないので、冒頭の文章を採録しておきます。
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はじめに
「色」という現象は、とても不思議だ。
近代科学の父、アイザック・ニュートンが「光そのものには色はついていない」(『光学』、1704年)と看破した通り、色は自然界にあるものではなく、ヒトの感覚器の「仕様」によって脳内で塗り分けられてそのように見えている。しかし、個々人にとって圧倒的にリアルな感覚でもあって、多くの人は、普段、目の前の色が「実在かどうか」などと意識することはない。
ただし、いわゆる色覚異常(先天色覚異常)が絡むと話は別だ。
一般には区別できて当然の色の組み合わせが、ある人たちには区別できないというのは、これまで「色とは何か」深く考えたことがない人にとっては驚愕に値する。一方で、先天色覚異常の当事者たちは、検査ではじめてそう告げられた時、自分が見ている世界が他の人とは違うかもしれないと強い衝撃を受ける。いずれの立場でも「色という日常」に亀裂が入ることは間違いない。
そこから一歩進んで、それぞれに違う色世界について理解を深められればいいのだが、必ずしもそうはいかない。かつて、ぼくたちの社会では、色という主観を尊重するよりも、「正常と異常」とに区別することにひたすら執着するおかしな状況にあった。その不思議な社会では、今から考えると驚くべき多種多様な方面で、色覚を理由にした進学・就労の制限、遺伝的な差別があり、当事者と家族は社会的スティグマを負わされた。
さすがに最近では緩和されており、このまま時間がたてばやがてかつての残響は消えていくのかもしれないと考えられたのだが、この5年ほどのうちに局面が動いた。詳しくは後述するが、どうやらこれは放置してよい問題ではなく、あらためて考え直さなければならないようだ。
と同時に、その考察の作業を通じて、これからの社会に貢献できる部分が大いにあるように思えてきた。「多様性の時代」であり「ゲノム時代」とも言われる21世紀において、より健全な世界観を手に入れるための練習問題ですらあるかもしれない、と。
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本当に、壮大に我々が思い込んできたこと、みずからはまってしまったピットフォールに、気づく時、ではないのかな、と、今思っています。
エンジョイ!
よろしくお願いいたします!