一昨日に、友人の1周忌を最後まで傍にいた息子さんに、天に還って行った瞬間の様子を、会食しながら聞きました。
私は長い間、自宅で真っ暗闇の中で、1時間を深呼吸の要領で長く吐く呼吸、体の中へイメージで吐く呼吸に意識を集中しながら、静かに座っていた時には、眼のことは意識することはありませんでした。
座禅の素晴らしさを感じ、このような座禅会を、日常的に行っているお寺をネットで検索し、近くの稲城の臨済宗のお寺で、行っていることを知って、日曜日の朝に参禅させてもらうことになり、一月に一回通いました。
その時に和尚さんから、眼は半眼にしなさいと云われたのです。 それ以来、半眼にしなければならない理由などを、座禅中のふと浮かぶ雑念の中で、考えてみました。
結論的には、究極的に力が抜けて来ると、眼は自然と半眼になるのではないかと云うことです。 人が天に還る時には、下々のものが排出されると云うことを聞いていましたので、多分、目も半眼になるのではないかと感じたのです。
残念ながら私は、父の時も母の時にも、その時には立ち会っておりませんので、立ち会った方に訊きたいと思っていたのです。 一昨日に息子さんたちに確認したところ、眼は半眼であったとのことでした。
和尚さんが云うように意識して半眼にすると、残念ながら力が働いてしまうのです。 また目を瞑ろうとしても、眼を開けようとしても、力は必要なのです。 意識をあるものに一点に集中することによって、またある程度、時間をかけて心身の深層部までも含めて、力を抜くことが大切なのです。