ガジ丸が想う沖縄

沖縄の動物、植物、あれこれを紹介します。

自由と共同

2017年12月15日 | ガジ丸通信-社会・生活

 先週のガジ丸通信『感性の相互容認』の続き。「それぞれが互いの感性を認め合って生活する、つまり、感性の相互容認でいいじゃないかと思う」と書いたが、もちろん、私の気持ちとしては「これでいいのだ、相手も正しいかしれないが、俺も正しいのだ」であった。しかしその後、晩酌しながら「そんな考え、オカシイかな」と思った。

 社会は共同体であると思う。共同体とは「血縁的・地縁的あるいは感情的なつながりや所有を基盤とする人間の共同生活の様式。共同ゆえの相互扶助と相互規制とがある」(広辞苑)のこと。「お前はお前、俺は俺で好き勝手にやろう」では、「お前」と「俺」との共同体は成り立たない。「あなたは農業で食料を生産し、私は布を織り服を仕立てる」だと、「あなた」と「私」の共同体は成り立つ。
 私(これを書いている私のこと)は、自ら畑を耕しいくらかの野菜を得ているが、誰かが生産した米や肉、その他の食料を食い、誰かが生産した服を着て、誰かが建てた家屋に住み、誰かが働いているお陰で車に乗り道路を走り、国や県、市町村のお陰で安全に生きていける。まったくもって大いなる扶助を受けている。
 相互に与えられたり与えたりして社会は成り立つ。与える力の弱いもの強いものの差はあるだろうが、弱いものは感謝すればいいのだ。「ありがとう」で済むはずだ。
 それなのに私は、誰かに扶助を与えているかと言うと、「与えているぜ!」と自身持っては言えない。私の場合の扶助は相互ではない。相互でないならせめて、「ありがとう」と感謝し、他人に優しくあらねばならぬと今更ながら反省している。
     

 人が人として生きていく上で最も大事なものは自由であると、私は思っていた。自由が大事ということは今も正しいと思っているが、社会の一員として生きていくからには共同意識がその上をいく重要なことではないかと今考え直している。
 社会が上手くいくためには個人個人が共同体の一員であることを自覚し、助け合うことが必要であろうと思う。自分のためだけに生きてきた私が「いまさら何を」かもしれないが、自由大好きの私が、これから共同意識を持てるかどうかも自信無いが。

 共同はまた、夫婦にも家族にも言えることだと思う。夫婦は力を合わせて互いの幸せが築けるよう努力し、家族の幸せを保たなければならないはず。
 「トイレは小の時も座ってやってよね。」
 「何で、俺は男だ、男には男のやり方がある、女の真似なんかできねぇよ。」
 「立ったままやられるとさ、便器に飛び散って汚れるのよ。」
 「掃除すればいいじゃないか!」
 「誰が掃除すると思ってるのよ!」
 などと喧嘩なんかしてはいけない。この場合、妻の方の言い分が正しいと私は思う。トイレ掃除は夫の役目にするか、素直に妻の言うことを聞けばいいのだ。

 なんて、妻を得たことのない私が言うのも変だが、そうやっていろいろ考えると、人生の半分は我慢であり、感性の半分は相手に合わせる必要があるのであろう。
     

 記:2017.12.15 島乃ガジ丸


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感性の相互容認

2017年12月08日 | ガジ丸通信-社会・生活

 貰える予定の年金が予想していたよりだいぶ少ないということが判明して、「バイトしなきゃ」と思い、「畑が一段落した11月にはバイト探しをしよう」と予定していたのだが、12月に入っても、当初想定していた一段落はしていない。
 私の想定していた畑の一段落は、8畝耕して8種の作物を植えることであったが、11月21日にやっと6畝目が終わっただけ。その後、畝作りはやっていない、7畝目には取りかかってもいない。雨が多かったということもあるが、腰痛のせいが大きい。
 私の腰痛は、腰が痛いだけでは無い。尻から腿、ふくらはぎにかけて痺れることがしばしばある。安静にしていれば痛みは無いのだが、姿勢によっては激しく痛む。畑仕事を休むと少し良くなるが、1週間くらい安静にしていればもっと良くなると思われるが、畑仕事はまだ山のようにある。私の腰痛はしばらく続きそうな気配である。
 腰痛だと力仕事はできない、私の得意分野は現場の肉体労働であったのに、それができないとなるとバイト(シルバー人材センターを頼るつもり)もできなくなるであろうと想像される。となると私は、生きるには誰かに頼る必要があるだろうと思った。
     

 長い間独身であった男女が結婚する、2人も初婚。いわゆる晩婚の2人はそれぞれ一人暮らしが長く、その間、自由を謳歌し勝手気ままに生きてきた。なので、家事において、あるいは、食事や睡眠、買い物などの日常生活の中で「これはこうでなければならない」と思うことが数多くあり、互いの行動を見て「えーっ!何でそうなるの!」とぶつかり合うことも数多くあった。しかし、2人はもう既に熟年である。それなりの経験と知恵がある。そういったことは譲歩したり、我慢したりして解決する・・・であろう。

 「ねぇ、起きて、買い物に行こう、車出して。」
 「何だよー、あー、まだ8時じゃねぇかよー、日曜くらいゆっくり寝かせろよ。」
 「スーパーカーマで早朝特売をやっているのよ、行こう。」
 「えーっ、カーマって片道20分はかかるぞ、何がどれだけ安くなるっていうんだ、時間とガソリン代を考えろよ、それに見合うのか?」
 「えーと、トイレットペーパーとあれと・・・全部で500円くらい得するよ。」
 「そうか、それならガソリン代は十分あるな・・・じゃねーよ、疲れた体を休ませたいんだよ、俺の癒しの朝寝は500円の価値も無いってっか!」
 「私はね、得することが大好きなの、あなたの朝寝より私の幸せが大事でしょ!」
 口喧嘩では勝てないので、男は渋々起きて、女房の買い物に付き合うことになる。

 などといったことが私は嫌、そもそも平和主義者の私は言い争うことも嫌、それぞれが互いの感性を認め合って生活する、つまり、感性の相互容認でいいじゃないかと思う。お互いがお互いの感性を認め合って、感性は自由にすればいいんじゃないかと。
 自分の感性が自由であることを私は大いに好むのだが、女性は「感性の一致」が好きなのかもしれない。だから私はモテないのだと思われる。そして、相手の感性に自分の感性を合わせるのが苦手なオッサン(もうすぐオジー)は、その傍に居たがる相手がおらず、よって私は、この先も頼ることのできる相手はいないであろうと想像される。
     

 記:2017.12.8 島乃ガジ丸


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理想の老後

2017年11月10日 | ガジ丸通信-社会・生活

 友人の先輩農夫Tは5人の子持ちである。その内の1人はまだ学生だが、それも来年には卒業する予定で、彼が社会人となり、娘二人が嫁いで家を出ていったらT夫妻は晴れて子育て終了となり、夫婦二人の自由な時間がやってくることになる。
 Tの女房のK子は、私の目から見れば健気な人という印象である。T夫妻と話していると、「あー、この2人、仲良いなぁ」と感じる程にお互いを見る目が優しい。
 その女房もよく知っている、あるいは、その亭主もよく知っている私の友人夫婦は何組もいるが、T夫妻ほど優しさに包まれた夫婦はいないと感じている。
 そのTが先日、私の畑にやってきて、しばしユンタク(おしゃべり)していった。今年の夏は暑かった、10月になっても前代未聞の暑さだなどの話から、このまま温暖化が進んでいったら沖縄の作物も熱帯地方で育つようなものに替えなきゃあとなり、この先どんな社会になるかとなり、互いの老後(数年後)の生活にまで話は至った。

 Tは転職はしているが長年会社員として働き、結婚し、マイホームを建て、実父実母の面倒を見、5人の子供を育てるだけの稼ぎを得てきた。彼の老後は、「子供がみな独立したなら、家を売って、女房と2人で田舎暮らしをしたい、小さな畑で自給の野菜を育てながらのんびり生きて行きたい」とのこと。そう、あの女房と2人なら、幸せな老後を暮らせるだろうと、口にはしなかったが、私はそう思い、少し羨ましくなった。
 人にはそれぞれ「幸せ時間」というものがある。幸せを感じている時間のことで、幸せ時間が長いほどその人の顔は柔和になる。Tはきっと、優しそうなオジーになるはず。
     

 私の老後は、田舎に30坪ほどの土地を買い、そこに5坪ほどの小屋を建て、10坪ほどは畑にしてのんびりと季節の野菜を育て、収穫したものを料理して美味しく頂く。もしかしたら、オジー(爺さん)になってもカメラ片手に散歩を趣味とし、パソコンを使い文章を書いてブログやっているかもしれない。晴耕雨読ならぬ晴耕雨パソコンだ。
 もちろん畑仕事もパソコン作業も、我が身が生きていればの話で、生きていて五体満足に動き、脳味噌にもさほどの不自由がない状態であるという条件付きとなる。
 五体満足に動くとはもちろん、若者のように体が動くということではない、年齢なりに動けばいいのだ。ゆっくりでいいから歩くことができ、ゆっくりでいいから10坪ほどの畑で野良仕事をし、自分が食べる分の季節の野菜を育て、ゆっくりでいいから収穫した野菜を料理し、それを食べることができればいいのだ。酒が飲めればなお良い。
 脳味噌にもさほどの不自由がない状態とは、多少の物忘れ、例えば、畑へ出て農作業道具を忘れる、昼飯食べるのを忘れる、パンツ履くのを忘れるなどといったことは可で、料理して火を消し忘れて出掛けるなんてことになったら不可、といったようなもの。

 さて、私のそんな老後、80歳(生きていればの話)になってもそうかと言うと、それはあまり期待できない。「10坪ほどの畑で農作業をし、自分が食べる分の季節の野菜を育て、収穫した野菜を料理し、食べることができる」は難しいと思われる。それが出来なくなったらどうする?・・・そう、自分で自分の面倒を見ることが出来なかったら、私の場合、死んでしまえば良いとなる。私はきっと、冷めたオジーになるはず。
     

 記:2017.11.10 島乃ガジ丸


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爪に火をともす老後

2017年11月03日 | ガジ丸通信-社会・生活

 台風22号のせいで中止になったが、先週土曜日(28日)今週日曜日の2日間の予定で『第31回日本高齢者大会』が沖縄であり、その中の企画の1つ、沖縄国際大学で行われる2日目の学習会に私は参加するつもりで、その参加証も入手していた。
 私が参加する予定だった学習会のテーマは『高齢者の貧困と下流老人問題』。私がそうなる予定でもあるが、私はまだ、少ないながら年金が貰え、65歳からは家賃3万円程度の安アパートに住み、質素倹約すれば光熱費、通信費も支払える。65歳からの私の年金は厚生年金だから何とかなる。しかし、国民年金だけの人は生活できないのではないだろうか、そういった人達はどうやって暮らしを立てるのだろうかと疑問を持っていた。
     

 現在私が借りている畑(ナッピバルと名付けた)は300坪弱あり、体が動く限りで言えば、私はそこで農作業をし、少なくとも自分が食べる分は生産できる。しかし、私のやり方(無農薬無肥料で概ね自然栽培)で現金収入を得るのは難しい。先輩農夫で、農夫として成功している友人のNが言うには「露地栽培では難しいよ、ハウス建てなきゃ」とのことである。しかし、ハウス栽培だと無農薬無肥料では作物を育てるのは難しい。
 さらに、ハウスを建てるには金がかかる。現役の頃の蓄えが無く、国民年金のみが収入源のお年寄りたちだと、土地を借りての小作農では生活が成り立たない。ハウスを建てる金も無いのであれば、労働に長い時間をかけて、やっと食えるだけの老後となる。

 ナッピバルを始めて1~2年経った頃、私は畑に置いてあった脚立を2台盗まれた。大きなシンメーナービ(ヒージャー(山羊)汁を作るような大きな鍋)を盗まれ、昭和の時代洗濯に用いていたタライも盗まれた。「まさか、他人の畑に入ってまで物を盗む人はいないであろう」という、私の甘い考えに気付かされたのであった。
 資源ゴミの日になると朝早くから自転車に乗った、あるいは軽トラックに乗ったご老人方が資源ゴミを拾得して回っている。彼らは資源ゴミの中から空き缶や紙類を持って行った。空き缶も紙類も金になると、数年前、彼らの1人に聞いたことがある。
 資源ゴミの日はだいたい週に1回、その日に家々の前を回って空き缶や紙類を集め、それを売っていくらかの現金を得る。資源ゴミを集めるご老人方はその地区にたいてい数名はいるので競争率も激しい。1人の集めた分では大した額では無いと思われるが、それでも、その現金が家計の足しになっているのであろう。そうやって生きている。

 私が盗まれた脚立や鍋、タライなどもそういったご老人たちが「これは地面の上に落ちているものだ」と見なして持って行ったに違いない。であれば、私が3千円で買った脚立を100円200円で売られたら腹も立つのだが、その100円200円でご老人たちが糊口を凌げるのであれば、そのご老人たちが爪に火をともすような生活をしているのであれば、私にとっては多いなる損害でも、彼らを責めることはできない。
 爪に火をともすような老後の暮らし、私だって例外では無い。この先、荒れ心臓総理の思惑通り物価が上がって、私の少ない年金では暮らしていけないかもしれない。
 ちなみに、「爪に火をともす」は「蝋燭のかわりに爪に火をともすほど、過度に倹約する」(広辞苑)、「糊口を凌ぐ」は「かろうじて生計を立てる」という意。
     

 記:2017.11.3 島乃ガジ丸


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理想の寸胴人口

2017年10月13日 | ガジ丸通信-社会・生活

 今の住まいの家賃は月4万6千円、これを前に住んでいたアパート(宜野湾市我如古)並みのアパートへ引っ越して家賃を月3万5千円とする。光熱費通信交通費も極力節約して月1万円程度とする。衣類は今、ストックが多く(実家から持ってきた物など)あるので月に均すと500円くらいで済む。食は、酒代が現在最も高くついているが、発泡酒が3000円、泡盛を紙パック入り1箱1000円、日本酒を3ヶ月に1升として月600円程、ワインを紙パック1箱にして800円程、その他も含めて酒代は月9000円程度にする。野菜は畑で採れるものとし、肉、魚、豆腐などに月2500円程は費やす。
 タバコについては、吸わなくてもいいのだが、ブームとか流行とかファッショを嫌う私は、ヒステリックと感じる嫌煙運動が大嫌いなので、タバコを吸う最後の人類になりたいとも思っているので今後も吸うが、吸う数は減らす。月に3000円程とする。
 以上のことが実現すれば、私の生活費は諸雑費(保険料、車両維持費など月約5000円)も含めて6万5千円以内で済むことになる。そうなれば私は生きていける。

 生活費を月6万5千円で済ませなければならない訳がある。今週火曜日(10日)、年金事務所へ行き、年金請求の手続きを済ませた。65歳からは6万5千円弱とのこと。数年前に試算した時は月額7万円強あった。7万円なら家賃を3万5千円にすれば今まで通りに好きなだけ酒を飲んでも生きて行けたはずなのに、何で5千円強も額が減ったのか不明。必要加入月数が減った分、支給額を減らすという国の策略かもしれない。
 しかも、6万5千円弱頂けるのも65歳になってから、それまでは1万8千円ほどしかない。当初から、65歳まではアルバイトしなければと思っていたので、これはまあしょうがない。畑仕事が落ち着いたら(11月頃になるか)バイトを探すことにしよう。
     

 それにしても、私なんかまだ良い方だと思う。この先、さらに少子高齢化が進んだら今の若い人たちは年金を支払った分でさえ、老後に支給されるかどうかも怪しい。
 それにしても、何十年か前の日本国の官僚たちは、将来、日本国が少子高齢化になるということを想像できなかったのだろうか。未来永劫ピラミッド型人口分布が続くと思っていたのだろうか。そんなこと有り得ないと、優秀な頭脳の持ち主が揃っていて気付かなかったのだろうか、人口が増えたら領土も増やせばいいとでも思っていたのか。
 国土のキャパからすれば、人口は増えもせず減りもしないちょうど良い加減の水準があるはず。人口分布には上手く社会が回る理想の形があるはず。例えば、十歳未満、十代、二十代、三十代、四十代、五十代、六十代、七十代、八十代以上がそれぞれ1200万人内外ずついて、足して1億1千万人ほど、今の人口と同じ程度が日本国の国土にいて、働ける人達は働けない子供や老人、障害者の分まで働くことになるが、国土のキャパからすれば、それぞれ十分の食料を得、それなりに幸せに暮らせるのではないか。

 それにしても、65歳以降を月6万5千円弱で生活しなければならない私、物価が上がったなら、もしかしたら、電気も水道も無い2畳ほどの畑小屋で、芋を齧りながら生きていくことになるかもしれない。トイレは、小はともかく、大は野原に入って、穴を掘っての野糞ということになるかもしれない。いいさ、それでも生きていりゃいいのだ。
     

 記:2017.10.13 島乃ガジ丸


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