ガジ丸が想う沖縄

沖縄の動物、植物、あれこれを紹介します。

死んだら価値の出る人

2016年05月27日 | ガジ丸通信-その他・雑感

 5月13日、父の七年忌があった。大げさにはやらず、覚えている人だけが銘々に手を合わせに来てくれたら良いと思っていたが、沖縄在の甥(姉の次男)だけにはその旨知らせてあった。その日私のいる時間には甥の他、姉と従姉Mも来てくれた。
 甥は今派遣社員で、沖縄の会社に派遣されている。この先どんな身分になるか確定していないということを前会った時に聞いていたが、「どうなる?」と今回訊いたら、「あと1年は今の仕事が続く、その後はまだ決まっていない」とのこと。甥はアメリカ育ちなので英語はペラペラだ。「将来は海外で働くことになるかもしれない」とも前に言っていたが、今回「沖縄の友人に誘われてもいて、沖縄に残るかもしれない」とのこと。

 畑に芋がある間は生きていく不安のない私だが、死ぬ時、及び死んだ後の不安はある。大波にのまれて行方不明のまま推定死亡とか、火山の噴火口の中に落ちて跡形もなくこの世から消えてしまうとかならいいが、普通に死んだら死体の後始末が残る。自分の死体の後始末は自分ではできない、誰かに頼まなければならない。その誰かを誰にするか。
 また、ポックリ死んだらいいが、病で倒れて動けなくなるかもしれない。動けなくなったら自殺もできない。ボケ老人になって、周りに迷惑をかけてしまうかもしれない。ボケてしまったら自殺しようという正しい道を選ぶ知恵も出てこないかもしれない。そういった時のためにも死ぬ時、及び死んだ後の面倒を見てくれる誰かが必要なのだ。甥がこの先も沖縄に住み続けるのなら、その誰かは甥で良い。一件落着となる。
          
 諺に「虎は死して皮を残し、人は死して名を残す」というのがある。正確かどうか自信が無かったので広辞苑を引くと、やはり少し間違えていた。正確には「虎は死して皮を留め、人は死して名を残す」とのこと。「虎が死んでもその皮が珍重されるように、人は名誉や功績によって死後も名を残すように心がけよということ」(広辞苑)という意。
 数年前にリストラにあって職を失った私は、もはや名誉や功績等といったものには縁が無い。数年後には年金を貰える歳となった私は、もうすぐ隠居の身、これから何か努力して名誉や功績等といったものを残したいという気力も無い。そもそも、「死後も名を残すような心がけ」が、南国ののんびり気分で生きてきた私にはさらさら無い。
          
 私はしかし、「死んだら価値の出る人」ではある。私は今、3つの保険(1つは生命保険で、残る2つは医療保険)に入っていて、医療保険の方も死後にいくらか支払われるので、足して、ちゃんと計算はしていないが500万から600万円が受取人に支払われることになっている。1つの医療保険は近い内(数年内)にグレードアップしようと思っているので、そうした場合、私が死んだら1千万円近い金額が受取人に支払われる。ということで私は、「死んだら価値の出る人」と言ってもいいわけである。
 とはいっても、自分で言うのも何だが、私は「死なないと価値の出ない人」ではないと思う。社会的に価値があるかどうかというとほとんど無いと言っていいであろうが、親戚友人知人に美味しい野菜を提供している、それだけでも私が生きている価値はあるはず。私の野菜を「旨い!」と褒めてくれた優しい甥だ、彼だって「1千万円が入るのか、叔父さん、早く死んでくれないかなぁ」などとは思わないに違いない・・・たぶん。

 記:2016.5.27 島乃ガジ丸


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見えない雲

2016年05月27日 | ガジ丸通信-環境・自然

 夜、パソコン作業しながら、または晩酌しながら、寝る前までに何度かラジオの天気予報を聞いている。明日の天気だ、それで、明日のおおよその予定を立てる。
 朝、畑へ出勤する前にもラジオの天気予報を聞いている。聞いて、昨夜立てた予定をそのまま実行するか変更するかを決める。もちろん当然ながら、昨夜の天気予報と朝の天気予報が異なっていれば、予定も変更となる。露地栽培している農夫の宿命だ。
 しかし最近、朝発表される「今日これから」の天気予報でさえ外れることが多い。例えば、日記を見ながら最近の例を挙げると、今週火曜日、予報は午前中晴れ、午後から曇りだったが、朝から時折小雨が降り、シトシト雨になり、時々強くなった。畑仕事は諦めて11時前には引き上げる。しかし、雨は1時間で上がり、午後には晴れやがった。
 翌水曜日は「1日雨」の予報だったが、外を見ると降っていない。で、畑へ出勤。草引きや、齧られたトウモロコシの収穫などをしていると、11時頃からポツポツ雨が降り出し、空も暗くなってきた。「おー、今日は天気予報が当たるか」と判断し、畑を引き上げる。しかし、雨は1時間も降らなかった。それどころか、午後には晴れやがった。
 ちなみに、本題とは関係ないが、「齧られたトウモロコシ」について少し説明しておくと、その日、畑へ出勤して、昨日まで順調に育っていて1~2週間後には収穫予定のトウモロコシの実を確認したら、十数本の実が齧られていた。犯人はまだ不明。
          
 今日これからの天気予報も外れるほどの地球環境になったか?農夫が今日の予定を立てられないような地球環境になったか?と少し不安を持つ。「今日の予定」は農夫である私が臨機応変に対処し、「雨ならこれ、晴れたらあれ」と作業内容を工夫するなどの努力をすればいいことであるが、これまでと違う気候となったら作物の生育に影響が出る。
 これまでと違う気候、例えば「梅雨時に雨が降らない」、「風速100mという超巨大強力台風が発生する」、「真夏の最高気温が40度になる」、「冬の最低気温が零下になる」、「梅雨の時期が7月8月にずれて夏に太陽が照らず気温も下がる」、「冬の気温が上がって台風が冬にも発生する」などといったこと。そんなことあり得ないとは、私は思っていない。いつかそうなる時が来るかもしれないと思っている。ただ、そのいつかは遠い未来だ、私が生きている間にそんなことは起こらないとも思っている。
 しかし例えば、これまで天気予報の根拠としていた自然現象の他に、天気に影響を与える新たな自然現象が出現したとする。私の妄想が生み出したそれは「見えない雲」で、目にも見えないレーダーにも映らない雲が今、地球上空で増えつつあり、それが地上の天気に少なからず影響を与えている。そう仮定すれば、今日の天気予報が当たらないことも肯ける。気象予報士が想定しない「見えない雲」があるのだ、予報は難しい。

 「これまで天気予報の根拠としていた自然現象」と書いて、天気予報の根拠は何だ?今日は晴れとか雨とかは何の根拠でもって予報しているんだ?天気図の気圧配置や衛星写真による雲の位置だけで予報しているのか?他にも何か根拠となる自然現象があるのか?などと疑問に思って広辞苑を引く。「気象観測」という項目に「大気の状態を知るために、気圧、気温、風向・風速などの気象要素を測定したり、雲量・雲形などを観察したりすること」とあった。であるか、やはり、「見えない雲」の観察はしていないようだ。
          

 記:2016.5.27 島乃ガジ丸


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2016.5.27 久々のこと

2016年05月27日 | ガジ丸週一日記15-16

 近所のスーパーの総菜コーナーに玄米弁当なるものがある。午後4時を過ぎたあたりになるとそれが2割引きか半額になる。午後4時過ぎにそのスーパーへ行く機会があって、割引になった玄米弁当が残っていて、その日「米が食いたい」と思った時には購入している。
 日々の食べ物を記録しているわけではないので、はっきりとは言えないが、この4年間、炊いた玄米のみのパックも割引になることがあり、それも含め玄米を食う機会はだいたい2ヶ月に1回くらいはあったと思う。
 今のアパートに越してからのこの約4年間、じつは、自分で玄米を炊いて食べたことはない。前のアパートに住んでいた1時期は週に4食(2合)は玄米食であった。頂き物の白米があったり、芋食を始めたりして、玄米を購入して炊くという機会がなくなっていた。
 今年の2月頃、久々(おそらく5、6年ぶり)に玄米を買った。その頃雨が多くて芋掘りができなくて、白米のストックもなくて、ということで、玄米購入となったわけだが、饂飩や蕎麦など食っている内に芋が掘れるようになって、玄米を炊いたのはやっと今週火曜日。
 
 久々の自炊玄米
 沖縄地方は先週月曜日に梅雨入りして、いかにも梅雨らしい天気が続いている。畑の土は乾く暇がない、芋が掘れない。今のアパートに越して、初の自炊玄米。


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沖縄の倫理観

2016年05月27日 | 沖縄04行事祭り・生活風習・言葉

 飲酒運転の罰則が強化される以前の話、今からざっと30年ほど前の話、建築現場で肉体労働を終えた我々社員に社長(当時の、年代としては私の親世代)はビールを買いに行かせ、社員にふるまった。社員はそのビールを飲み干して、多くは車を運転して帰った。それは「たまに」のことであったが、労働者達は時々、仕事を終え現場から会社に戻った後、自分たちでビールを買い、それを飲み干してから車を運転して帰った。ちょうど上手い具合に隣にマチヤグヮー(商店)があって、そこにビールの自販機があった。
 私は直接見ていないが、米軍基地内を出入する知人から聞いた話では、米軍人達はビールを飲みながら運転することが普通だったらしい。ビールは水と同じようなものという感覚だ。その感覚はウチナーンチュにもすぐに伝わり、ウチナーンチュは今でも、飲酒運転検挙率全国ワースト1位とのこと。その伝統を受け継いで私もビール(発泡酒等含む)は喉の渇きを潤すもので、酒の範疇には入れていない。私の感覚では「ビール類は酒では無い」が、法律上は酒なので、真面目な私はビール類を飲んで運転などということは、少なくともここ20年はやっていない。もちろん、酒を飲んで、ということも無い。

 ウチナーンチュはテーゲー(大概:良い意味でも悪い意味でもいい加減という意)性質であると言われているが、私が思うにそれは不確かな噂では無い。事実、私を含め私の周りにはテーゲーな人が多い。社会のルールに対してもテーゲーなので、「少しくらい飲んでもいいさぁ、運転してもいいさぁ、事故らなければいいさぁ」となる。
 調べたこともなく、そういった統計があるかどうかも知らないのだが、落し物が交番へ届けられる確率も沖縄は全国ワースト1位ではないかと思う。金目の物を拾ったら「ラッキー!」と思い、懐に入れる人が多いのではないかと思う。失業率全国ワースト1位、離婚率ワースト1位、夫のDVワースト1位というのは聞いたことがある。
 さらに言えば、ゴミのポイ捨ても沖縄は全国ワースト1位ではないだろうか。テーゲー気分で生きている人は「いいさぁ、このくらい」と罪悪感をあまり感じないであろう。私の畑の向かいの森には、おそらく「いいさぁ、このくらい、たいしたことないさぁ」といった気分の人たちの仕業と思われるゴミがたくさん捨てられている。
     
 ヌスルーとは盗人のウチナーグチ(沖縄語)、「方言を使ってはいけません」と育てられた我々世代でもよく知られている言葉。何故、「方言を使ってはいけません」と育てられた我々世代でもよく知っているかというと、頻繁に耳にする言葉だったから。
 「エナ、ヌスルーヒャー!(嫌な泥棒め!)」と、同級生たちがけんか相手を罵る時に発したり、「アレェ、ヌスルーすんどー(あの人は泥棒するよ)」と、近所のいかにも貧乏そうな母子家庭の、その母親を指して祖母が言っていたのを思い出す。
 現在は、私が子供の頃に比べれば遥かに豊かな物余りの社会になった。それでも、ヌスルーはいる。最近、私の身近でもヌスルーは出現した。隣のキャベツ畑のキャベツがごっそり盗まれたり、N爺様のバナナが盗まれたり、私の脚立や鍋が盗まれたりしていた。
 私の被害はまだある。今年になってもう1台の脚立が盗まれた。そして、つい最近、5月に入ってからステンレスのバケツとアルミのたらいが盗まれた。
 「置かれてあるから拾っただけさぁ、盗られた方は困るって?そんなこと言われても、他人のことまで心配する余裕はないわけさぁ、私には」といった気分なのかもしれない。沖縄では儒教の教えが隅々まで行き渡っていないのかもしれない。
     
     
     
 大地震があっても倭国では暴動など起きない。儒教の教えが沁み込んでいるからだと思われる。沖縄だとそれも不安、暴動まではいかないとしても、火事場泥棒は熊本のそれの10倍位は出てきそうだ。「落ちているのを拾っただけさぁ」なんて言って。
 テーゲーはしかし、悪いことばかりでは無い。「だいたいでいいさぁ」気分は自身にだけでなく、相手に対しても発揮される。つまり、沖縄は自分にも他人にも厳しくないのである。厳しくないから県民所得は全国最低がずっと続いているが、でも、その緩さがあるから「沖縄で生活していると楽な気分になる」のだと私は思う。テーゲーがあるからこそ私も我が故郷沖縄が大好きなのである。けして、基地があるからではないのだ。
 それにしても私の畑のヌスルー、彼(もしくは彼女)が「明日の食い物も覚束ない人」であればいいが、遊びの金目当てであったならテーゲーな私でも腹が立つ。

 記:2016.5.23 ガジ丸 →沖縄の生活目次


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平板アクセント

2016年05月27日 | 沖縄04行事祭り・生活風習・言葉

 先週のガジ丸通信『いいとも』で、「「笑っていいとも」を略して「いいとも」と言う時、オジサンは変わらず「い」にアクセントを置くが、特に、若い女性たちは「とも」の方を高く発音する。初めの頃オジサンはそれに違和感を感じていた」と書いているが、語尾アクセントにしろ、頭アクセントにしろ和語(標準語)には抑揚がある。
 「いいとも」はウチナーグチ(沖縄言葉)だと「ユタサン」となり、ユタサンはどこにもアクセントはない、平坦に発音する。沖縄語は概ね平坦である。例えば地名を例に挙げると、ナーファ(那覇)、スイ(首里)、クザ(コザ:現沖縄市)など、野菜を例に挙げると、ゴーヤー、ナーベーラー(ヘチマ)、シブイ(トウガン)など、動物を例に挙げると、マヤー(ネコ)、イン(イヌ)、ヒージャー(ヤギ)など、食物を例に挙げると、ヒージャー汁、ソーキスバ、ゴーヤーチャンプルーなど、みな平坦に発音する。

 沖縄語の単語が概ね平板なのは、素人の私が考えるに、ウチナーンチュが怠け者だからではないか、あるいは、夏があんまり暑いので、言葉に抑揚をつけて発声する元気がないからではないかと想像する。「この言葉はどこにアクセントがあるか」なんて考えずに、全てを同じように平坦に発声する。この方が楽だと怠け者のウチナーンチュは思い、いかにも南国ののんびりした雰囲気と共に古からの伝統となっているのではないか。
 ちなみに、ウチナーグチでも地方によっては抑揚の豊かな地域もある。単語のアクセントというより文章のイントネーションに地方性が現れる。話すのを聞いて「あんた糸満の人だね、あんた今帰仁の人だね、あんた北谷の人だね」などと、私はほとんど聞分けができないが、ウチナーグチをよく知っている人なら言い当てることができる。私が知る限りで言えば、首里方言(及びその近辺)はイントネーションも概ね平坦である。

 倭国の友人達と話をしている時、彼らの概ねはナハはナに、シュリはシュに、チャンプルーはチャンにアクセントを置いて発音する。テーゲー(いい加減)で生きている私はそれが特に気になるということはないが、それが私にも伝染して、私もナハやシュリを頭アクセントで発音することがある。さすがに、由緒正しいウチナーンチュの私は、チャンプルーなどのウチナーグチ(沖縄語)は伝統に則った平板アクセントのままである。ナハだって、ナーファとウチナーグチで言う場合は平板アクセントになる。
 もう少し言うと、ネコはネに、イヌはヌに、ヤギはヤにアクセントを置くが、それらをウチナーグチのマヤー、イン、ヒージャーにした場合はどれも平板アクセントとなる。

 沖縄語で平板アクセントでない言葉は無いかと沖縄語辞典で調べると、「首里方言のアクセントは平板型と下降型の二つに分かれる」とあった。下降型もあるとは私は気付かなかった。同辞典には下降型の例として、ハナ(鼻)、ウマリドゥシ(生まれ年)、ターチ(二つ)などを挙げている。それらを実際に発声してみると、ハナははっきりしないが、ウマリドゥシやターチは確かに、初めの方にアクセントがある。勉強になった。
 ターチが下降型なら他の数字はどうかと実際に発声してみる。ティーチ、ターチ、ミーチ、ユーチ、イチチ、ムーチ、ナナチ、ヤーチ、ククヌチ、トゥー。この内、ターチ、ミーチ、ユーチ、ムーチ、ヤーチ、トゥーが下降型だ、意外に多い。

 同辞典をさらに捲ってみる。ハナを下降型アクセントにすると鼻となるが、平板型アクセントにすると花になる。カーを下降型アクセントにすると井戸となるが、平板型アクセントにすると皮となる。ユクを下降型アクセントにすると横となるが、平板型アクセントにすると欲となる。名詞だけでなく動詞にもある。カキユンを下降型アクセントにすると「欠ける」となるが、平板型アクセントにすると「掛ける」となる。それでも、同辞典の数ページを観察した限りでは8~9割方は平板型アクセントのようである。私が耳にしている限りで言っても平板型アクセントの方が断然多い。
 平板型は穏やかに聞こえる。のんびりにも聞こえる。南の島の緩やかな時の流れにマッチしている。ウチナーンチュは面倒臭がり屋が多いからという説も消えないが。
     
     
     

 記:2016.5.20 ガジ丸 →沖縄の生活目次


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