こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第20主日(マタイ15:21-28)あなたの願いどおりになるように

2014-08-17 | Weblog
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(音声ファイルは、MP3形式です。)
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こうじ神父
「今週の説教」
14/08/17(No.724)
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年間第20主日
(マタイ15:21-28)
あなたの願いどおりになるように
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イエスはカナンの女の信仰をほめました。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」(15・28)この女性のイエスに対する信仰は最初から立派だったのでしょうか。今週の福音朗読から、どのような人がイエスに「あなたの願いどおりになるように」と言ってもらえるのか探ってみましょう。

ひょっとしたらカナンの女性は、娘が受けている災難を取り除いてもらえればそれでよい、そんな身勝手な思いでイエスに近づいていたのかもしれません。イエスは珍しく厳しい態度でこの女性に向き合います。最初は彼女の願いに何もお答えにならなかったのです。

「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」(15・22)。叫び声を聞けば、イエスへの信仰を持っているようにも聞こえますが、人の本心は分かりません。うわべだけの言葉で、自分の願いをかなえてもらえればそれでよいという人かもしれません。

弟子たちも煩わしさから解放されたかったのでしょうか、イエスに取りなしをしています。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」(15・23)面倒なことから逃れたいという気持ちが伝わってきます。

すると彼女はより真剣にイエスに取り合ってもらおうとします。今度はイエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」(15・25)と言うのです。もはや悪霊に苦しめられている娘が助かればだれでもよいというのではなく、娘を助けてくれるのはイエスしかいないと考えるようになっていました。

そこにイエスのさらに厳しい言葉が待っていました。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」(15・24)。確かにイエスは、イスラエルの民のために遣わされていましたが、彼女がイエスに失望して、悲しみながら去っていくことは考えなかったのでしょうか。彼女は何とか食いさがります。「主よ、どうかお助けください」(15・25)。

とうとうイエスは最後通告とも思える言葉を発したのです。「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」(15・26)何をどう言ってもイエスは動いてくれそうにありません。娘の苦しみさえ取り除いてもらえればあとはどうでもよいというのでしたら、これ以上踏みとどまる理由がどこにあるでしょうか。

ところがカナンの女性は一歩も引かなかったのです。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」(15・27)イエスはこのカナンの女が一歩も引かないであろうということを知っていたのでしょう。一歩も引かないのであれば、彼女の中に深く研ぎ澄まされた信仰を植え付けようと考えておられたのかもしれません。厳しい質問のやり取りの中で、カナンの女の信仰は研ぎ澄まされていきました。そして、イエスの期待にふさわしい信仰へと変わっていったのでした。

自分たちが異邦人であって、イエスが言う「子供たちのパン」にあずかれない立場であっても、それでもイエスに依り頼む以外に道が無い。どんなに狭い入口であっても、イエスによってしか道は開けない。彼女はイエスの突き放すような言葉を受けても、決して希望を失わず、かえってイエスへの信頼を増していったのでした。

「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」彼女はイエスによって十分に訓練を受け、信仰が研ぎ澄まされたのでした。そして願いをかなえてもらうのにふさわしくしていただいたのです。ここに、わたしたちが今週見習うべき点があると思います。

イエスさまとカナンの女とのやり取りの中で一つの特徴を見つけました。イエスさまはご自分の立場を一歩も譲りませんでした。イスラエルの民の救いが先にあり、異邦人の救いはそのあとだったからです。けれどもカナンの女も一歩も引きませんでした。最初は利己的な願いを持っていたかもしれませんが、最後はイエスのどんな訓練にも一歩も引かなかったのです。

ここから、わたしたちがイエスに「あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように」と言ってもらうためには、わたしたちに一歩も引かない覚悟が必要なのだと分かります。イエスは誰かの信仰をさらに高めるために必要なことは、一歩も譲らない方なのです。そのイエスに合格点をいただくためには、わたしたちも一歩も引かない覚悟が必要なのです。

信仰を次の世代に何とか受け継いでもらいたい。信仰教育を何とか実らせたい。悩ましい願いがあり、思い通りにいかない現実があるかもしれません。イエスが試練を通してわたしたちの信仰を鍛えようとするとき、一歩も譲らないでしょう。

わたしたちも、願いをかなえてもらうために一歩も引かない。その覚悟で毎日の信仰の歩みを進めていきましょう。一歩も引かない姿を見て、イエスはきっと「あなたの願いどおりになるように」と答えてくださると思います


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‥次の説教は‥‥
年間第21主日
(マタイ16:13-20)
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ちょっとひとやすみ
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▼夏の高校野球全国大会も大いににぎわっている。長崎の海星高校は西東京代表の高校と対戦。序盤圧倒されて6対1になり、「これはもう応援しても駄目だ」と諦め、チャンネルを変える。それでも長崎県民として完全に見捨てる気にもなれず、チャンネルを戻してみたら雲行きが怪しくなっていた。
▼相手のピッチャーが連続で四球、死球、さらに連打。あれよあれよという間に点が入り、ついに投手を交代するも押し出しのデッドボール。とうとう6対5まで迫った。これはもしかしたらもしかするのか?と思ったが相手も目が覚めたかピリッとなり、追加点を入れて7対5と突き放しにかかる。
▼こうなると田舎から出てきた高校は度胸が足りないのか、思い切りよくバットが振れなくなった。このまま負けると、「あー、やっぱりかぁ」で終わってしまう。何とかもう一度相手を慌てさせてほしい。慌てさせれば、また一挙に4点入れたときのようなことが起こるかもしれない。
▼海星にはいくつもの学校からスカウトが来た強打者がいる。H君は注目の打者。何度もチャンスに回ってきているから、どこかで「すごい打者だなぁ」というところを見せてくれ。バットは振らなければ当たらないぞ。選球眼がよくても打てなきゃ四番じゃないぞ。あー、空振りかいな。
▼相手チームは5回まで毎回得点。さあ6回裏。ゼロに抑えて、次の7回で追いつこうや(「や」は長崎の方言。「追いつこうぜ」の意味になる)。あー、負けたか。

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今週の1枚
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第331回目。すぐ近くまで教皇さまおいでになったのですが、日本は近くて遠い。

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