ガジ丸が想う沖縄

沖縄の動物、植物、あれこれを紹介します。

新潟から山越え東進の旅2005秋

2014年02月18日 | ガジ丸の旅日記

 1、旅の初めは20分前

 出発の日、新潟への便は午後1時過ぎ。時間に余裕があった。埼玉の友人に「会えますか」という内容のメールを送る。「会える」との返事。何か土産を買って行くかと考えながら、旅支度をする。3泊4日分のパンツ、Tシャツ、靴下などをバッグに詰め、カメラ、筆記具などを入れ、最後に、航空券の確認、3泊の宿の予約確認などをする。
 宿は3泊ともインターネットで予約しており、旅行会社からの予約確認メールをプリントアウトして、宿の名前、地図などが分かるように準備してある。・・・はずであった。ところが、2泊目の高崎、3泊目の赤坂のホテルについてのプリントはあったが、1泊目に泊まる予定の、新潟の宿のプリントが無い。予約ができているのかどうか不安になる。電話番号も無いし、宿の名前さえも覚えていない。さて、どうしたもんかと。

  近く(車で10分)にある友人の店へ急ぐ。パソコンを貸してもらって、旅行会社にアクセスして、改めて予約確認をすればいいのだ。予約確認のページへ入るには、会員番号と、登録した連絡先電話番号が必要となる。電話番号は、職場か、金曜日の職場か、あるいは携帯電話のどちらか、3回挑戦すればいずれかが当たる。ところが、会員番号が分らない。思い当たる番号をあれこれ入れて試すが、なかなか当たってくれない。焦る。焦るが、落ち着くように自分に言い聞かせ、ゆっくり考える。簡単なことであった。番号照会をすればいいのだ。そして、やっと予約確認メールを受け取る。ここまで1時間。
 そこからの帰り、スーパーへ寄って土産物を買い、家に戻って荷物を取って、空港へ。私にはよくあることだが、搭乗手続はそのギリギリの出発20分前となった。
 旅の計画をほとんど立てていなかったので、待合でノートを広げようと思ったが、席が空いていない。飛行機は満席との表示があったが、確かに客がいっぱい。いっぱいの客の三分の二を占めている団体がいたのだ。修学旅行の高校生たちであった。女子高生のキャッ、キャッ、キャッという笑い声と、話し声で、賑やかな待合であった。

 2、傍若無人の周波数

 たくさんの修学旅行の高校生たちと一緒になった機内ではあったが、さすがに彼らも機内ではさほど騒ぐことは無く、しかも、後部の座席にまとめられていて、前部にいた私はほとんど彼らのことを気にせずに済んだ。じっくりと旅の計画を練ることができるはず。手元を照らす灯りを点けて、ノートを出し、予定を書いていく。
 隣のオヤジ(といっても私よりたぶん十歳は若い。髭面が老けて見える)が新聞を読み出した。オヤジは新聞を広げるので、それだけでも鬱陶しく思うのだが、私の手元を照らす灯が遮られて困った。このオヤジ、スポーツ新聞3紙と一般紙1紙をたてつづけに読みやがった。しかも、隅々まで、時間をかけて。似たような記事を何度も読んで何が面白いのか不思議に思う。結局、計1時間以上、私の手元の灯は明るくなったり暗くなったりした。・・・なんて、書くほど嫌だったわけでは無い。オヤジは、煩くは無かった。

  新潟から長岡までは各駅電車で移動した。電車の中、しばらくは静かで、私はガイドブックの長岡のページを読んでいた。ある駅で、女子高生のカタマリ(5、6人)が乗り込んできて、私の近くの席にカタマリで座った。本が読めなくなった。カワイイ娘がいて、それに目が惹かれたからでは無い。彼女らは煩かった。けたたましく笑い、とめど無くしゃべった。喫茶店で3、4人のオバサンたちが煩いのと同じなのであった。オバサンたち同様、「うるせーっ!お前らは真夏の蝉か!」と私は思うのであった。
 男の声はさほど気にならないが、複数の女の声は煩く感じる。女同士でしゃべると遠慮の無い音量となり、また、声のキーもさらに高くなるからなのかもしれない。それがカタマリになると激しく煩い。傍若無人の周波数となる。ところが、一人の女の声は優しい。恋しているモードの女の声はさらい優しい。私は大好き。
 逆に、隣の席にカップルがいて、恋しているモードの男の声が聞こえてきたりすると、それは煩い。自分が言うのはともかく、他人のそれを聞くのは、私は大嫌い。
     

 3、時代を伝える女流画家二人

 新潟から次の宿泊先、高崎へ向かう。長岡で途中下車し、新潟県立近代美術館へ足を伸ばす。そこでの企画展は私のまったく知らない画家の作品展であった。
 ケーテ・コルヴィッツ。女、妻、母であり、19世紀末から20世紀前半にかけて活動したドイツの版画家、彫刻家。
 20世紀前半のドイツといえば激動の時代。2つの大戦の大きなうねりにケーテも翻弄される。当然ながら死、戦争、飢餓などが彼女の作品のテーマとなり、作品の印象は全体に暗い。もちろん、“暗い”ということは作品の完成度の高さを意味している。“暗さ”は版画というモノクロのトーンの中で、その威力を発揮し、私は圧倒された。
  「ケーテの作品は好きですか?」と訊かれたら、「好きじゃない」とノーテンキな私はきっと答える。でも、その作品の価値は大いに認めるのである。その時代の写真や映像を見ただけでは感じないこと、その時代に生きていた人間の心を、彼女の作品からは多く感じられたのだ。ケーテは、彼女の生きた時代を確かに伝えている。
 ケーテの晩年の作品で、彼女の強い意志を感じた1枚の版画があった。未来に希望を残したいという強い意思。子供を守りたいという母性の意思。どんなに飢饉になっても、種籾だけは食ってはならない、というのは日本の、昔の農村にもあった不文律だと思う。種籾が無ければ未来が無いのである。ケーテの「種を粉に挽いてはならない」は1941年末の作品。それは戦争の時代。ケーテの言う「種」は「子供」のこと。

 高崎では群馬県立近代美術館を見学する。そこの企画展も私のまったく知らない画家。  レオノール・フィニ。アルゼンチンで生まれ、イタリアで育ち、パリで活動した画家。1996年に88歳で亡くなったというので、20世紀のほとんどを生きている。
 長い間活動しただけあって、その作品は若い頃から晩年にかけて多く変遷する。作風がガラッと変わるので、作品から受ける印象も時代によってずいぶんと違った。ただ、彼女は裕福であり、パリの社交界の人気者でもあったようである。つまり、今で言うセレブであり、なおかつアイドルでもあったようなのだ。だから、その作品にはケーテのそれから受ける“暗さ”は無い。人間の醜さを描いた“暗さ”はある。退廃的でもある。
 「フィニの作品は好きですか?」と訊かれたら、「少なくとも後半の作品は好き」とノーテンキな私はきっと答える。人間の欲望を淡々と描き、その善悪を問わない。「じっさい、そうなんだからしょうがないじゃないの」と言っているみたいである。そうであることをそう描いているフィニもまた、彼女の生きた時代を確かに伝えている。
 10年前まで生きていただけあって、彼女は映像も残している。美人かどうかは別にして、私にはとても魅力的な女性に見えた。イイ女というのはこういう人を言うのではないかと思った。彼女に狙われたら私は、イチコロでダウンするに違いない。
     
     

 4、時代を伝える旧友二人

 高崎から東京へ向かう途中、浦和で下車する。大学時代の友人とそこで一杯やるということになっていた。友人Kとは浦和駅の改札口で待ち合わせる。ちょっと遅れて彼はやってきた。女房と一緒であった。彼女とはお初にお目にかかります、であった。
 「子供産んでからブクブク太っちゃって」と前にメールを貰って、痩せるのに効果があるという紫ウコンをその時贈ったのだが、痩せているとは言い辛い体型には、「紫ウコンの効果はありましたか」なんてことも訊き辛かった。でも、自身で言うほどけしてブクブクでは無い。今の若い人は知らないだろうが、日本のお母さんと称された女優の京塚昌子みたいなタイプ。性格も似た感じかもしれない。表情のカワイイ人であった。

  3人で飲み屋を探す。Jリーグの浦和レッズの試合があり、その試合がちょうど終わった頃で、街には赤いシャツを着たサポーターたちが溢れていた。そして、街には活気もまた満ちていた。Jリーグ発足当時のある出来事を思い出す。Jリーグはチーム名に企業名をつけないという当時の川渕チェアマンを、野球の巨人軍の、あの爺さんが批判していたのを思い出す。今の巨人軍の低落振りをみれば、「ざまーみろ」と言いたくなる。
 友人Kの連れて行きたいという店は、レッズサポーターたちの集まる店でもあったので超満員。よって、別の、サッカーとはあまり関係の無い店で飲む。しばらくして、もう一人、大学時代の友人Iも加わった。彼は隣の駅に住まいがあるらしい。Kとは卒業後何度も会っているが、Iとは卒業以来であった。それにしてもだ。当時二十歳前後の美青年たちも、もう五十歳近くになったのだ。Kはカトちゃん禿げ、Iは私と同じザビエル禿げ、どこからどう見ても由緒正しきオジサン、時代を伝える旧友二人なのであった。
     

 5、長い夏のお陰で

 沖縄で着ているには少し暑かったが、薄手の長袖シャツを羽織って旅に出た。向かうは新潟、豪雪地帯の新潟、10月の半ばなので、もう涼しかろうと思ってのこと。薄手のシャツでは、あるいは寒いかもしれないとも予想したが、まあ、この格好で寒ければ現地調達すれば良かろうと心の準備はできている。ちょうど2着しか持っていない沖縄の冬用のブルゾン、その1つがそろそろ消費期限なので、それを仕入れることになろう。
 ところがどっこい。新潟は暑かった。沖縄の気温とほとんど変わらなかった。日中歩いていると汗をかいた。まったく予想していないこと。新潟だけでは無い。途中の長岡も、次の群馬高崎も暑かった。旅の目的には紅葉を観るというのも(どちらかというと、それがメインといっても良いくらい)あり、そのため、高崎から赤城山辺りへ足を伸ばそうという計画であった。ホテルの人に話を訊くと、紅葉はまだとのことであった。

  帰ってから、ニュースを見て知ったことだが、今年は夏が長くて、概ねどこの地域でも紅葉は1週間ばかり遅れているとのこと。富士山の初冠雪も1週間遅かったらしい。ここでも地球温暖化の影響があったのかと思う。そういえば、今年アメリカ大陸を襲うハリケーンが、その数が多く、勢力が強いのも地球温暖化のせいだと聞いた。地球環境の悪化は、私の最も危惧するところなのであるが、それはいわば、「時代を伝える女流画家二人」の頁で紹介したケーテの「種を粉に挽いてはならない」と同じこと。我々は今の地球を食い潰してはいけない。未来に、人の生きていける地球を残さなければならない。京都議定書を批准しないアメリカに地球温暖化の悪影響が及ぶのは神の警告かもしれない。
 長い夏のせいで、旅の目的である紅葉見学を果たせなかったオジサンは、それを残念に思いつつも地球の未来のことまで心配するのであった。偉いね。

 6、宿酔のせいで

 宿酔とは二日酔いのこと。宿酔と書いて「ふつかよい」と読む。「酒の酔いが翌日までさめないこと」(広辞苑)である。文学的知識をひけらかしてみた。

 浦和で大学時代の友人たちとたっぷり飲み、十分酔ってしまう。予定の時刻よりだいぶ遅れてホテルのある地下鉄赤坂駅に着く。午前0時を過ぎていた。小雨の振る中、駅からホテルまでトボトボ歩く。ホテルは思ったより遠くて、歩いているうちに酔いもいくらか醒めてしまう。ホテルの手前にセブンイレブンがあったので、寝酒にしようと日本酒300ミリリットル入り瓶を買う。ホテルにチェックインし、部屋に入る。風呂に入り、買ってきた日本酒を飲んで、酔いが戻ったところで寝る。熟睡する。
 朝8時頃に、昨夜一緒だった友人の一人Iの電話で起こされた。美術関係の仕事をしている彼は練馬区立美術館の場所を調べてくれ、電車での行き方、乗換駅、降りる駅などを教えてくれた。約25年ぶりの男は親切であった。ありがたいことであった。ありがたいことではあったが、電話を受けた私は酷い頭痛がしていた。

  旅の最中に宿酔いなんて、滅多に無いこと。一人旅が多いので、一人で宿酔いするほど酒を飲むなんてことが無いからだ。今回は旧友にあって、まあ、一人で飲むよりは酒が少々過ぎたのかもしれない。が、浦和で飲んだ分だけではたぶん、宿酔いになるには不十分であっただろう。ホテルに入ってからの300ミリリットルが、私の体にとっては余分な量のアルコールとなったに違いない。
 8時に起こされたが、体がだるい。快調には動かない。何とか踏ん張って30分後に朝飯を食いに行く。飯食って、コーヒー飲んでも体はすっきりしない。頭痛は続いている。部屋に戻って、しばらく横になって、ホテルを出たのは10時過ぎ。
     

 地下鉄赤坂駅から先ず、目黒駅へ行った。駅構内のコインロッカーに荷物を預け、身軽になってから練馬区立美術館を見学しようと思ってのこと。その後、Iに教えてもらった通り地下鉄を乗り継いで、目的地へ向かう。降りる駅名を確認しようとメモを探したが見当たらない。たぶん、コインロッカーの中。で、池袋で降りて、駅員に美術館の場所を訊き、降りる駅を教えてもらった。電車に乗る。目的の駅3つ手前くらいで、ふと携帯の時計を見る。既に12時前になっていた。
 これから美術館へ行き、見学して、目黒に戻り、荷物を取って、羽田に着くまでには3時間はみなければならない。飛行機の出発時間は3時20分、ギリギリだ。これでは買い物ができない。職場や大家さん、親戚へのお土産と、その夜の自分用の肴、大好きな糠漬けなどを買わなければならない。美術館は諦める。手前の駅で降りて、引き返す。
 練馬区立美術館では佐伯祐三展をやっていた。佐伯祐三は私の大好きな画家の一人。今まで彼の作品をまとめて観たことが無かったのでとても楽しみにしていた。今回の旅の目的の大きな1つ。宿酔いのせいでその目的を果たせることができなかった。残念。

 7、旅の終わりは3分前

 佐伯祐三を諦めた分、時間はたっぷりある。荷物を預けていた目黒駅で、駅ビル内にあるスーパーへ行き、その夜の酒の肴を買う。ちょっと迷って、松茸を、韓国産2本で3000円を買う。職場や大家さんなどへの土産は空港で買うことにして、コインロッカーから荷物を取り、松茸をバッグに詰め込んで羽田へ向かう。

  羽田へは、出発予定時刻の1時間20分前に着いた。ギリギリの多い私にしては大変珍しいこと。これまで50回以上の旅をしていて、出発時間にこれほどの余裕を持って空港に着くのは滅多に無いことなのである。いい機会だと思い、のんびりと羽田空港を見学することにした。土産品を物色しながら隅々まで歩く。屋上の展望台へ上がり、飛び立つ飛行機の写真などを撮ったりした。もうすぐ自分も飛び立つのであることを、そこで思い出した。時計を見る。3時。搭乗手続きの締め切り時間だ。走った。
 コインロッカーから荷物を取り、荷物検査のゲートを潜り、なおも走る。羽田は広い。沖縄へ向かう搭乗口までは遠い。重い荷物を背負って走り続ける。搭乗口の50メートルくらい手前から声が聞こえた。「沖縄へ出発の島乃ガジ丸様、いらっしゃいましたらお急ぎください。機内へのご案内が最終・・・」という途中で、30メートルくらい手前から手を振って合図する。声の主である地上勤務員の若い女が駆け寄ってきて、私から搭乗券を受け取り、彼女が先になって走る。搭乗口を通る。一息ついて時計を見る。3分前。
     

 というわけで今回の旅。目的の紅葉は見られず、好きな画家の一人である佐伯祐三を観ることもできず、お土産を買うこともできず、お土産よりもなお大事な、自分のための酒の肴(魚の味噌漬けとか粕漬けとか、イカの沖漬けとか、老舗の漬物とか)も得ることができなかった。沖縄で手に入れることのできなかった杉浦日向子の本をいくつか買って帰るつもりでもあったが、それも忘れてしまった。総じて、今回は残念な旅となった。
 が、浦和での旧友との夜は予想以上に愉快で楽しく、幸せな気分をいっぱい味わさせてもらった。それだけで、プラスマイナスでいうとプラスになったと思う。

 新潟から山越え東進の旅は以上
 記:ガジ丸 2005.10.22  →ガジ丸の旅日記目次