こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第27主日(マタイ21:33-43)収穫を受け取る主の栄光のために働く

2017-10-08 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2017/10/8(No.907)
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年間第27主日
(マタイ21:33-43)
収穫を受け取る主の栄光のために働く
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年間第27主日A年の福音朗読を味わうために、第一朗読を少し意識してみましょう。ひごろから、第一朗読、第二朗読のことを前置きして福音朗読に向き合うことが望ましいですが、今週は特にそのことを意識してみましょう。

数日前に広島のMさんからショートメールが入りました。「10月19日(木)、マツダスタジアムのチケットが手に入りました。ご一緒しませんか?」というものでした。この方は広島の司教様の運転手なのですが、願ってもない連絡にすぐ飛びつきたい気持ちを抑え、確認を入れてみました。「広島の司教様は、その日の予定はどうなっていますか?」

すると、すぐに返事がきました。「広島の司教様もいっしょにマツダスタジアムです。中田神父様がその日司教館に泊まるようでしたら、司教様とご一緒にミサができるように手配します。いかがでしょうか。」

答えはもう決まっているのですが、もったいぶってこう返事をしました。「その日は典礼委員会が予定されていますので、日程の調整ができたらわたしも加えてください。」19日(木)の典礼委員会、前日か、翌日か、一週間後か、いずれかに変更願います。

さて今週の福音朗読をもう一歩踏み込んで考えるために、第一朗読にヒントをもらいたいと思います。第一朗読は「イザヤの預言」です。不忠実なイスラエルの民に回心を迫る書物ですが、「わたしの愛する者」はぶどう畑に良いぶどうを植えました。そして良いぶどうが実るのを待ったとあります。

ここで「良い」と日本語に訳されている箇所はそれぞれ別の単語が使われていて、「わたしの愛する者」が植えたとされる「良い」ぶどうの木、ここで使われている「良い」は、「選りすぐりの」という意味があるそうです。

他方、「良いぶどうが実るのを待った」という場面での「良い」は、「まあ、普通に」ぶどうの汁を絞ることのできるぶどうという意味で、「選りすぐり」のような特別な価値を含んでいないそうです。

すると、ここで登場する「わたしの愛する者」が植えてくださったぶどうの木は選りすぐりのぶどうの木であり、そこから期待したのは、「まあ、普通に」ぶどうの汁を絞れたらそれで十分という控え目な期待だったことが分かります。

「しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。」この落胆は大きいでしょう。選りすぐりのぶどうの木を植え、まあ普通にぶどうの汁を絞れたらそれでいいよと言っているのに、その控え目な期待にさえ応えてくれない。ここを理解して、福音朗読に入っていきたいのです。

福音朗読でも、同じような物語の構造がみられるでしょうか。ぶどう園の主人はぶどう園を極めてよい状態に整えて農夫たちに貸し与えました。僕たちを送り出したのは、「収穫の時が近づいたとき」でした。これはつまり、いよいよ収穫の時になって受け取りにだけ来たのではなく、収穫の時を共に喜び合うために、少し早めに入って一緒に汗を流して収穫し、それを受け取ろうという主人の配慮でしょう。主人が最後に送った息子も、やはり共に汗を流して収穫の喜びを分け合うつもりでした。

わたしはここにも、イザヤ書と重なる設定を考えてよいと思います。ぶどう園の主人は、選りすぐりのぶどう園を準備して農夫に貸しました。僕たちは、分け前だけを取りに来たのではなく、ともに汗を流そうと少し早めに来ました。愛する息子も、ぶどうの収穫にあれこれ注文を付けていないのです。選りすぐりの収穫でなくても、普通に収穫を納めればよかったわけです。

結果はどうなったでしょうか。無残な結果に終わりました。控え目に見積もった収穫の受け取りすら、主人は受け取ることができませんでした。本来なら「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。」(21・41)

こうなっても仕方がなかったのですが、このたとえで予想される結末を超越して、神は人間の救いの為に「家を建てる者の捨てた石」(21・42)となられたイエスを通して、救いを成し遂げてくださったのです。選りすぐりの、さらに極みである御子イエス・キリストさえいけにえにして、神はご自分の救いの計画を完成されたのです。

わたしたち田平教会の家族は、今週のたとえから何を学ぶことができるでしょうか。田平教会はあと八ヶ月もすると教会献堂百周年を迎えます。収穫の時が近づいているのです。収穫の時が近づいて、一人ひとりこの場所に神から僕として送られてきたのです。

少し時間を与えられて、献堂百周年を迎えようとしています。わたしたちは互いに力を合わせて、汗を流して、収穫の時を迎えようとしているでしょうか。「百周年の事業のために実行委員会が組織されているではないか。」たしかにそうですが、田平教会を形作っている神の民全員が収穫の為に手を差し出さなければ、本当の収穫は得られないのではないでしょうか。

誰かが手を開かず握りしめたままそこにいたら、神が受け取るべき収穫は、間引きされ、横取りされて、みすぼらしいものになってしまうでしょう。「ご主人様、わたしたちを百周年に遣わしてくださいましたが、ご覧ください」と、主である神と喜びを分かち合えたらと思います。

たとえ話のように、田平教会の神の民にも収穫の時はもうすぐそこまで来ています。「収穫を自分のものにしてしまおう」「わたしがいたから計画は成功したのだ」などというような自己中心的な考えはいっさい捨てましょう。もしそのような人がここに混じっていたら迷惑です。そうではなく、神に収穫をお渡しする。その一点に集中して、これからの八カ月を過ごしてまいりましょう。一つひとつのわざは、収穫を受け取る主の栄光となるべきです。

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‥次の説教は‥‥
年間第28主日
(マタイ22:1-14)
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ちょっとひとやすみ
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▼記録は嘘をつかない。Facebookの関連アプリであるMessenngerに、Mさんとの会話が残っている。(中田)「ところで、今年もクライマックスシリーズ応援に行きたいです。今年は特に、銀祝なので思い出になります」
▼(M)「こんにちは。CSですが、全力で取りたいと思っています。取れたら、ぜひ一緒に応援しましょう」(M)「こんにちは。CSのチケットが確保できました。19日ですが、一緒に応援しませんか?」
▼(中田)「この日会議です。ずらせないか相談してからあらためて返事します。三連勝で日本シリーズに駆け上がりたいですね」(M)「決まり次第連絡ください。また一緒に応援したいですね。」
▼(中田)「参加でお願いしいます。司教様はお会いできるでしょうか」(M)「司教様も行かれます。神父様の司教館宿泊も確保しています」以上。この文面からすると、わたしがけしかけたのだったかもしれない。

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今週の1枚
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第514回目。ちょっと早いが、上五島巡礼と鯛之浦教会での銀祝ミサ日程表。

ホームページもご覧ください。
http://hanashi-no-mori.news-site.net/

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文庫本説教集「取って食べなさい」に問い合わせくださり
ありがとうございます。C年の文庫本がまた見つかり、
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† 神に感謝 †
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