ガジ丸が想う沖縄

沖縄の動物、植物、あれこれを紹介します。

長い休暇の理由

2019年11月30日 | 通信-その他・雑感

 11月13日にガジ丸通信記事『旅の終わり』をアップしてから、今日11月30日までブログのアップを休んでいた。アップを休んだのではなくブログの記事そのものを書くことを怠けていた。いや、怠けたというより、それに費やす時間がなかった。
 ブログ記事は書いていないが、私のノートやパソコンにはこの間の出来事もいろいろメモはしている。そのメモを読むと、なるほど、ブログ記事に費やす時間がなかったというのも納得できる。のんびり記事書きするのを阻む面倒なことがいろいろあった。
 先ずは体調、舌癌克服のための試練なのかもしれないが、体の不具合は、
1、まだ完全には治っていない舌の癌の患部に傷がまだ残っており、これが激しく痛い。
2、体のむくみ、これも一時期に比べれば良くなっていているがまだ完調ではない。
3、激しい睡魔、四六時中睡魔が襲って来る。ある薬の副作用らしい。
4、便秘、入院してから「3~4日出ない」はよくあり、1週間でないこともあった。便秘の苦しさを初めて知った。治すための苦労もその痛さも初めて知った。あまりの痛さに「もういい、これ以上生きなくてもいい、殺してくれ!」と叫びたくなるほどだった。ここ最近は、1週間出ないということはもう無いが、2日出ないことはよくある。
     

 既に克服した試練についても書いておくと、
5、指先の切り傷、左右の数本の指先に切り傷がいくつもできた。難渋した。
6、痰や粘性の強い唾液が喉近くに溜まって、呼吸難になることもたまにあったが、痰や唾液の量は相変わらずだが、そこまで溜まることは今は無い。
7、むくみが足を覆っていた頃、足首に水が溜まり、足首が自由に動かせず、立った時歩く時などに足首が激しく痛んだ。歩行器を使わないと歩けなかったが、今は大丈夫。

 などといった私の淡々とした闘病生活は現在どのような状況にあるかというと、
 今週月曜日(11月25日)から放射線治療を再開した。月から金まで5回、来週も同じく5回、の計10回の予定で、主治医の見立てによると、それで癌は治り、治療は終了するだろうとのこと。放射線治療再開のわけは、
 舌癌がまだ少し残っている。放射線の効果は半年ほどらしい。前回最後の放射線は10月4日、なので、来年春まで待てば、残っている癌細胞も勝手に消えるかもしれない。であるが、今、追加の放射線治療を施せば、治る可能性は格段に高くなるとのこと。
 放射線の副作用に苦しんだ日々が再来するのかと考えると少々憂鬱だが、前回と今回では条件が違う。私の体が違う。水と点滴で生き長らえ体重も45キロしかなかった前回、ほぼ骨と皮だけの体になってしまっていた前回と比べ、体重も55キロまで戻って体力はついている。多少の副作用には勝てるんじゃないかと密かに期待している。
 ということで、治療を受けることにした。順調に行けば、12月10日から15日までの辺りには退院できるであろうと、主治医の予想であった。
 しかし今、体調はあまり良くない。とにかく、舌が痛い。舌の、癌だった個所と正常な個所の境目に深い傷があって、そこの痛みが激しい。「もういいよ、殺してくれ!」と叫びたくなるような痛さだ。それは放射線の副作用ではなく、粘っている癌細胞の最後のあがきではないかと想像される。何はともあれ、取り敢えず回復に向かってはいる。
     

 記:2019.11.30 島乃ガジ丸


美味しいが担う復活

2019年11月01日 | 通信-その他・雑感

 昨日未明4時前に目が覚め起きる。しばらくして、ラジオを点けると「首里城が火事」とのニュースが聞こえた。「ぬぁわーにー!」となって、5時には談話室行ってテレビで見る。窓の外を見ていた看護師が「炎らしきものが見えます」と私を手招きした。談話室の窓から遠くに燃えている明りが見えた。はるか遠いのにはっきり見えた。
 首里城は支配者(王様)の家であり、首里王府の政治施設に過ぎないのかもしれないけど、歴史的文化的、さらに民俗学的に見れば、ウチナーンチュにとってはウチナーンチュの精神の拠り所となる建物ではないかと思う。南の島の暢気者のオジーである私でも、少なからぬ衝撃であった。沖縄県民統合の象徴が消えつつあると感じた。
 その後、時間が経つに連れて、「正殿、北殿、南殿が全焼し、他の建物も燃え、周辺にも延焼」となっていく。火事は午後2時半になってやっと沈下したとのこと。
 首里城についての話はまだあるが、それはまた別の機会にということにして、今回は食の話、食材と食欲の話。食材と食欲が元気の元になるのではないかという私の仮説。

 病魔に侵された私の舌は、腫れ上がっているために口の中でぎゅうぎゅうとなって、ほとんど動けない。その舌が邪魔しているので左右の奥歯が使えない。舌も奥歯も使えないということで、食物を口に入れて、噛み砕いて飲み込むことができない。舌が動かない、舌が腫れているせいで喉が狭まっていることもあって唾を飲み込むこともできない。
 その舌も病院の治療によって次第に良くなっていく。
 10月25日の朝、今までできなかったお口クチュクチュができるようになった。
 同日、まだまだ不十分だが、少しだけだが、唾液が飲み込めるようになった。
 完全復調にはまだほど遠いが、口が動くようになった、少々だがモノを味わえるようになった。ということで、これまでは「天麩羅が食えたらいいなぁ」と想像の世界で夢ばかり追っていたが、今は食べたいものが現実、あるいは近い内の現実として現れてきた。
     

 今の毎日の3食は、主食はお粥だが、それに加え汁物とおかずらしきもの、デザートらしきものが付いてくる。主食がお粥なので、私は、基本的には和食が食いたい。しかし、病院の給食はお粥だからといって特別扱いはしない、汁物やおかずは概ね他の人と同じもの、中華であったり、西洋料理であったりする。和食であることはむしろ少ない。
 10月21日、「22日に伺います。何か欲しいものがあればお知らせください」という、とても優しいメールが友人のIさんから届いた。Iさんは和食の美人ベテラン料理人、そのメールを読んで「あー!」と、のろまな私の脳味噌でもすぐに閃いた。
 翌22日、IさんにIさん手料理のいくつかを持って来て貰った。そして、その日から私の3食は、味気ない病院食もIさんの和食が少し加わって幸せの食事に変身した。

 食事は栄養補給のための餌というだけではない、食べて、美味しいと感じて、幸せを感じて、心にも栄養を与える生きるに必要なものだと私は思っている。
 南の島の暢気者は、「細かいことはいいさぁ、食えればいいさぁ、美味しければいいさぁ」という気分で生きているのだが、「美味しければいいさぁ」は大事だと思う。美味しいは幸せを感じる、幸せを感じると元気になる、元気になると免疫力がアップする、免疫力が高いと病気に勝てる。・・・という流れになるのではないかと考えている。
     

 記:2019.11.1 島乃ガジ丸


頭垂れないわけ

2019年09月06日 | 通信-その他・雑感

 薬草研究家のHさん、一緒に野山を歩き回って薬草探しもやっているが、ここ2ヶ月ほどは出かけていない。予定していた日に雨というのが何度かあって延期が続いている。延期の理由は天気だけではなく、参議院選挙もあったから。Hさんは基地反対派の候補を応援していて、その運動でも忙しかったから。そして、私の体調不良もあったから。
 薬草探しに出かけることも無く、雨が多かったので散歩に出かけることも少なかった私だが、ヒマだったということは無い。私はボーっとしている時間が、特に今年になってから長い、パソコンを30分見ていると目が痛くなり、頭痛がしてきつい。30分パソコンやった後は30分はボーっとしている。腰痛の腰休めの意味もあって時々はベッドに横になる。ベッドに横になると、時には眠っている。そんな日々を暮らしている。

 そんな日常のある日、6月23日の慰霊の日、その翌日だったか翌々日だったか、Hさんが私を訪ねて来て、しばし慰霊の日の話、戦争の話など聞かせていただいた。
 「終戦時、6歳だった子が今年80歳になりますねぇ、あと10年もしたら90歳ですよ。戦争を語れる人がほとんどいなくなってしまいますねぇ。」と話すのを聞いて、「戦争体験を残さなきゃ」と私はふと思い付いた。戦争体験記はおそらくいくつもある、映像になっているものも、本になっているものも多くあるに違いない。私もテレビか映画でそれらを観た覚えがある。それでも「もっと残そう」と思った。
 まだ語っていない人がいるだろう、そんな人の中には軍国少年だった人もいるだろう、逆に「戦争反対」と思っている人もいただろう、ただ、時の流れるままに生きた人も多かろう。そういった人たちが沖縄戦の間、何を思って過ごしていたのかに興味がある。
     

 あるお年寄りに話を伺ったら
 「タケ部隊という日本軍が近くにいて、そこの押切曹長と仲良くしていた」と聞き、
 「あっ、俺は軍そのものついてほとんど何も知らんぞ」と気付く。沖縄に軍が配備されたのは1944年3月の事。配備されたのは第32軍。武部隊とは第9師団の通称で、第32軍には3つの師団が含まれている。「軍って何だ?師団って何だ?」となる。
 さらに、沖縄戦はいつから始まって、どのような経緯を経て、どのように終了したか。
沖縄戦にはどれだけの戦力がつぎ込まれたのか。サイパン、グァム、フィリピンなど外国の戦況と沖縄はどう関わったのか。などなど分からないことが多い、「いかん、これではお年寄りたちに話を伺う資格が無ぇぞ」。ということで、その日から沖縄戦の勉強。
 疎開とは何だったのか、十・十空襲とは何だったのか、艦砲射撃とは何だったのか、集団自決とは何だったのか、それらには何の意味や意義があったのか、私ははほとんど知らない。図書館行って資料を読み、資料を借りて家でも読み、自分が理解できるように内容をまとめていく、時間かかっている。脳味噌フル活動している。こんなに勉強するのは大学受験以来ではないか、しかし、やっている割には頭に入らない。齢のせいであろう。
 そして、そんな中、私はショックなことに気付いた。「あー、俺は地位も名誉も金も無い。それでも傲慢なのは、うわべの知識だけで物事を良く知っているぞと勘違いしていたからだ、知識があるから俺は偉いんだぞという思い違いをしていたからだ」と気付いた。中身が無いから実らない、だから、頭を垂れることが無いんだな、と気付いた。
     

 記:2019.8.30 島乃ガジ丸

 参考文献
 『沖縄大百科事典』沖縄大百科事典刊行事務局編集、沖縄タイムス社発行 


50年ぶりの入院生活

2019年08月12日 | 通信-その他・雑感

 去年(2018年)夏頃、 左下奥歯の1本がグラグラしていたので歯医者へ行く。グラグラしている歯は、放っておけば抜けるというので放っておくことにして、歯槽膿漏と診断され、歯の掃除をすることになり、その後数回通う。その時「舌の裏が歯に当って炎症を起こした痕がある」と指摘された。同年秋頃、炎症を起こした痕から少し離れた個所に径1センチほどの円形の膨らみがあることに気付く。
 今年(2019年)春、円形の膨らみの周りがただれていることに気付く。2019年6月中旬までは、ただれもそう広がることも無く、痛みも無かった。
 2019年6月下旬からただれた個所から痛みが出て、すごく気になる。

 7月に入ると、ただれている個所が急激に広がり始め、舌の左側が膨らんで、舌が動かしにくくなり、異物が口中にあるということで唾液が口から溢れるほどに多く出るようになった。舌の左側の、膨らんだ個所の下部から出血もあり、痛みも強くなる。
 7月下旬になると食事(食べ物を口内に入れ咀嚼すること)するのもきつくなる。
 8月に入ると唾液からの出血も目立つようになり、「何の病気だ?」とネットで調べ、「舌癌かも」とあり、「病院は何科?」と調べると口腔外科とあった。家の近くの口腔外科を調べると琉球大学付属病院があったが、しかし、琉球大学付属病院で診察を受けるには他の病院からの「紹介状」が必要とのこと、これもネット情報。
 ということで、先週月曜日(8月5日)、診療内容に口腔外科とあった病院(歯科)へ行き、診て貰おうとしたが、混んでいて、診療するのは今週の金曜日の午後になりますとのこと。診療後に紹介状を書いてもらえますか?と訊いたら、紹介状はさらにその日から4、5日かかるのでお渡しできるのは来週火曜か水曜になりますとのこと。
 もう既に舌の左側がパンパンに膨らんで、痛いし、出血もするし、舌を自由に動かせないので話もできないし、食事も不自由だし、あと1週間経った頃には舌が喉を塞いで息もできなくなるのではないかと不安になり、あれこれのことに詳しい人に尋ね、そしてやっと、8月7日に紹介状を入手し、8日に琉球大学病院で診察を受けることができた。
     

 診察、というか検査は午前11時に始まり、あちらこちら回され午後4時近くまでかかった。「明日も検査が必要だから、場合によっては手術になるかもしれないので・・・」ということで、即入院と判断され、一旦家に帰って入院準備をし、入院となった。
 「もしかしたらヤバイかも」という思いもあったが、「えーーーっ、即入院!」という晴天の霹靂の思いが強かった。いつかは死ぬんだから明日死んでも構わないのだが、遺書書いていないなど心残りもあるので、もう少しは生きていたい。よって、入院に肯く。私としては子供の頃に骨折で入院して以来、約50年ぶりの入院となった。
 この先どれくらい入院生活が続くのか暗鬱たる思いになる。主治医には「なるべく通院で治療したい、入院中でもなるべく外出したい」と要望した。そんな私の希望を与し、また、出された病院食を毎回ほぼ完食していることから「今のところ食事に不安は無い」と判断した結果だと思われるが、9日夕方、担当医数名が私の病室に来て、
 「明日、退院でもいいですよ」となり、昨日10日、私は退院した。退院はしたけど今週水曜日には耳鼻咽喉科の検査が必要とのこと。先行きはまったく不透明。
     

 記:2019.8.12 島乃ガジ丸


トリセツ読まない

2019年07月19日 | 通信-その他・雑感

 前にガジ丸記事『時代についていけない爺さん』で、「テレビ観ない、新聞や週刊誌の類も読まないオジサンは新しい言葉に疎く、時代についていけていない」と書いたが、そんな時代遅れの私でもしかし、トリセツは知っている。トリセツというタイトルの歌があって、それでトリセツが取扱説明書の略であることを知る。
 購入した電化製品のトリセツを、大雑把であるが私はだいたい読んでいる。ラジオ、パソコンなど慣れているものは大雑把だが、これまで購入したことのない物であれば細かく読んでいる。試行錯誤するよりその方が使い方を習得するのに早道だからだ。

 オバサンと呼ばれる齢になってパソコンを始め、ネット上の店舗に自分達の作品を出品するという新しいことを始めたH子とその友人達、「作品出品が上手くいかない」というのでパソコンで写真の扱い方、添付の仕方をちょいと教えたのは去年11月、その数日後にH子に会ったので、「どう、上手くいった?」と訊くと、「できない」と応える。「何で?」と訊くと、「分からないよ。何度やってもエラーになるのよ」と言う。
 で後日、そのサイトを開いてちょっと調べてみる。出品の仕方についてあれこれ説明、電化製品で言えばトリセツがあった。そう簡単ではなさそうだったのでA4用紙の2ページ分ほどプリントアウトし、翌日、H子に会って「そう簡単ではないみたいだよ、説明文をよく読んでからやった方がいいよ」とプリントしたものをあげる。
 またしばらくしてH子に会う。「どんな?」と訊く。「できたよ」と答える。「あーそりゃ良かった、がんばったね」と言うと、「うん、でも、パソコンからじゃないよ、別の店舗にスマホからやった。それ用のアプリがあって、それを使ったら簡単にできた」とのこと。結局、トリセツ読むのが面倒なのでそういうことにしたらしい。
     

 1+1=2みたいなトリセツなら私は得意である。3×(1+1)÷2になっても得意である。中学校程度の連立方程式でも大丈夫。しかし私は1が、場合によっては1でないこともあるといった気分次第で変化するようなことは苦手。なので、
 女性の取り扱いについて、私はそれを大いに苦手としている。若い頃は、男の感性と女の感性にそう大きな違いがあるとは思っていなかった、『黒の舟唄』という名曲があり深くて暗い川があると聞いてはいたけど、現実的には深い川を感じていなかったので女性のトリセツがあったとしても読まなかったであろう。トリセツを読まずに生きてきたので、私はもうすぐオジーと呼ばれる齢になっても結婚できないのかもしれない。
 私が金持ちなら、あるいは地位や名誉があって4人5人の生活の面倒くらい楽にできる程度の身分であれば、「黙って俺に付いてこい」と言えるのだが、現状は無理、現状では「全面的に貴女の感性に合わせます、貴女に付いて行きます」となる。でもそれは、私の性格では無理。もうすぐオジーは、今更トリセツを読む元気もない。

 老いた目にパソコン画面はきついが、本の文字や図鑑を見るのはそうきつくはない。それはパソコンの電磁波と関係があるのだろうか?公園の散策はとても気分が良い。目に入ってくるのは主に草木や海岸の景色、それが精神に良い影響を与え、体にも良い影響を与えているのかもしれない。目の使い方のトリセツがあれば読んでみたい。
     

 記:2019.7.19 島乃ガジ丸