こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第15主日(マルコ6:7-13)すべてにイエスを拠り所として

2018-07-14 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2018/7/15(No.953)
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年間第15主日
(マルコ6:7-13)
すべてにイエスを拠り所として
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マルコ福音書を中心に日曜日の福音朗読を組み立てるのがABC年三年周期のB年です。B年の年間第15主日は、弟子たちが十二人呼び寄せられ、派遣されていきます。私たちが日曜日にこの聖堂に呼び寄せられ、派遣されていく姿を思い描きながら、今週の糧をいただくことにしましょう。

チャンスがあって、あることを調べて分かったことがあり、皆さんと分かち合いたいと思います。それは、一般のカレンダーに見られる「六曜」についてです。ご存知のかたもおられると思いますが、「六曜」とは「日の吉凶に関しての陰陽(おんよう)道や民間信仰で、先勝・友引・先負・仏滅・大安・赤口(しゃっく)の六種の日」のことです。

勘の鋭い方は私が何を言いたいのかすでにお分かりのことでしょう。これは「陰陽道や民間信仰」であって、仏教の教えではない、ということです。カトリック教会の神父がわざわざ説教で言うことでないかもしれません。けれども皆さんの家庭でも、仏教の信仰の方と結婚した方もいらっしゃることでしょう。そうであればなおさらですが、仏教は仏教の教えを大切にし、キリスト教はキリスト教の教えを大切にすべきだと思うのです。

なぜ日本人は、「大安」や「友引」に神経を遣うのでしょうか。キリスト教徒は、「大安」や「友引」をあまり気にしませんが、仏教徒が、仏教の教えではない「大安」や「友引」を気にするのは、間違っていると思うのです。仏教の教えであれば仏教徒が大切にするのは当然です。なぜ陰陽道の考え方なのに、仏教徒が振り回されるのですか。私はそう言いたいのです。

確認のために、「六曜」の中から二つ紹介します。一つは「友引」です。明治時代までは共通という意味の「共」に「引く」と書いていました。意味は、「勝負がつかない引き分けの日」です。しかも、「大安」の次に日取りが良いとされています。

もう一つは、「仏滅」です。これは「何をするにも悪い日」だそうで、明治時代までは「物」を「失いやすい日」として「物」の「ぶつ」に「滅」と書いていたのです。人によっては「仏すらも滅びる縁起の悪い日」と解釈していたようです。

ここまで知れば、私たちが何となく考えていた理解が曖昧であったことが分かります。「六曜」は陰陽道の教えであって、仏教の教えではないのです。それでも納得行かない人は、お寺のお坊さんに「友引は仏教の教えですか」「仏滅は仏教の教えですか」と尋ねてください。

私たちはカトリック教会の信者ですから、カトリックの教えを大切にしなければなりません。福音朗読では十二人の弟子たちが二人ずつ組にして遣わされていきます。ここでも、弟子たちに本当に必要なことは一つです。それは、「イエスの弟子だから、イエスの教えを何より大切にする」ということです。

イエスは弟子たちを派遣するにあたり、指示を与えました。「旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず」(6・8)とあります。この指示は、イエスの教えを何より大切にするという考えが背景にあります。

実際には予備のためのパンを備えておくと、何かと便利でしょう。寄付をしてもらうための献金袋を持っておくことも、いざというとき助けになるでしょう。けれどもそれは、「イエスの教えを何より大切にする」という原則に外れるのです。イエスの教えに行き詰まったとき、すがるものがほかにある。これでイエスに全幅の信頼を置けるでしょうか。

「この場面ではイエスの教えを拠り所にしましょう。ここは民間信仰を拠り所にしましょう。」私たちキリスト者には、そのような使い分けは許されていないのです。すべてがキリストを拠り所にして組み立てられたものでなければならないのです。

私たちの命はどのようにして与えられたのですか。私たちは死ぬとどのようになるのですか。キリスト者は皆、子供であろうが大人であろうが、命の始まりから死、そして復活の希望まで、イエスの教えを拠り所にして説明すべきなのです。

あえてもう一度触れておきます。なぜこの世の旅立ちについて、仏教徒が陰陽道を拠り所にして日取りを決めるのですか?私たちキリスト者は陰陽道を気にして旅立ちの日を決めたりしません。仏教徒も、仏教の教えに沿って旅立ちの準備をすべきではないのでしょうか?

私たちキリスト者は、命の始まりから終わりまで、復活のキリストに希望を置いて人生を全うします。イエスから派遣された弟子たち、朗読では教えについて細かな指示はありませんが、派遣された場所で彼らの一挙手一投足が、人々に「この人はイエスの教えを拠り所に生きている」と感じさせたのです。最後は教えがどうのこうのではありません。生き方が、「この人はイエス・キリストを心底信じて生きている」と伝われば、それが何よりの宣教、証なのです。

日本人の多くは「今日は日が悪いから」と言って行動を控えたりします。その中には仏教徒もいるでしょう。仏教が教えもしない「友引」や「仏滅」に右往左往していては、「私は仏教の教えを拠り所にして生きている」とどうして言えるのでしょうか。

キリスト者は「日が良くても悪くても」福音を宣教します。パウロが弟子のテモテへの手紙で述べた通りです。「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。」(2テモテ4・2)

派遣された人は、福音を携えて行きます。私たちも今日、この聖堂から派遣されていくのです。「大安」の日も「友引」の日も「仏滅」の日も、私たちがすることはたった一つ、イエスを拠り所にして日々を生きる。これです。この一つを携えて、今週の生活に戻っていきましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第16主日
(マルコ6:30-34)
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ちょっとひとやすみ
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▼写真の掲載が間に合わなかった週が何度かあり、それを繰り返すうちにテーマの重複さえ起こってしまった。5月13日以降の写真が閲覧できるようになったのでお知らせ。長く放置してしまい、大変申し訳なく思っている。
▼今週の「六曜」の由来は大変勉強になった。お寺の坊さんに聞いても「友引」が仏教の教えでないことは明白である。陰陽道とか民間信仰を信じることと、自分が所属する宗教を信じることと両立できるか、考える場を作ることができた。
▼カトリックは陰陽道とか民間信仰を受け入れながらのキリスト教信仰を両立させたりはしない。カトリック信者はカトリックの教えに立って生きる。それだけである。そこをハッキリさせることができてよかった。そして、誰もが宣教できるパズルの一つを持つことができた。これまで埋めることができずにいた部分を、確実に埋めるピースの一枚だと思っている。
▼今週は涼しい場所を見つけた猫の写真を掲載するが、本当はゴーヤの竹垣をすぐにも見せたい。花が咲き、「もうすぐ」と知らせてくれている。猛烈な日差しの中で、青々と茂るゴーヤの葉は、それだけで涼しさを感じさせている。
▼大阪にはいつ以来だろうか。天国に行った人たちと結びつく事情で大阪に行ったとき以来か。あまりはしゃいで行くわけではないが、大阪はなかなか足を運ばない場所なので、楽しみにしている。特に補佐司教に叙階される被選司教は、大のタイガースファン。舌戦でこれからも阪神-広島戦わせたい。

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今週の1枚
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第560回目。あまりに気持ちよく眠っていて、私が近づいても飛び退かなかった。

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