1、蒸発した4ヶ月
名古屋初日、徳川美術館とその庭園を見学し、庭園にあった植物の写真を十数枚撮る。2日目の万博会場は、撮りたいと思ったものは主にパビリオン内部にあり、そこはたいてい撮影禁止となっていた。外にあった植物の写真を数枚撮っただけで終わる。
万博見学は丸2日を予定していたが、朝の満員電車で疲れ、リニモに乗るまでの待ち時間に疲れ、入口の混雑に疲れ、パビリオンの待ち時間に疲れなどして、怠け者のウチナーンチュは1日でうんざりしてしまい、予定を変更する。名古屋3日目は東山動植物公園へ出掛けた。万博会場ではほとんど使うことの無かったデジカメだったが、東山では大活躍した。
デジカメのメモリーカードは64メガで、200万画素の写真が約130枚取れる。それをカメラに1枚と予備にもう1枚持参していた。前日までの2日間で20枚ほどしか撮っていない写真、動物園だけで100枚を超え、植物園に入る前に予備のカードに取り替えた。
予備のカードをカメラに装着すると、このカードはフォーマットされていませんという表示が出た。ずっと使っていたのに変だな、と思いつつフォーマットする。データが全て消えますという表示に「もしかしたら」という不安が頭をよぎったが、構わず続けた。
家に帰ってからその不安が何であったかが判明する。メモリーカード、旅に持って行ったのは2枚だが、家にもう1枚ある。1枚のカードには写真データではなく、エクセルやワードのデータが入っている。ワード文書はガジ丸用の記事であったり、ちょっとしたアイデア、ふと思いついたことなどが書かれており、エクセルには日々の健康管理である体重、体脂肪、血圧などのデータが記入されている。そのエクセルデータは「血圧安定化計画」というファイル名であるが、内容はその他に、毎日のメモ、髪を切ったとか、家賃を払ったとか、誰とどこに飲みに行ったとか、スーパーのレジの女の子に手を触れられて嬉しかったとか、つまり、私の日記のようなものになっていた。そのメモリーカードを写真用のカードと間違えて旅に持って行ったのだ。そして、その中のデータを全て消してしまったのであった。
メモリーカードのデータは定期的にパソコンのハードにコピーするようにしている。前回その作業をしたのは、調べると、今年の2月初めであった。つまりは、2月初めから5月29日までの約4か月分の私の日記が蒸発してしまったことになる。日記は、昔こんなことがあったということを老後の酒の肴にしようと思ってつけているのだが、この空白の4ヶ月、今は、仕事にガジ丸に忙しかったということと、枝豆の植付けに失敗したということしか思い出せない。
2、瓜田に沓を入れず
旅へは、4泊だろうが5泊だろうが、あるいはそれ以上でもリュック1つで出掛ける。大き目のリュックに4泊分くらいの着替えを入れて持っていく。着替えが足りなくなり、洗濯もできない状況になった場合は、パンツもシャツも靴下も現地調達している。
10年ほど前、アメリカへ行った。2週間の滞在予定に、この時も荷物はリュック一つ。着替えも4泊分。宿泊が姉の家なので洗濯ができる。4泊分の着替えだけではガラガラのリュックであったが、姉夫婦と子供たちへの土産を入れて一杯になる。
その時のアメリカ旅行は従姉夫婦とその友人夫婦が一緒だった。帰り、私の荷物は持ってきたリュック一つで足りていたのだが、従姉の荷物が彼女自身のバッグや夫のバッグだけでは入りきらないほどの量だったので、私が大きなバッグを買い、それに私の荷物をリュックごとと彼女の荷物の一部を入れた。男一人の荷物としては不自然な大きさであったかもしれない。成田空港の税関でつかまった。バッグの中を隅々まで調べられた。出るまでに相当の時間がかかった。外で待っていた4人に呆れ顔された。「申し訳ない」と苦笑いしながら出てきた私に、「まったく、あんたって面倒かけるねぇ。」と従姉が言った。コノヤローとは思ったが口には出さない。「おめぇの荷物を入れるためのでっかいバッグが怪しまれたんだ。」とも言いたかったのだが。
「瓜田に沓を入れず」とは中国のことわざで、全文は「瓜田不納履、李下不正冠」となっていて、後半は「李下に冠を正さず」と読む。どちらも「怪しまれるような行動はするな」という意になる。怪しまれるようなことをすると面倒なことになるということは、このアメリカ旅行での一件で、私は十分に理解できた。善人顔(と自分では思っている)しているというだけで信用されるほど世の中甘くは無いということである。以後の人生の教訓となった。
今回の名古屋の旅も、荷物はリュック一つ。大きなリュックにはいつもなら行動用の小さなリュックも入れていくが、名古屋には友人知人がいないのでお土産の必要が無く、リュックが軽い。このまま動き回っても大丈夫だと思い、小さなリュックは持っていかないことにした。出発の朝になって気が変る。万博会場でいろいろ買うかもしれない。翌日からバッグが重くなるかもしれないと考え、小さなリュックを大きなリュックの中に突っ込んで家を出る。
那覇空港の出発ゲートでつかまった。「バッグの中にナイフのようなものが入っていますね?」と係員が言う。覚えの無い私は「いや、そんなもん入ってないですよ。」と答えたのだが、「中を見せてください」という要請にバッグのチャックを開いた瞬間、思い出した。私の小さなリュックは、毎日の通勤だけでなく、キャンプや釣り、散歩や山歩きの際にも背負っているもの。釣った魚をさばいたり、植物の葉を採集する時に用いるナイフが入っている。それが、出すのを忘れてそのまま入っていたのだ。もう十年以上も愛用しているナイフ、捨てるわけにはいかない。
リュック一つでの旅は荷物を預けなくて済む。空港を出る際に預けた荷物を待つ時間が省け、次への行動が早くなる。しかし今回は、たった一つのナイフのために、荷物を預けた人たちと同じくらいの時間を待った。帰りの飛行機ではナイフをバッグごと預ける。那覇空港でもたった一つのバッグを待つ。「瓜田に沓を入れず、李下に冠を正さず」の教訓から十年が過ぎて、今回また新たな教訓を得た。
「カバンにナイフを入れず、急に計画を正さず」
3、武士の誇り
名古屋初日は、徳川美術館見学のため空港から大曽根へ向かう。金山でJRに乗り換えた。その電車の中、バッグ(小さな、ハンドバッグというのか)を隣に置いて席を二人分占有しているサラリーマン風の若い男がいた。そこへ行って「ちょいとスミマセン」と断って座る。男は面白く無さそうな顔をする。バッグは膝の上に置かず、ちょいと引き寄せて私との間に置いたまま。こっちは大きなリュックで、お互い窮屈だと思うのだが、彼は気にならないらしかった。
次の駅で、荷物を背負った婆さんが乗り込んできて、男と私との間に立った。私は席を譲ったが、「いえ、いいんですよ。すぐ降りますから。」と婆さんが断ったので、そのままでいた。ところが、婆さんはすぐには降りなかった。まあ、それはそれで本人の自由だからそれでいい。問題は隣の男。婆さんが目の前にいるのが気に入らないのか、しきりに貧乏ゆすりをする。しまいには携帯を取り出して、大声でしゃべりだした。中国人だった。昨今、経済発展の著しい中国、競争社会となって、勝たねばならぬという意識が強いのか、日本人に舐められてたまるかという思いからなのか、いかにも傍若無人という態度。困ったもんだ、と思った。
電車で、年寄りに席を譲らないというのはしかし、中国人の若い男だけでは無かった。翌日、万博会場へ向かうリニモの中、先頭に近かった私は座れた。隣は若いカップル。後から年寄りが6、7人も入ってきて、私は席を譲る。ところが、このカップル、まったく無視。万博会場の案内パンフを見ながら二人でずっとしゃべっていた。翌日の地下鉄では、4人分の席が空いて、それを奪い合ったのは、男子学生2人と女子大生2人、それに男子中学生2人であった。席取り競争に勝ったのは男子4人。オジサン、オバサン、ジイサン、バアサンたちは最初から勝てないと思っているのか、競争に参加さえしなかった。困ったもんだ、と思った。
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三傑を生んだ愛知は武士の邦で、武士の誇りを持った人も多かろう。イチローを筆頭に多くのプロ野球選手を輩出しており、Jリーガーや大相撲の力士も多くいるらしい。日々の努力を怠らず、けして弱音を吐かない。自分に厳しく他人には優しい。そんな印象を愛知人には持っていたのだが、どうやら愛知の若者たちの多くは、そんな武士の誇りを忘れてしまっているようだった。残念なこった、と思った。
4、武士の本道
スーパーで弁当か飲み物など1つ2つの買物を持ってレジに並んでいると、前に並んでいるカゴ一杯の買物の人が「あんた少ないねえ。私多いから、先にすれば。」と譲ってくれたりすることが沖縄ではたまにある。商品の入ったカゴだけをレジの列に置いてから、買い忘れた振りをして商品を取りに行ったりするインチキなオバサンも沖縄には多い。いずれにせよ、「このぐらい適当でいいさあ。ちょっとした損得じゃないの。」という気分だと思われる。
名古屋2日目の東山動植物園、その入場券売り場に行くと、2人の中年男性が既に並んでいた。その後に私が並ぼうとすると、1人の男がさっと私の前に割り込んだ。まあ、2人も3人も待ち時間にたいして変りは無かろうと、その時は気にもとめなかったが、3人とも遠足に来ていた幼稚園の園長先生のようで、夥しい数の幼稚園児たちの入場手続きをしているのであった。前日の万博会場でも入場するまでにえらく時間がかかったが、ここでもまた長く待った。
バス二十台以上が駐車場に停まっていて、それらは全て幼稚園の遠足のバス。子供たちとその親(父親もいくらかいたが、ほとんどは母親)、それに幼稚園の先生たちが公園の入口前を埋め尽くしている。何百人という人数だ。その手続きには時間がかかる。領収書も必要だろう。割り込んだ園長先生、少しでも優しい気持ちがあるのなら、入場券を買うのに10秒とかからない私を先にしてもいいようなものだが、そんなことまったく頭に無いようであった。
「織田信長、豊臣秀吉、徳川家康を生んだ武士の邦、愛知」とは『武士の誇り』の中でも書いたが、弱きを助け強気を挫くなんてことは、じつは、武士の誇りなんかでは無いのかもしれない。武士の本道は「戦って勝つ」ということのみ、なのかもしれない。傍若無人な中国人の若いサラリーマンは、疲れた体を癒すために電車ではなるべく座る。年寄りがきても席を譲らない。電話も必要とあれば所構わずやる。企業戦士として勝ち抜くためにはそんな心構えが要るのかもしれない。「戦って勝つ」が武士の本道ならば、彼は立派な武士といえるだろう。
割り込んだ園長先生は、自分が守るべき園児やその父兄をできるだけ早く公園内に入場させて、できるだけ長い時間楽しませるという責任があったのだ。旅行客の一人に、「お先にどうぞ」なんて情けをかけることは、彼にとって、武士の本道から外れることであったのだろう。
5、追うから逃げる
お巡りさんに追いかけられて捕まった若い男、「何で逃げたんだ?」という警官の質問に、「追いかけるから逃げたんだ」と答える。若い男は何の罪も犯していないんだが、こっちに向かって走ってくる警官を見たら思わず逃げてしまいたくなる彼の気持ちは、貧乏学生だった私には何となく理解できる。警官は強く、貧乏学生は弱い。捕まったら何をされるかと不安になる。
東山動植物公園の一角に、広いスペースを網で囲って鳥を放している建物があり、その中へ入った。鳥たちがいる場所は1段高く、長さ30mほど、奥行きは5mほどの土の地面。そこには大小さまざまな樹木が多く植えられ、小さな池も設けられてある。人間が歩くスペースは幅2mほどあり、壁沿いにいくつものベンチが置いてある。鳥たちのいる場所とベンチ、及び歩道の間に壁は無い。観客はベンチに座り、鳥たちを金網を通すことなく間近に眺めることができる。
先客は老夫婦の二人だけ、数分後には彼らも出て行ったので、後は私一人が観客。ベンチに腰掛 けゆっくりと、たっぷりと鳥たちを眺めることができた。しばらくすると、何羽かの鳥が私のところへ近づいてきた。じっくりと眺め、しっかり写真を撮る。孔雀の1羽が、歩道へ降りて、私の足元へ近付いてきた。背中の模様がきれいだったので、少し通り過ぎてからその背中の写真を撮る。フサホロホロチョウが正面に来てこっちを見る。オシドリの夫婦が近くで日向ぼっこを始める。写真を撮る。他の鳥たちもそのうちやってくるかもしれないと思い、じっと待つ。
突然、ドアを開ける音がした。ドアが開くと同時に 大きな声がした。「わー、きれいねぇ、クジャクよ。」とオバサンの甲高い声。私もビックリしたが、鳥たちも驚いたに違いない。私の近くにいた鳥たちもさっと離れていった。オバサンは息子と思われる30歳くらいの男と一緒。息子はさすがに黙って入ってきたが、オバサンはこの後も煩い。「こっちに来て羽根をひろげてくれないかしらねぇ。」などと言う。言うのはいいがオバサン、ちょっと声が大きすぎやあしませんか。と注意したかったのだが、そんなこと耳に入るまいと思い、止める。オバサンは、何事にも動じないタイプの人のようで、私の前を通り過ぎ、近くにいたクジャクを追いかける。ク ジャクは逃げる。「なんで、ここにいたのに逃げるのかしら。」などと言う。「そりゃあ、追いかけるからだ。追いかけられたら、何をされるかと鳥たちも不安になるだろうよ。」と思う。もちろん口には出さない。「声もでかいしよー!」を心の中の思いに付け加える。
鳥たちが近付いてくるのはもう無理だと私は諦めて、残りの鳥たちの写真を急いで撮って、私はその場を離れた。後で確認すると、ショウジョウトキなど急いで撮った写真はいずれもボケていた。残念。
6、駅から遠く、帰りも遠く
名古屋3日目は、万博見学の予定を変更して東山動植物公園へ行く。万博会場が人でいっぱいなら、他の施設はいつもより空いているに違いないと思った。東山動植物公園も有名な施設ではあるが、幾分かは客数が落ちているだろう。のんびり見学できるだろうと期待した。名古屋駅で駅員にどこで降りたらいいかを訊く。「動物園なら東山公園駅、植物園なら次の星ケ丘駅が近いですよ。」と丁寧に教えてくれた。星ケ丘から植物園、動物園と回って、東山公園駅から帰ろうと決める。
星ケ丘の駅の出口にティッシュ配りの兄ちゃんがいた。ティッシュは断って、道を尋ねる。彼の教えた通りに道を行く。予想していたより3倍位の距離を歩いて、やっと東山動植物公園北口に着く。そこには大きな駐車場があって、その広さの半分くらいを観光バスが占めていた。ざっと数えて20台以上はあったが、私が入場口に向かって歩いている最中にも数台のバスが入ってきていた。入場口前にはたくさんの子供たちとその親たちが並んでいた。入場券を買うまでに15分位待たされて、うんざり気分だったが、中に入ってもまた、子供たちの騒ぐ声に悩まされるのかと思ったら、昨日の万博会場と同じく、あまり楽しめないかもしれないと予想された。
子供たちは幼稚園児。近郊の幼稚園から大挙して押し寄せてきたようであった。たぶん、地域の幼稚園が申し合わせて、同じ日、同じ場所で遠足をしようと決めたのだろう。前日の万博会場で小学校の遠足にも遭遇したが、今日はまた、幼稚園の遠足にぶつかってしまった。
中へ入って案内図を見る。私が立っているところは予想に反して、植物園側では無く動物園側であった。どうりで、駅から入口まで遠かったわけだ。わざわざ遠回りして、混んでる入場口を選んでしまったわけだ。でも、まあ、昨日ほど待ったわけではなく、昨日とは違って空は青空。そう悪い気分では無い。あとは園児たちの騒がしさを避ければよいだけのこと。
とにかく、園児たちが行く方向とは別の道を歩くことにする。彼らが右へ行けば左、左へ行けば右の道を選ぶ。・・・だが、彼らは皆揃って同じ方向へは進まなかった。あまりにも数が多いので、どの道を歩いても騒がしい声は消えなかった。やっと落ち着いたのはお昼過ぎ、つまり、お弁当の時間が終わって彼らが帰ったあと、それからは、のんびりと景色を眺めながら歩けた。
閉園時間になった時、私は植物園側にいた。星ケ丘の出入り口は既に閉門されていたので、そうなった。門のガードマンに駅までの道を尋ねる。ここからだと東山公園駅も星ケ丘駅も距離に大差はないらしく、解りやすい東山公園駅への道を教えてくれた。公園内を長い時間歩いていたこともあり、腰も足も重い。帰り道は遠かった。
駅に着いた頃にはお尻も痛くなっていた。昨日今日と、歩き疲れたせいか、立ち疲れたせいか、久々に痔が出ていた。ドラッグストアで入浴剤とオロナイン軟膏を買う。ホテルで湯船に浸かった後、股を広げ、オロナイン軟膏を尻の穴に塗る。なんて、まったく、旅先でみっともない格好をしてしまうはめになってしまったオジサンなのであった。
7、たった1円の一騒動
旅先から必ずといっていいくらい買って帰る食い物がある。漬物。もちろん、沖縄にも漬物はある。近所のスーパーにも浅漬け、糠漬けなど多くの種類を置いてある。しかし、元々沖縄に漬物文化は無く、美味しい漬物を作る、いわゆる漬物屋というものはほとんど見ない。美味しい漬物屋は、倭国に行けばたいていどの町にもある。少なくとも大きな商店街とか、デパートの地下に行けば必ずある。そこで、少々高めでも、質の良さそうなものをいくつか買って帰る。
着いた日に既に、名古屋駅近辺の地下街で美味しそうな漬物のある店を見つけていた。どこの地下街でも、私はよく道に迷ってしまうのだが、美味しそうな漬物のある店は、若くてカワイイ娘が売り場にいた店でもあったのに、帰る日、同じ地下街でその店を探したのだが見つからない。地下をあちこち探し回って、デパートの地下だったかもと2軒のデパートも探したが、どうしても見つからない。帰りの飛行機の時間も迫っていたので、しょうがなく、別の店で漬物を買うことにした。
ナスとキュウリの漬物を買う。店の若い女が
「カボチャの漬物も評判いいですよ。いかがですか」と言う。カボチャとは珍しいなと思い、また、女が愛嬌のある表情だったので、ついつい、
「じゃあ、これも」と買ってしまう。
「代金は1501円」だと言う。2000円出す。
「2000円からでいいですか。1円はお持ちで無いですか?」と訊く。
「あいにく持っていないな。1円くらいまけてよ。」と応える。そう、1円くらいなのだ。こっちから「まけてよ」と言わずとも、普通なら当然まけてくれるはずなのだ。お勧めのカボチャも買ってあげたのだ。が、若い女は曖昧な表情で返事をせずに、奥の方にいたオバサンに何やら相談している。オバサンは電卓をカチャカチャして、何やら若い女に言う。若い女はレジに戻って、私におつりをよこした。百円玉4枚、五十円玉1枚、十円玉4枚、五円玉1枚、一円玉4枚をジャラジャラと。「たった1円も惜しいのか!」と私はムッとする気持ちを苦笑いで表現する。私が必要以上にゆっくりとトレイから小銭を拾うのを見て、若い女は私の気分に気付いたのかどうか、
「大きな袋に入れましょう。そちらの荷物も一緒にしましょう。」と言って、私が手に持っていた沖縄への土産、万博キャラクターのクッキーの箱もその袋に入れてくれた。
「何考えているんだ、こいつら」と私は、今度は不思議な思いに駆られる。大きな紙袋は1円以上するはず。それはサービスしても1円は惜しいのだろうか。何故?
言うまでも無いが、私は1円を惜しんでムッとしたのでは無い。小銭をジャラジャラ拾うよりも五百円玉1個の方が楽だと思ったからだ。財布も重くならずに済むし。空港へ向かう電車の中、漬物の入った紙袋を眺めながら思った。「たった1円もまけないんだったら買うの止す。商品返すから、2000円返してくれ。」と言ったら、漬物屋の姉ちゃんとオバちゃん、どんな対応をしただろうか。
「それは困ります。1度買ったものは返却できません。」
「まだ手をつけていないんだから構わないだろう。」
「たった1円のことじゃないですか。」などと、たった1円のことで一騒動となっただろうか。姉ちゃんはオロオロし、オバちゃんは強気にがなりたてたりしただろうか。「なんだ、どうした。」と周りの人が集まってきただろうか。そういう一騒動、旅の想い出になったかもしれない。試してみれば良かった、と少し後悔した。
8、ラーメン屋はあるけど・・・
私は概ね年に2回、旅をしている。旅先では酒をたっぷり飲む。電車で長距離(時間にして1時間以上)の移動がある場合、それが普通の電車ではなく、新幹線のように車内で飲食ができる場合は、移動中の飲食も楽しみにしている。移動中が朝だろうが昼だろうが飲む。また、旅の間の昼飯にもビールはたいてい飲んでいる。昼日中から飲む酒は、また格別に旨い。
旅先で楽しみにしている食い物もある。沖縄にもあることはあるが、私の住まいの近くには無いので、めったに食えない。沖縄ではめったに食えないが、旅先では(国内旅行に限っては)どこの土地でも駅前に必ずといっていいくらい存在する料理、焼鳥。焼鳥屋に入って鶏肉を食うのでは無い。私が楽しみにしているのはナンコツの塩焼きとモツ煮。今回入った店では、ナンコツ塩は無くて食えなかったが、モツ煮はあった。名古屋名物(元は岡崎市八帖町から始まったらしい)八丁味噌で甘辛く煮込んだモツ煮はたいへん美味しく、とても満足した。
旅先ではもちろん、ナンコツ塩とモツ煮だけでなく、その土地の名物料理も楽しんでいる。「名物に旨いもの無し」などと言うが、まあ、概ねそうであると私も思うが、「名物に不味いもの無し」とも経験上から確信しているので、名物○○料理などという看板があれば、暖簾を潜る。
今回の名古屋では、味噌カツをビールの肴に食った。八丁味噌は偶然に入った焼鳥屋のモツ煮でも味わっている。はて、さて、名古屋名物って他に何があったっけ、と次が思い浮かばぬまま帰る日となってしまった。空港(セントレアなんてカッコいい名前がある)で何かもう一つ名物を食って帰ろうと4階の飲食店を見て回る。天むす、手羽先、ひつまぶしなどあったが、それらは沖縄で食うのと大差無かろうと思いパス。お土産屋さんにお土産用の味噌煮込みうどんを見つけ、「これがあったか、これにしよう」と決め、うどん屋を探す。が、無い。ラーメン屋さんは何軒もあったが、味噌煮込みうどんは無い。空港の案内へ行って尋ねる。「そういう店は無い」との答えだった。
名古屋の玄関に置いていないということは、味噌煮込みうどんは名古屋名物では無いのかと思いつつ、飲食店をぐるぐる巡りながら次案を考える。何軒目かの丼物屋で、名古屋名物にはエビもあったと思い出し、で、そこへ入り、天丼を頼み、食う。しかし天丼は、沖縄で食うのと大差の無い味であった。名古屋名物がエビ天では無くエビフリャーであったことは、家に着いてから思い出した。
愛知万博の旅は以上
記:ガジ丸 2005.6.5 →ガジ丸の旅日記目次