こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第23主日(マタイ18:15-20)忠告するのは神の光のもとに置くため

2017-09-09 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2017/9/10(No.903)
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年間第23主日
(マタイ18:15-20)
忠告するのは神の光のもとに置くため
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わたしの車はETCが取り付けてあります。通常ETCレーンで降りるのですが、考え事をして佐々から乗って佐世保中央を通過してしまい、次の大塔でも動揺していたのか、ETCレーンではなく一般レーンに入り、そのまま通り過ぎようとしたのです。

すると係員が叫びながら飛んできました。「お金払って~。お客さんお金~。」係員の目には、一般レーンを不正通行しようとしている車に映ったのだと思います。ぼーっとしていたとは言え、わたしがそんな間違いをしたのがちょっとショックでした。監視カメラにもしっかり映ったことでしょう。

今週年間第23主日は「兄弟の忠告」について取り上げられています。誰かに忠告するのは難しいものです。上手な人でも難しいのですから、下手な人が忠告すれば、忠告したことがかえって分裂を引き起こしたり争いのもととなったりします。

ちなみに忠告が下手な部類の人たちがいます。ここに集まっている人の中では、主任司祭がいちばん下手だと思います。なぜかと言うと、主任司祭はいきなり祭壇の上から忠告したりするからです。

イエスは手順を踏んで忠告しなさいと言われました。「行って二人だけのところで忠告」「ほかに一人か二人、一緒に連れて行き、忠告」「それでも聞き入れなければ、教会に」教会の場を借りて忠告するのは最後の手段と考えるべきですが、主任司祭はいきなりそれを用いる危険があります。だから下手ということになります。

むしろ、問題を抱えている人に、二人だけのところで忠告したり、二人または三人の証人の口によって忠告したりできる皆さんのほうが、忠告は上手なのだと思います。主任司祭の忠告は「下手な人が忠告している」と思いながら聞いてください。

この前、今月の木曜会が開かれまして、お父さんたちと時間を過ごしておりました。ある教会行事にまつわることでわたしは改善を求めたくてある人に忠告しようと身構えて行きましたが、結局言わずじまいでした。イエスが示す原則に外れていたからです。

みんなが集まっている場で忠告すれば、「二人だけのところで忠告」に外れますし、自分一人で思い悩んで忠告しようとしていたので「一人または二人を連れて」という原則にも外れます。結局その場では言えませんでしたが、もし気付く人がいれば、主任司祭のせっかくの好意を台無しにされると主任司祭も気分が悪いよと、それだけヒントを言っておきたいと思います。司祭の下手な忠告でした。

忠告をするのは皆さんのほうが上手なことはすでに言いましたが、さらにその忠告を効果的なものとするために、イエスは次の言葉を付け加えました。「はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。」(18・19)

「わたしたちの忠告に耳を傾けてほしい。」言葉を選び、聞き入れてくれそうな場所や環境を整えて忠告しますが、本当に聞き入れてくれるかどうか、相手の心まではわかりません。そんな時、イエスの言葉は力強いと思います。心を一つにして祈り、聞き入れてくれるよう願うならば、その願いをかなえてくださるのです。

ここでも司祭と信徒の皆さんとの能力の差が現れます。司祭は家族もいないので、いつも一人で祈るしかありませんが、信徒の皆さんはより容易に誰かと一緒に心を一つにして祈ることができます。家族と祈るとか、パートナーと祈るとか、修道院でも共同体の姉妹とともに祈ることができます。ここでも司祭よりお集りの皆さんのほうが忠告に必要な恵みを神にかなえていただけるのです。

忠告を何度か試みる中で、最後の砦に教会がなっているのはなぜでしょうか。司祭の忠告が優れているからでしょうか。先ほどから申し上げている通り、司祭の忠告がいちばん下手なのです。そうではなく、教会が忠告の最後の砦になっているのは、教会の忠告は相手の人を神の光のもとにさらす働きがあるからです。

罪を犯した人を神の光のもとにおいて自分の過ちに気づき、悔い改める。そのために教会は最後の手段となっているのです。すると、二人だけのところで忠告する場合も、ほかに一人か二人連れて行って忠告する場合も、神の光のもとに相手を置くよう促すことが最も効果的な忠告なのだと言えるでしょう。

わたしは夢に描いていることがあります。わたしのもとに助任司祭が派遣されたとき、どんな共同生活をしようか、ということです。助任司祭をいただいたなら、初めてほかに一人、心を一つにして祈ることができるかもしれません。

ひょっとしたら、助任司祭に忠告することがあるかもしれません。その時、二人だけのところで忠告しようと思います。また、助任司祭が神の光のもとに自分を置くきっかけを与えられるような忠告をしたいと思っています。そんなことを、夢見ることがあるのです。

皆さんは違います。夢見なくても、今すぐにでも、イエスの勧めを取り入れて忠告することができます。忠告の必要な人を神の光のもとに置いて、一人でも多く兄弟を得ることができますように。神に願うことにしましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第24主日
(マタイ18:21-35)
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ちょっとひとやすみ
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▼辛抱が足りなくなってきているかもしれない。若い頃は短気を起こして迷惑をかけることがあったが、50歳を過ぎて短気を起こすと血圧が上がるとか何とか、そんなことを本気で思うようになって短気を起こすことはめったになくなっていた。
▼ここ最近で二度、やかんが沸騰した。一度は召命フェスティバルの時に、帰り際に田平教会の子供たちの集合写真を撮って帰ろうとしていた。ほとんどの子供がさっと集まって写真撮影に協力してくれたが、一人ノロノロと近づいてくる。周りは会場の後片付けをしていて、わたしたちが居残っているのが申し訳ない雰囲気になっている。
▼早く集合写真を撮影して、迷惑をかけている状況を脱したい。わたしは焦っていた。それなのにその一人の子は遠くから、ゆっくり歩いてくる。二度ほど、「写真を撮るからおいで」と促したのに聞こうとしない。そこでしびれを切らして「早く!」と怒鳴ってしまった。
▼今一度は、評議会の時である。自分に任せられた務めの大変さをいろいろ並べている評議員がいて、そのうちの一つの務めは、わたしが所有している道具を貸してあげれば何の問題もない用件だった。「わたしのところに○○○○があるよ。それを使えば問題ないでしょ。」
▼しかしその人はその後も大変な作業をして務めを果たしていると説明する。わたしは面倒くさくなって、「さっきも言った通り、○○○○を貸すと言ってるじゃない!」明らかにわたしは自制心を欠いて、イライラしていた。そのあとの返事がまた引っかかった。「本当に貸してもらえると思ってなかったもので。」
▼どうも、うまく伝わらない。道具があるといった本人が「でも貸さないよ」と言うだろうか。貸すに決まっているのに「本当に貸してくれるのですか」と言われ、そのあとは腹を立てたまま会議の席に座っていた。二度にわたり、辛抱が足りなくなってきていると感じる場面だった。当然、自分に何かを言い聞かせる必要があると感じている。

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今週の1枚
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第510回目。先週と同じ上五島子供巡礼の写真。紺碧の海にうっとり。

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† 神に感謝 †
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