こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第32主日(マルコ12:38-44)神への信頼ゼロの献金ではいけない

2018-11-10 | Weblog
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(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
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こうじ神父
「今週の説教」
2018/11/11(No.971)
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年間第32主日
(マルコ12:38-44)
神への信頼ゼロの献金ではいけない
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年間第32主日B年の福音朗読の中から、「やもめの献金」について考えてみたいと思います。「皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」(12・44)金持ちたちの献金とやもめの献金の間には、金額以上の決定的な開きがあると思います。

半年くらい前の話です。初金曜日の病人訪問をしている時に、見知らぬ青年が、これから訪ねようとしている家のそばでうろうろしていました。私はその人に用事はないので、構わず家に入ろうとしたら、その青年が「おばちゃん家にいるの?玄関から様子をうかがったけど声が聞こえなくて」と私を呼び止めました。その時私は白のスータンを着ていました。

「○○さんに用事ですか?これから病人の聖体拝領をするところなので、よかったら一緒に中に入りませんか?」「入っていいと?それじゃあ」と言って一緒に入りました。私はまっすぐに家庭祭壇の部屋に向かい、その青年も私にくっついて来ました。お見舞いを受ける人が家庭祭壇の前で椅子に座っています。青年が突然その人に話しかけました。

「おばちゃん!懐かしかねぇ。元気しとった?おいよ。おい。」自分の名前を言って、とても親しそうに話し始めました。しかし私は聖体拝領のために訪ねてきていて、およそ10分刻みに訪問先で人が待っています。この青年が話している間に聖体拝領の祈りの準備を整えて、青年の話が終わったらすぐに祈りをして聖体を授けるつもりでした。

ところがこの青年のおしゃべりは一向に終わりません。明らかにお祈りを始める態勢になっているにもかかわらず、「おばちゃん。俺お小遣いを持ってきたけん。使ってくれんね。こうして話すのは何年ぶりかなぁ。元気そうでよかったよ。早く会いに来ればよかったのにごめんね。」

とうとう私は頭にきまして、「あんたさ、久しぶりか知らんけど、お祈りが終わるまで待てないか。どう見てもたった今お祈りしようとしているよね。それを家庭祭壇の前に仁王立ちでおばちゃんとおしゃべりして。何とも思わん?おばちゃんと一緒にお祈りしてからでも、十分話せるでしょ」

するとその青年は「おばちゃん。俺邪魔したみたいやけん、またあとでね」と言っていなくなりました。家庭祭壇でベールを被って静かに待っているおばちゃんを見て、どうして自分の用事よりも祈りが先だと考えなかったのでしょうか。どうしておばちゃんと一緒にお祈りもせず、お金だけ渡して帰るのでしょうか。青年が立ち去って、ようやく聖体拝領を済ませ、次の家庭に行くために「また来月来ます」と声をかけると、病人訪問のその人は親切にもお車代を渡してくださいました。

突然やってきた青年は、たしかにおばさんに当たるその人にポケットからお札を手渡していました。気持ちよく払える額のお金だったのでしょう。一方で私も、訪問してくださったお礼にと、お気持ちをいただきました。ここで今週の朗読の「やもめの献金」を考えてみたいわけです。その青年がおばさんにお小遣いと言って渡したお金は、家庭祭壇で祈りをして聖体拝領を受けようと準備しているのを遮って渡されたお金です。私がいなくなってから、いくらでも個人的に渡せるはずです。当時のことを思い出すたびに、群衆を前にして誇らしく「大勢の金持ちがたくさん入れていた」(12・41)その場面と重なるのです。

青年は身なりもしっかりしていたので、きっと成功した人なのでしょう。おばちゃんへのお小遣いも、痛くも痒くもない額だったかも知れません。おばちゃんはどんな気持ちで受け取ったのかなぁと思いました。それに比べて、この人が私にくださった気持ちは、「自分の持っているものをすべて、生活費を全部」与えてくださるほどの重みを感じたのです。

「皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」(12・44)神殿で金を投げ入れた金持ちたちは、何を入れたのでしょうか。マルコ福音記者はわざと、「皆は有り余る中から入れたが」とだけ書いて、何を入れたかを書きませんでした。神殿の向こうにおられる神に有り余る中からゼロを入れたのです。ジャラジャラ音がするほど投げ入れたでしょう。けれども賽銭を投げ入れた人の神に対する信頼はゼロだったのです。

一方で、やもめの献金は、金額はゼロに等しい額でした。けれども彼女の神に対する信頼は、山より高く、海よりも深かったのです。今日まで神に信頼して生きてきた。明日も、神に信頼して生きていきます。彼女が献金箱に入れたのは、神への絶対的な信頼でした。その揺るぎない信仰が、イエスの心を打ったのです。

私たちも、ミサの礼拝に来て、献金をしています。金額はいろいろでしょう。ですが本当にささげてほしいのは一人一人の心です。「さあミサが終わった。これからしっかり働くぞ。」自分のため、家族のために、働くのでしょうが、家族を養ってくださるのは最終的には誰なのでしょうか。会社が、明日も生きている命を与えてくれるのでしょうか。

レプトン銅貨二枚を入れた女性は、「私の命を守ってくださるのは神なのです」その信仰を献金箱に入れました。私は今日のミサに、「私の命を守ってくださるのは神なのです」この信仰をおささげできているでしょうか。「今週もこうしてミサに来ることができました。来週もお願いします。」その気持ちの入った賽銭を、神様は喜んでくれるのだと思います。

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‥次の説教は‥‥
年間第33主日
(マルコ13:24-32)
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ちょっとひとやすみ
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▼健康診断が10月の司祭研修会とセットで提供されていて、申し込んだ人26人が受診した。その結果が届いたのだが、「なるほどそうだろうな」という結果だった。「肥満」「尿一般検査にて、蛋白が陽性」「肝機能異常」。
▼そんなもんだろう。健康な生活はしていないし、お酒も自分が飲みたい量飲んでいるわけでもない。みんながお酒をついでくれて、それを飲む。十分、不摂生である。来年の駅伝大会とマラソン大会に向けて、少なくとも運動を再開すべきだろう。
▼からだが重いのはよく分かっている。もっと軽かったら、一塁に走るのももっと楽だろう。あるいは長い距離走るのも、もっと楽しめるだろう。どこかに、「ここまで努力したら、これとこれは食べても飲んでもいいですよ」と、分かりやすく示してくれる人はいないだろうか。
▼自分だけの体ではない。それ以上に、自分で自分の体に納得できていない。だから自分が好きになれるような体を思い描いて、努力を始めよう。私と似たような状況の人がたくさんいるので、「どうやって体を絞ったの?」と聞かれるくらいになれたらなぁ。
▼長らく放置していた船にようやくエンジンが掛かり、秋冬のシーズンが開幕だ。平戸の瀬戸は大きな船が航行する。大きな船のスクリューは海をかき混ぜ、プランクトンがわく。そこから食物連鎖が始まる。うまく利用して、また平戸の海でリフレッシュさせてもらおう。

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今週の1枚
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第578回目。神学院祭到着後すぐの野外ミサ。もろに逆光で見えづらい。

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† 神に感謝 †
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