ガジ丸が想う沖縄

沖縄の動物、植物、あれこれを紹介します。

ミジンコの涙

2006年04月28日 | ガジ丸通信-政治・経済

 前々週、猫に狙われているメジロの雛の話をコラムに書いた。その後、その雛がどうなったか、猫の朝飯となったのか、その幼い羽が空を飛ぶ力をつけ、間一髪、難を逃れたのか知らないが、この日曜日、駐車場のネズミモチに親子のメジロが並んでいるのを見つけた。その子供があの日の雛なのであれば、コラムを読んで、心を痛めていた心優しい人たちは喜ぶであろうと思った。報告するために写真を撮る。
 撮った写真を見ると、残念ながら、心優しい人たちには申し訳ないが、あの日の雛ではないようである。たぶん、あの日の雛の兄弟であろうと思われる。写真の子メジロは、「おめぇ、よくも弟を見殺しにしてくれたな!」とでも言っているかのように鋭い目付きでこっちを睨んでいたのだ。親メジロは無表情で空を見上げている。おそらくあの日、悲しみにたくさんの涙を流したのであろう。今は「涙も枯ーれてぇー」なのであろう。
 「目白の涙」という言葉は無いが、「雀の涙」というのはある。「ごくわずかなもののたとえ」(広辞苑)ということ。たとえば、「私の給料の額など、叶姉妹から見れば雀の涙ほども無い。」などと使われる。私の辞書(世には出ていないので有名では無いが、権威も無いのだが)『迷解・国語大林辞苑』には、「雀の涙」よりもずっと遥かに小さいことを喩える言葉もある。「ミジンコの涙」という。これは、広辞苑には無い。
 広辞苑には「微塵(みじん)」という言葉があり、「こまかい塵」という文字通りの意味から「極めてこまかいこと。ごくわずかなこと。また、そのもの」ということになる。ミジンコは沼や池などに普通に見られる甲殻類で、小学校の理科の実験でもお馴染みであるが、漢字で書くと微塵子(水蚤とも)となる。その通りごく小さくて、体長は2ミリほどしかない。そのミジンコの涙は、よって、雀の涙より遥かに小さい。
          

 今、国会で「共謀罪」が論議されているようである。それは、支配者たちが、その地位を保全するための法律であると私は思う。自分の地位だけで無く、自分の子孫の繁栄を脅かしかねない種(たね)があれば、それが芽を出す前に排除しちまえ!という法律。
 「お前、あいつらが話し合っているのを聞いていたな。」
 「そりゃあ、隣の席に座っていたから聞こえてたさ。」
 「逮捕する。」
 「まて、あいつらはただ、今の社会は不平等だから何とか変えなくちゃ、といった話をしていただけだ。それが、何で罪なんだ。まして、俺に何の罪があるんだ。」
 「あいつらは、騒乱企画罪、お前は共謀罪だ。」
なんてことになりかねない法律。おーコワッ。
 人間同士の遺伝子は、その99.9%は同じらしい。それは、それこそミジンコの涙ほどの違いでしか無い。超大国の大統領とイラクの子供たちの遺伝子はほとんど同じであると言っていいのだ。彼らが生き残るということは、大統領の遺伝子の99.9%が未来に残るということである。・・・などということを、日本国の高い地位にいる方々も心に留めて、沖縄の片田舎で、真っ黒に日焼けして、畑を耕している名も無き農夫の、その子供たちの未来を、自分の子供の未来と同じくらい大切に考えてくれないだろうか。せめて、共謀罪などという法律で、芽が出る前に潰すようなことはしないでくだせぇ。

 記:2006.4.28 ガジ丸


この記事をはてなブックマークに追加

笑って済む失敗

2006年04月21日 | ガジ丸通信-沖縄関連
 フジテレビの『トリビアの泉』で、「料理に髪の毛が入っていたときの対処の仕方」なんてのをやっていた。いくつかの事例が紹介されていて、その中には、「謝るだけでは済まないだろ!誠意を見せてくれや!」なんてことを言う男もいた。いちゃもんつけて、金をまきあげるヤクザみたいである。一般人にもそういう人がいるのである。
 大都会での生活は毎日が競争で、少しでも得をするような心構えでないと生きていけないのだろうか、少なくとも、そう思っている人が田舎よりは多いのだろう。そういえば、東京で車を運転していたらクラクションの音が多く聞こえた。交差点でちょっとモタモタしていると、後からパッ、パッ、パーとすぐに鳴らされる。沖縄では、プッという挨拶の音は聞くが、怒ったクラクションの音はあまり聞かない。時間に対する価値観が、都会と田舎では違うのだろう。ここでも、少しでも時間を得したいという心構えが見える。
 暢気なウチナーンチュは、たぶん競争意識が希薄なのだと思う。そのせいで、県民所得が復帰以降(復帰前はもっと貧乏)、ずっと最下位なのであろう。少しでも得したいと思う気持ちはウチナーンチュにもあるが、多少のことは「まあ、いいさあ」で済ませてしまう気分も大いにある。料理に髪の毛が入っていたとしても、前の車が交差点でモタモタしていたとしても、それはちょっとしたミス。笑って済ませた方があっちもこっちも楽なのである。厳しい金持ちよりも、楽な貧乏がウチナーンチュ向きなのであろう。

 私の使っているフライパンは鉄製である。ちゃんと手入れしているので錆びるということは無い。ただ、焦げ付きやすいので、面倒な事もたまにある。チャンプルーする時など、鉄のフライパンは十分に熱してから油を入れる。油の容器と味醂の容器は同じくらいの大きさで、慌てると間違う。十分熱したフライパンに味醂を入れたことが数回ある。味醂はたちどころに焦げて、フライパンにこびりつく。洗うのに難儀する。
 シャンプーの容器とリンスの容器は、色はちょっと違うが、大きさ形は同じである。そのせいで私は、シャンプーの前にリンスしたことが何度もある。
 まあ、味醂の失敗も、シャンプーの失敗も、まったく笑って済むミス。こういった失敗のことを、私の使っている辞典ではニアミスという。

 ニアミス -迷解・国語大林辞苑より-
 ①ほんの少しの時間差、空間差で、あやうく失敗を免れること。
 「いやー、もうちょっとで危ないとこだったよ。」などと、後から思い返せば笑い話になることも多い。そのことから、
 ②ニヤッと笑ってしまうようなミス。

 記:2006.4.21 ガジ丸  

この記事をはてなブックマークに追加

国を愛する心

2006年04月14日 | ガジ丸通信-政治・経済

 沖縄にはアメリカ人が多く住んでいるが、そのもっと昔からインド人、中国人、台湾人などがたくさん住み付いている。私は良く知らないがフィリピンなどの東南アジアの人々も多くいるらしい。東南アジア、インド、中国の人に知人は少ないが、台湾人は、母の友人にいたし、中学の頃には、台湾出身の同級生が何人かいた。
 中三の時のクラスメートにTという台湾出身の男がいた。Tはスポーツ万能で、喧嘩が強く、沖縄に来て3年足らずだというのに、勉強の成績も良かった。スポーツも喧嘩も平均以下、勉強の成績だけは平均よりちょっと上だった私は、それでも、彼となんとなく馬が合い、親しくなった。彼を中心に4、5人の遊び仲間ができて、その一人となった。
 自分に自信が無くて恥ずかしがり屋だった私は、人前で歌を歌うなどとんでもないことであったのだが、Tは大きな声でよく歌った。音楽の時間はもちろんのこと、休み時間も昼休みも、歩きながらも、遊びに行く移動中のバスの中でも歌った。
 彼のレパートリーには唱歌も歌謡曲もあったが、「沖縄にはいい歌があるよな」と言って、特に彼が好んで歌った歌がある。沖縄の有名な唱歌『芭蕉布』
 海の青さに 空の青 南の風に 緑葉の
 芭蕉は情けに 手を招く 常夏の国 我した島沖縄
これが1番であるが、最後のフレーズ「我した島沖縄」は「ワシタシマウチナー」と発音する。私の島沖縄ということであるが、ワシタには「私の愛する」というニュアンスが、学問的に正しいかどうかは不明だが、私の感覚では含まれている。
 私は、私の生まれ育った沖縄が大好きである。しかしながら、『芭蕉布』の前半にある海の青、空の青、緑葉の芭蕉、常夏などについては、それだけが沖縄では無かろうと多少反感を持つ。海岸にはゴミが一杯落ちているだろう?年間の日照時間は全国の平均以下だろう?倭国の春の若葉のような瑞々しさは無いだろう?1月2月は暖房が必要なほど寒かろう?などと思うのである。がしかし、最後の「我した島沖縄(ワシタシマウチナー)」については、まったくその通りなのである。沖縄は私の愛する島に違いないのである。
 沖縄が好き、という気持ちよりは多少劣るが、私は日本という国も大好きである。日本という国の風土が好きである。日本人も、もちろん全てでは無いが、概ね好きである。旅先で出会った人々には、意地悪な人もいるが、親切な人の方が多い。人間としての品格を多くの日本人が持っていると思う。洪水で皆が困っている時に略奪したり、暴動を起こしたりする他国のありようと比べてみれば、日本人の品の良さは格段上である。他人の弱みに付け込むことは醜いことであり、醜いことをするのは恥ずべきことであるという心を、日本人は伝統として持っているのだろう。それを誇らしく思う。
 教育基本法の改正がどーのこーのと新聞にあった。愛国心を教育するらしい。国を愛する心を持つことは大切な事であると私も思う。しかしそれは、押し付けられるものでは無い。ましてや、そこで対象となる国が、国体(国家体制)であってはならない。日本国政府であってはならない。愛国心でいうところの国は、大地であり、風土であり、そこに住む国民のことを指すべきであろう。多少落ちてきたとは言え、まだまだ日本の風土やそこに住む人々は、愛するに十分値するものと私は信じている。だから、何も強制しなくたっていいのだ。政府は嫌いでも、「日本が大好き」な国民がいっぱいいればいいのだ。

 記:2006.4.14 ガジ丸


この記事をはてなブックマークに追加

先を見る力

2006年04月07日 | ガジ丸通信-政治・経済

 チャンポンとは「あれとこれと混同すること。まぜこぜ。」(広辞苑)だが、チャンポンするは「まぜこぜにする」となり、そこから、沖縄の料理方法の一つであるチャンプルーの由来が、(たぶん)きている。チャンプルーは、野菜、肉、豆腐をまぜこぜにして炒めること。マーミナ(豆菜:モヤシのこと)と肉、豆腐を炒めたらマーミナチャンプルー、タマナー(玉菜:キャベツのこと)と肉、豆腐を炒めたらタマナーチャンプルー、ゴーヤーと肉、豆腐を炒めたら、ご存知ゴーヤーチャンプルーなどとなる。数種類の野菜と肉、それに大目の豆腐を炒めると、これはトーフチャンプルーになる。ほぼ同じ内容で、野菜が多く、豆腐が少ない場合は、それは野菜チャンプルーとなる。沖縄の多くの食堂にトーフチャンプルーというメニューがある。もし、その店に野菜チャンプルーというメニューもあったなら、比べてみると良い。豆腐の量の違いが判る。
 冷蔵庫に絹濃し豆腐が1パックあった。消費期限は4月7日とある。今夜は飲み会があるので、この豆腐、朝飯に食わねばならない。が、1パックの豆腐を味噌汁にして、それを全部食うのはきつい。そこで、トーフチャンプルーにして食うことにした。水気の少ない、固い島豆腐でなければチャンプルーは上手く作れない。本土産の豆腐は柔らかくチャンプルーに向かない。ましてや絹濃しである。それでも、挑戦した。
 私は高校の頃から一人暮らしをしていて、料理は得意な方である。料理本などは読まずとも、塩、醤油、砂糖、酒、味醂、味噌などを、どの程度入れたらどんな味がするかは、ある程度予見できる。柔らかい絹濃し豆腐を、どうすれば崩れずにチャンプルーできるかについても、私はその方法を想像できる。料理については、私は先を見る力がある。
 ガジ丸HPの、サーバー側が用意しているディスク容量が満杯近くになっていたので、ファイルの一部(全体の四分の一ほど)を別のサーバーに移した。このことが、先々どのような影響を及ぼすかについて、私はほとんど先を見る力を持っていなかった。影響は大きかった。800を超えるファイルの全てでリンクが崩れた。その修復には相当の時間がかかり、今なお、全部の修復には至っていない。
 先を見る力はしかし、私のように個人的なことに関しては大した問題では無い。チャンプルーに失敗して、豆腐一丁無駄にしたとか、HPが消えて無くなったとかなど、自分一人が困ることであって、世の中には何の影響も無い。先を見る力は、でも、政治家にとっては重要な資質の一つとなる。これは、世の中に多大な影響を与えるからだ。
 民主党の代表選が今日行われる。「政権交代のある政治になることが、最も大きな改革である」ということについては両候補とも一致しているようで、私も強くそう思う。どちらが代表になっても構わないし、そして、選ばれた人間が近い将来、日本国の首相になっても構わないと思う。もちろん、自民党の誰かが首相でも構わない。ただ、国のリーダーとなる人は、常に、現状を理解し、このままの状態でいけば将来どうなるか、ここを変えると将来どうなるかなどについて、国民に示して欲しいのである。優秀な政治家なら「先を見る力」を持っているはず。変直人、小技一郎のどちらにも、私はそれを期待する。
 あと、2、3時間後には選挙結果が判明するようだ。誰が選ばれるかというより、選ばれた人間が何を語るかについて、国民は関心を持って欲しい、とも私は願う。
 ちなみに、今朝の絹濃し豆腐チャンプルーは成功した。美味しく食べた。

 記:2006.4.7 ガジ丸


この記事をはてなブックマークに追加