こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

復活節第4主日(ヨハネ10:1-10)わたしを通って入る者は救われる

2017-05-07 | Weblog
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(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/170507.mp3

(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
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こうじ神父
「今週の説教」
2017/5/7(No.884)
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復活節第4主日
(ヨハネ10:1-10)
わたしを通って入る者は救われる
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2泊3日のお休みをいただきました。ソウル大司教区の司教座聖堂明洞聖堂を訪問してきました。縦が100m横が30mはあったと思います。この聖堂でしばらく今週復活節第4主日の説教案を考えてみました。

さて今週お願いされているミサの中で、育成会がお願いしたミサがあります。小学生・中学生の皆さん、気が付いたでしょうか。育成会のお父さんお母さんが、こどもたちが神さまのこどもとして成長してくれるように、ごミサをお願いしてくれました。

主任神父さまは、こどもの日をこう考えます。「こどものために、いちばんよいことをしてあげる日」これが神父さまの考える「こどもの日」です。育成会を作っているお父さんお母さんたちは、こどものためにいちばん良いことは何かを考えて、ごミサをお願いしてくれたのです。

もしかしたらこどもたちは、「ゲームを買ってくれることがいちばんいいのに」とか、「遊園地に連れて行ってくれたらいちばんいいのに」と思っているかもしれません。もし本当にその通りだったら、あなたのお父さんお母さんは、今日のミサに来てないでしょうし、小学生・中学生のあなたも、ここにはいないはずです。

育成会を続けてくれているお父さんお母さんがこどもたちのためにいちばん大切なことと考えたのはゲームでも遊園地でもなく、神さまの恵みを受けてすくすくと成長することです。目の前の楽しみは、目の前のことだけですが、今日こどもたちの成長を願って神さまからいただく恵みは、小学生・中学生の明日を作り上げていくのです。

未来を保証する神さまの恵みこそ、今こどもたちに必要だ。育成会のお父さんお母さんたちはそう思ったので、ごミサをお願いしてくれたのです。神父さまは育成会を誇りに思います。

福音朗読に戻りましょう。朗読の後半を取り上げたいと思います。イエスさまは「わたしは羊の門である」(10・7)「わたしを通って入る者は救われる」(10・9)と言われます。「門」をたとえにする話は、日本人には分かりやすいと思います。

立派なおうちは、入り口になる門も立派です。おうちの様子が見えなくても、立派な門を見れば、「ここのおうちはきっと立派だろう」と想像できます。門構えが、建物のだいたいの様子を想像させるのです。

お話の初めに、ソウルの明洞大聖堂に触れました。圧倒されるような大きさでした。近づくとだれもが、「入ってみようかな」と思わせる大聖堂でした。大きさは、人を惹きつけます。田平教会もそうです。明洞大聖堂にはかないませんが、ここに訪ねてきた多くの人が、入り口を探して、入ってみようと思うはずです。

建物の「門」だけではありません。わたしたちは、「入門」という言葉を聞いたことがあるでしょう。学び始めることを「入門する」と言いますし、学び始めるときの本を「入門書」と言います。有名な人に弟子入りするのを「門をたたく」と言うこともあります。それは本当に門をたたかなくても言ったりします。

教会も「門」にたとえることができます。復活徹夜祭に、一人のお父さんが洗礼を受けました。そのお父さんは田平教会の門をたたいて、勉強会を始め、洗礼を受けるために入門したわけです。イエスさまの弟子になりたいと思って入門してきました。だから、教会の門をたたいて洗礼を受ける人は、イエスさまが言っている通り、「わたしを通って入る者は救われる」のです。

大聖堂を見たとき、または田平教会のように立派に建てられた教会を見たとき、人はどうして、「ここに入ってみたい」「ここで学んでみたい」と感じるのでしょうか。それは、何かよいものがある、何かを受けることができると感じるからだと思います。

心で感じるものは、きっと本物だと思います。心で感じたこと、心に響いた声にちゃんと答えをもらったとき、わたしたちはいちばん満足できるのだと思います。特別おいしいものとか、高級な品物ではなくても、心が感じていることにきちんと答えてくれるものを、誰もが探し求めているのです。

「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。」(10・9)これはイエスさまの固い約束です。立派な聖堂はイエスさまのしるしで、イエスさまが立派な聖堂を通してわたしたちを招いてくれます。「入りたい」と感じた人は、この聖堂を出入りして自分の心が期待していたものをイエスさまからいただけるのです。

聖堂に入って、聖堂でお祈りして帰る人は、がっかりした顔をして帰ったりはしません。もしかしたら何ももらっていないかもしれません。けれども、心が感じたものを多くの人が受け取って帰るのです。

わたしたちは、「行ってみたいなぁ」と思って聖堂に入る人々とは違います。わたしたちは「聖堂に入ると、イエスさまから心が感じている必要なものをもらうことができる」とちゃんとわかってやって来ています。もしできるなら、おともだちに、「わたしたちは日曜日とかに教会のミサに行って、イエスさまに育て導いてもらってるんだよ」と堂々と言える人になってほしいなぁと思います。

ときどき、教会の中を窓から覗く人がいます。ミサの説教中も、正面玄関のガラスの向こうから覗いている人がいます。窓から覗いても、イエスさまに養われることはできません。覗いて終わりではなく、「わたしの心がこの聖堂に引き寄せられているから、中に入って養われたい、中におられるイエスさまに導かれたい」そんな心の声に動かされる人がもっと増えるように願いましょう。

皆さんも、「この聖堂に入ってみたいですか?では先に入ったことがあるわたしに、ついてきてください」そんな案内をして、一人でも多くの人を真の羊飼い、真の門であるイエスさまに案内することにしましょう。

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‥次の説教は‥‥
復活節第5主日
(ヨハネ14:1-12)
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ちょっとひとやすみ
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▼4月29日に結婚式が行われた。最近は結婚式の勉強会にしても洗礼の勉強会にしても、考えさせられることが多い。時間をかけてできるだけの内容を学ばせたいと思っているけれども、「何回勉強すれば終了できますか」と聞かれる。
▼そう聞かれると「ただ終わらせたいだけなのだろうな」そういう印象を持ってしまう。しまいには、「どうしても勉強しないといけませんか?」とまで聞かれる。そうなるとお手上げで、いつの間にか勉強会にも顔を出さなくなり、せっかくの機会を逃してしまった人も。
▼わたしにも責任があると思う。だがどうしても、その人が自分で信仰の道を歩んでいくために、何かを学んでおく必要があると思っている。初めは家族や、配偶者や、周りの人がいて信仰の道案内をしてくれると思うが、その人たちがいつまでもいてくれるわけではない。
▼たとえば両親はしばしば自分よりも先に旅立つ。配偶者に頼りっぱなしの信仰も、配偶者がいつまでも共にいて、支えてくれるとは限らない。配偶者が寝たきりになったり、認知症になったり、自分の足でいただいた信仰を歩んでいくために、いくらかの勉強は必要だと思っているのだが。
▼自撮り棒を買って、自分の顔を写して、「意外と面白いな」と思った。自分に語りかける。「最後は自分が頼りだよな。だから自分の足で立って歩くために必要なものを示してあげようと思っているのに、なかなか分かってもらえないよな。」
▼もちろん、慰められるような勉強会もある。そのような勉強の人に、何度も救われた。一方で、勉強会に及び腰の人に、これからどのような導きが有効なのか考えてしまう。先輩たちも通ってきた道だと思うが、どのように乗り越えていったのだろうか。

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今週の1枚
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第491回目。ひところ流行した自撮り棒。「今頃買ったの?」と言われそう。

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† 神に感謝 †
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