こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第4主日(マルコ1:21-28)イエスの教えに耳を傾け、導かれて生きる

2024-01-26 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2024/1/28(No.1278)
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年間第4主日(マルコ1:21-28)
イエスの教えに耳を傾け、導かれて生きる
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説教は、どうしてもまとまらなかったので9年前のものを焼き直しました。年の黙想会の日程が決まりました。説教師は今回私がします。助任神父様におだてられてすることになりました。二人とも、私を働かせるのがとても上手です。

30日(火)司祭団マラソン大会です。10時過ぎに堂崎天主堂を出て、9キロ走る予定でしたが、最後の最後にふくらはぎを痛め、5キロのウォーキングにエントリー変更します。助任神父さんはマラソンで颯爽と走ると思いますが、私は浦頭教会前からトボトボという感じでしょうか。今年を最後のマラソンのつもりで、また助任たちと競い合えると思っていただけに、残念でなりません。

福音朗読に移りましょう。出来事を目撃した人々は驚いて、論じ合いました。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」(1・27)

皆さんは「汚れた霊」にどうしても目が行くと思いますが、与えられた朗読個所でいちばん多く取り上げているのは「教え」あるいは「教える」ということです。数えてみましょう。「イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。」(1・21)「人々はその教えに非常に驚いた。」(1・22)「律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになった」(同)「権威ある新しい教えだ。」(1・27)

短い朗読の中で、4回も繰り返されています。つまり今日の物語ではイエスの教える姿が中心なのであって、汚れた霊を追い出すのはイエスの権威ある教えを証明する一例に過ぎないのです。

ただ中心がイエスの教える姿であったとしても、その影響が同心円のように広がっていったかというとそうでもないようです。中心であるイエスの教えるそのそばにいた目撃者たちは、「皆驚いて、論じ合った」(1・27)とあります。

たいてい「論じ合う」という場面は意見が分かれ、双方が意見をぶつけ合っているさまです。彼らはすぐ目の前でまったく新しい権威を帯びて教えるイエスを見ていながら、権威に裏打ちされた驚くべき御業を見ていながら、目の前のイエスをそっちのけにしてああでもないこうでもないと論じ合っているのです。

イエスが権威をもって教える様子、イエスの権威を裏付ける御業、これらを目撃した人々が本当にすべきことは、あれこれ論じ合うことでしょうか。この場面で汚れた霊だけが、教えるイエスに対してなすべきことを叫んだのです。

「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」(1・24)「正体は分かっている。」これは、なすべきことが分かっているから言える言葉です。もちろん実際にはなすべきことを果たしません。

そばにいた人々も、心の中ではなすべきことが何かを知っていたのです。教えるイエスに耳を傾け、その言うことを聴く。これがそばにいた人々のすべきことなのです。彼らは何をなすべきかをすでに理解しています。

ところでわたしたちは今どこに集まっているのでしょうか。わたしたちもまた、教えるイエスのすぐそばに集まっているのではないでしょうか。「これはわたしのからだである」「これはわたしの血である」と、驚くべき御業をおこなうイエスのすぐそばに集まっているのではないでしょうか。

わたしたちも、イエスのすぐそばに集まっているわけですから、あれこれと議論していてはいけないのです。むしろ謙虚に耳を傾け、「おことばをいただくだけで救われます」と、ミサの中で答えるべきなのです。イエスのおことばをいただいて思い巡らすとき、なすべきことは示されます。

もう一度確かめましょう。わたしたちの生活は、いのちを与えてくだる神が留まる場所を用意していなければ成り立たないのです。神が留まるべき場所に汚れた霊を呼び込んで、自分さえよければよい、神などいらないという生活をすれば、滅びへの道をたどるのです。

「この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」この言葉が私たちの信仰を表す言葉となりますように。わたしたちが選ぶことのできる正しい生活は、「教え導くイエスを生活に招き入れ、その言うことを聴く」この道しかないのです。

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‥次の説教は‥‥
年間第5主日(マルコ1:29-39)
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ちょっとひとやすみ
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▼満身創痍。最後の一週間、マラソン大会の練習を強めにおこなった。右足にけいれんが。肉離れだろうか。湿布を貼ったりしてあと2日に迫った本番を待っている。年齢には逆らえない。中田神父のマラソン挑戦は、半距離のウォーキングに変更となった。
▼レース後も、日々のウォーキングは続けようと思う。これまでは大会が終わったらお約束のように運動もやめていたが、今年は続けよう。ウエストが明らかに細くなった。去年のズボンに両手が入っている。

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今週の1枚
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第885回目。マラソン大会の写真が手に入ったらアップ予定。1月30日以降に。

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† 神に感謝 †
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