ガジ丸が想う沖縄

沖縄の動物、植物、あれこれを紹介します。

プロの自覚

2010年08月27日 | 通信-社会・生活

 私の勤める会社は長引く不況で仕事が激減した。時短ということになり、私は現在週休五日制となっている。元々半月給制(数万円の基本給プラス出た日数分の賃金)の私は、週に二日だけ働くとなると、月給10万円あるかないかとなる。
 そんな私に「プロとしての自覚はあるか?」と問われると、「ある」とは言えない。それは、月給10万円しか貰っていないからでは無く、週に二日しか働いていないからだ。言い訳になるが、週に二日だと、客に対しプロとしての誠意が尽くせないのだ。
 そんな私も、4、5年前までは週休三日制で、忙しい時は残業をし、休日出勤もした。客に対しプロ(未熟だったかも知れないが、気持ちはそう)としての誠意も尽くせた。客が何を望んでいるかを考え、家に帰ってからも努力していた。プロならば、客が望んでいることに的確な対応(肯定するにせよ、否定するにせよ)をせねばならない。たとえ力が及ばなくとも、何とか「お客さんのために」と努力することが必要であろう。

 父が残した借金の相続手続きが手間取っている。手続きに取りかかったのは父の四十九日が済んで間もなくのことだから、もう二ヶ月近くが過ぎている。でもまだ「これで大丈夫」と確信できる状態には無い。手間取っている原因は私では無く銀行側にある。いや、堪忍袋の緒がゴムでできているらしい私にも多少はあるかもしれない。
  「こういった書類が必要です」と最初に銀行側に言われたのは、相続届け(相続人三人と保証人の署名と捺印を要する)、被相続人(父)の戸籍謄本、相続人三人の戸籍謄本と印鑑証明、保証人となっている叔父の印鑑証明の9種。姉の戸籍のある静岡に連絡し、弟のいる千葉に連絡し、書類のやり取りやら戸籍謄本などを送って貰って三週間後、それらを揃えて銀行に持っていく。すると、「相続代表者の所得証明も必要です」と言う。
 堪忍袋の緒がゴムでできている私は、その程度ではちっとも怒らない。「私は低所得者ですが?」と訊くと、「それじゃあ、弟さんの所得証明書も必要となります」と答える。で、自分の所得証明書を取り、弟に連絡して所得証明書を送って貰う。その際、弟が別のものと勘違いして、送るのが遅れてしまった。前回から二週間が過ぎてしまった。

  言われたものを揃えて銀行へ行く。すると、「公庫の手続きにおいては、各証明書の有効期間は一ヶ月です。よって、前回揃えて貰った書類は無効となります。取り直す必要があります。」とのたまう。堪忍袋の緒がゴムでできている私は、「そういう大事なことは最初に言わんかい!」と腹は立ったのだが、それでも怒鳴ったりはしない。静かに微笑みを浮かべて、「戸籍謄本やら只ではないですよ、もう何千円も使ってるんですよ。何度も役所行ったり、銀行へ来たり、時間も使ってるんですよ。」と少しだけ棘を刺す。
 後日、各証明書を再度入手するため市役所へ行く。そこで問題発生。アメリカへ住所を移した姉の印鑑証明が取れないのだ。銀行に相談すると、「印鑑証明が無ければ相続人にはなれません、相続届けは作り直しです」と言う。一からやり直しってことだ。さらに、「全員の住民票も必要でした」などと平気な顔でほざく。「必要な書類は最初に全部提示しろよ!お前らそれでもプロか!」と怒鳴りたくなったが、ぐっと我慢する。
 後で思ったのだが、怒鳴らないから私は甘く見られているのかもしれない。いや、あるいは、私が貧乏人だからバカにされているのだろうか。・・・どっちだ?
          
          

 記:2010.8.27 島乃ガジ丸


ほら痔なおーる

2010年08月20日 | 通信-その他・雑感

 先々週のガジ丸通信『踏まれたり、蹴られたり』は、災難が次々とやってきたという話であった。災難とは、糞暑い中の引っ越し、痔の再発、車の故障、洗濯機の水漏れ、相続手続きに難渋している、などのこと。ところが、災難はなおも続いた。

 先週、水曜日木曜日で一泊のヤンバル(山原、沖縄島中北部の通称)旅へ出かけた。民俗研究家井谷氏のお手伝い、運転のできない氏の代わりの私は運転手。水曜日の朝から木曜日の午後3時まで井谷氏と一緒し、寝るとき以外はほぼ行動を共にした。ただし、井谷氏との関わりでは何の不具合も無かった。一人になった時に災難が起きた。
  水曜日の夜、本部町(フクギ並木で有名な)備瀬の民宿で一泊する。晩飯食った後、井谷氏が私の部屋に来て、酒を酌み交わす。十分飲んで、井谷氏が自分の部屋に帰った後、大概酔ってはいたのだが、せっかくのヤンバルの夜だと思い、深夜の散歩に出た。
 フクギに囲まれた道、街灯も無い中、その日はまた、新月の夜で月明かりも無い真っ暗な中、千鳥足は浜辺へ向かった。しらふであれば危険と思ったかもしれないが、何しろ大船に乗った気分でいる。真っ暗な中を突き進んだ。突き進んで、もうすぐ浜辺だというところで、側溝に足を突っ込んで、転んでしまった。血の滴る傷をこさえた。
          

  日曜日の午後、洗濯物干場作成中のこと、アルミ製の長い物干し竿を取り付けようとした時、手を滑らせてしまった。アルミ製の長い物干し竿は脚立にぶつかって、びよーんと反動をつけ、その尖った部分が勢いよく私の顔に衝突した。一瞬動けなくなるほど激しい痛みがした。唾を吐くと血が混ざっていた。上唇の裏が切れたみたいであった。
 その前日の朝から口唇ヘルペスが出ていた。ヘルペスは、風邪を引いたり、傷んだものを食べた時によく出るが、ひどく疲れた時にも出る。今回の場合はお腹壊した覚えもないし、風邪も引いていないので、たぶん疲労。確かに心身ともに疲れてはいる。唇の表はヘルペスで、中は切り傷で、何とも悲惨な状態となってしまった。
          

 そんなこんなの災難が続いていた私だが、事態は好転しつつある。ヘルペスはほぼ治っているし、唇の裏の切り傷も、一瞬の痛みは酷かったのだが、さほどの傷では無く、翌日には全く気にならない程となっていた。左膝の怪我も治りかけている。
 車の故障は、車を修理工場に引き取って貰うこととなった。私は、父の残した車(私のより新しい)を使っていて、車については何の不都合も無い。
 洗濯機の水漏れは、どういう仕組みでそうなったかは全く不明だが、何度か使っているうちに水漏れしなくなった。で、以前と同じように使っている。
 引っ越しは概ね完了した。今週火曜日にご飯を炊いた。約二カ月ぶりのこと。家での運動も二カ月ぶりに再開した。体が非常に硬くなっていてストレッチがきつかったが、これで、以前と同様の生活スタイルに戻ったということになる。部屋はほぼ満足のいく空間作りができて、畳も新しいし、何より清潔だし、住み心地はとても良い。
 いつもなら尻の穴を温めてオロナイン軟膏でも塗っておけば翌日には治った痔が、病院へ行かねばならぬかと思うほどに長引いた。が、これも完治。ただ、今回は薬のお陰。オロナインでは治せなかった痔、「ほら痔なおーる」が治した。さすが専門薬。

 記:2010.8.20 島乃ガジ丸


有ると便利、無いと自由

2010年08月13日 | 通信-社会・生活

 6月、白蟻の入った部屋から一時避難のための引っ越しを行う。引っ越し作業をしながら持ち物の整理処分、部屋の掃除も行い、それらに約一ヶ月も費やした。
 私に持ち物が多いのは多趣味だからと、前に(引っ越し作業の途中)ガジ丸通信に書いたが、その持ち物を収納する棚やら箱やらも当然ながら多くあった。白アリに食われた本棚を2つ、ベッドの下の本箱2つを既に処分したが、棚は他に大小7つあり、箱(主に衣装ケース)に至っては押し入れの中に12個、机の下に1個、ベッドの下に4個、外に塗装道具などの入った小さな物置きが1つと、木炭入れの箱が1つあった。
 私は面倒臭がり屋なので、部屋は概ねいつも整頓されている。「面倒臭がり屋なので整頓されている」は矛盾した言い方では無い。散らかっているとどこに何があるか探すのが面倒である。よって、私の部屋は概ねいつも整頓されているのだ。
 物を整頓するためには棚やら箱やらが必要である。この棚には何が置いてある、この箱には何が収まっているなどと分かれば、生活が便利なのである。というわけで、趣味が増える毎に入れ物も増える。生活を便利にするために物が増え、入れ物も増えて行く。

 アパートのリフォームが終わった7月末から、今度は実家からアパートへの引っ越し作業となる。アパートのリフォームをした大工が掃除をしていなかったので、掃除に丸2日かかり、雨天が多かったせいで荷物運びにも時間がかかったが、それでも昨日までに引っ越し作業は8割方終了した。「アパートから実家へ」の半分以下の日数で済んだ。
 「実家からアパートへ」が早く済んだのは、「アパートから実家へ」の時点で持ち物の整理処分がほとんど終わっていたからだ。つまり、運ぶ荷物の量が少なくて済んだのだ。棚を5つと、箱を4つ処分し、その中身の多くも処分している。
  引っ越し後、私の部屋はずいぶんとあっさりしている。四畳半の居間には、小さな飾棚が壁に取り付けられている他、畳の上には三線とギターと長火鉢しか無い。畳間に隣接した一畳ほどの板間にデスク兼食卓、パソコン関連、本棚が置かれ、居間と寝室との間に書類ケースが置かれている。書類ケースも板間に置けないことはないので、パソコン作業、お絵かき作業、調べ物、食事等は、一畳の広さで足りていることになる。
 寝室にはベッドと小さなサイドテーブルと、テレビ及びテレビ台があるだけ。寝室からトイレへ抜ける半畳ほどの板間に、すのこで組み立てた棚があり、そこに大工道具、オーディオ、CD、MD、衣類の一部を収納している。サイドテーブルにもテレビ台にも、すのこで組み立てた棚にも、まだ何かを置くスペースがたくさんある。

 「まだ何かを置くスペース」は押し入れにもある。その空間のほぼ半分は空いている。押し入れに突っ込んだ12個の衣装ケースも、その内4個は空っぽである。
 まだまだ物を置いたり、仕舞ったりするスペースがあるからといって、もうこれ以上物を増やそうとは思っていない。むしろ、まだまだ削ろうと思っている。
 私に必要なのは筆記用具、お絵かき道具、パソコン関連の機械やソフト、音楽を聴く機械(オーディオ)と材料(CD等)、音楽を演奏したり作ったりする三線とギター、そして、日用品、衣類など生きるに関わるものだけだ。物が無ければその分、心の中に自由というスペースが広がるような気がする。それがいいのかどうか、は不明だが。
          

 記:2010.8.13 島乃ガジ丸


農連

2010年08月06日 | 沖縄05観光・飲み食い遊び

 農連、「のうれん」と倭人なら発音するだろうが、ウチナーンチュは「ノーレン」と発音する。ノーレンと言えば、オジサンオバサン以上の年齢の人ならそれが何を指すかすぐに判り、那覇近辺の人なら「あーあそこ」と場所もすぐに思い浮かぶはず。
 農連は、『沖縄大百科事典』によると「琉球農業協同組合連合会(現経済連)」の略語となっている。ただし、我々庶民が「ノーレン」と呼ぶのは「農連市場」のこと。オジサンオバサン以上の人に、少なくともその名はよく親しまれている市場。

 「農連市場」も『沖縄大百科事典』に記載がある。要約すると以下。

 1953年、琉球農業協同組合連合会によって那覇市与儀に開設された。
 当初の広さは330㎡、1962年に495㎡に拡張。
 生産者と消費者間の相対取引(セリ市場では無いということ)
 本土並みのセリ売買にしようと試み、
 1973年、那覇市古波蔵にセリ市場を開設した。
 しかし、市場の多くは元の場所に残り、現在でも相対取引が続いている。

  農連市場は上述のように生産者と消費者間の相対取引なので、一般客も買いに来る。ではあるが、農産物(だけでなく、その他の食料品、日常雑貨もある)の集まる場所なのでやはり客は小売業の人々が中心となる。沖縄の小売業はマチヤグヮーと呼ばれる住宅地に点在する雑貨店(今のコンビニのようなもの、食料品、日用雑貨品が揃っている)で、現在では、その数はだいぶ減っていて、実家のある那覇市泊にはもう無い。
 私の住む(現在リフォーム中の)アパートは那覇市首里石嶺にあり、那覇市泊に比べると同じ那覇市でありながらずっと田舎である。石嶺に限らず、田舎にはまだマチヤグヮーがいくつも残っている。マチヤグヮーは概ね近所の年配者たちが利用する。
 アパートから徒歩20分ほどの場所、那覇市首里汀良町に、高校2年から3年間ほど私は住んでいた。私の住まいの斜め向かいには伯父の家があり、家の前の、道に面した一部がマチヤグヮーとなっていて、伯母が経営していた。

  伯母のマチヤグヮー、毎日朝早く暗いうちから出かけ、野菜の全てと雑貨の一部を農連市場から仕入れていた。普段はそれを従姉(伯母の娘)が手伝っていたが、盆正月前になって、大量に商品を揃えないといけない時は、男手が必要となった。
 「明日ノーレン行くから手伝ってね」と伯母に頼まれ、私も何度か手伝った。伯母は私に優しい人で私は好きであったが、その手伝いは嫌であった。朝早いのである。まだ夜の明けぬ4時頃には出るのである。寝坊の私には早起きが辛かったのである。
 その頃は伯母もまだ若かった(50代)ので、彼女が車を運転した。農連近くの道端に車を停め、「荷物が運ばれてくるから、あんたここで待ってて」と言い残し、伯母は市場の中へ入っていった。しばらくすると、オジサンたちが次々に荷物を乗せた台車を押してやってきて、「○○の車だよね」と私に確認し、車に荷物を入れた。荷物は食料品から雑貨までいろいろあったと思うが、スイカやパイナップルなどの果物が目立った。伯母の車は普通乗用車であったが、トランクも後部座席も荷物でいっぱいになった。

  それから10年か15年ほど後、私が東京の大学生活から沖縄へ帰り、アルバイトで何とか小遣いを稼いでいる頃、「今度ノーレン行くから手伝ってね」と伯母に頼まれ、何度か手伝った。その頃私は、実家の泊に住んでいて、伯母の店からは少々離れている。であるが、その頃私は、軽トラックを所持していた。軽トラックが荷物を運ぶのに便利なので借り出されたわけである。朝が辛いので、数年の内、何回かは伯母の頼みを断ったと記憶している。私に優しかった伯母だ、私も優しくすれば良かったと今は後悔している。
 私が車を運転し、農連へ行き、ほぼいつもの場所に車を停め、いつものように荷物が運ばれてくるのを待つのだが、2、3度、買い物する伯母に付いて行ったことがある。
 まだ暗いうちから市場はとても賑やかだった。伯母は馴染みの店をいくつか回り、次々と商品を注文していく。店の人とのやり取りも道端で伯母に声をかける人達との会話も概ねウチナーグチ(沖縄口)であったので、全ては聞き取れなかったが、商売とは関係ない日常の話も多くあり、伯母が農連の古い客であることがよく解った。
 「○○店の前、ナンバーは○○○○」と商品を買った店で伯母は車とその位置を教えていた。車の傍に誰もいなくても、商品は勝手に車に積まれていくのであった。

 途中で、「コーラ飲むねぇ、天ぷら食べるねぇ、チキアギー食べるねぇ。」などと伯母は私に訊き、雑貨屋でコーラを買い、総菜屋で天ぷらやチキアギー(揚げ蒲鉾)を買ったりした。農連の天ぷらやチキアギーは美味しかったと記憶している。
 最近何度か農連を訪れているが、伯母が買ってくれた天ぷらやチキアギーの店がどこにあるのか思い出せなかった。何しろ人で混んでいたし、暗かったし。ただ、農連の全体の雰囲気は今もその頃と変わっていない。おそらく建物も替わっていないと思う。
     
     
     

 写真はどれも農連市場の午後の風景、朝は賑やかだが、午後はこんな感じ。

 記:2010.7.26 ガジ丸 →沖縄の生活目次


踏まれたり蹴られたり

2010年08月06日 | 通信-その他・雑感

 「踏んだり蹴ったり」は「不運や災難などが続き、さんざんな目にあうことにいう」(広辞苑)とのことだが、「泣き面に蜂」もまた似たような意味で、「(泣き面を蜂が刺す意)不運の人にさらに苦痛や不幸が重なることにいう」(同)とのこと。
 「泣き面に蜂」は不運に合う立場から言っているが、「踏んだり蹴ったり」はそうではない。この記事を書こうと思った時に、「自分が踏んだり蹴ったりして、何で災難などが続くとなるのだろうか?」と、改めて疑問に思った。災難を受ける立場から言えば、「踏まれたり蹴られたり」と言った方がいいのではないかと。
 「踏んだり蹴ったり」の語源に興味を持ったが、あいにく資料が無い。で、自分なりに考える。で、一つ思いついた。踏んだり蹴ったりするのは人間だが、される対象は人間では無いのではないか、踏んだり蹴ったりされるのは犬の糞ではないか、と。
 犬の糞を踏むのは災難である。靴の底が汚れる。犬の糞を蹴れば、つま先だけでなく、その飛沫が脛や膝や、あるいは腰や胸まで飛んできて、たくさん汚す。

 まあ、「踏んだり蹴ったり」の語源はどうあれ、ここ最近の私はまったく、踏まれたり蹴られたりが続いている。踏まれたり蹴られたりだけでなく、殴られたり突かれたり、投げ飛ばされたりつねられたりもしている。そういう意味では、一難去ってまた一難とも言える。これは、「一つ災難が過ぎて、すぐにまた次の災難が起きること。次々に災難の襲って来ること」(広辞苑)という意味。災難が次々と私に襲ってきている。

  アパートの白蟻騒動で、一時避難の引っ越しを余儀なくされ、糞暑い中、荷物運びに何日も汗をかいた。それだけでも、とんだ災難だと思っていたが、父の借金の相続手続きにおける書類作り、銀行とのやり取りなどで忙しい中、災難はなお続いた。
 ちょうど一週間前の先週金曜日に、痔が再発した。ここ数年鳴りを潜めていた痔、それまでは尻の穴を熱い湯で温めて、オロナイン軟膏とかメンソレータムを塗っておけば、翌日には治っていた。しかし、今回の痔は重傷。脱肛がひどい。これまでよりも倍以上の量が脱出している。これがまた、なかなか元に戻らない。いつも通りのことをやり、いつもとは違う、脱肛した部分を指で押し込めるということまでやったが、ダメ。
 昨日、ついに痔の専門薬、ボラギノールを購入した。それも座薬の方。生まれて初めて痔の専門薬を買い、生まれて初めて座薬なるものを尻の穴に挿入した。
          

  月曜日、車のエンジンがかからない。バッテリーのせいだと思い、近くの給油所で新しいバッテリーを買い、取り替える。重いバッテリーを持って15分歩いた。
 同日、一ヶ月もの間、外に出してあった洗濯機を部屋に運び、溜まっていた洗濯ものを洗濯する。洗濯機の給水ホースから水が漏れた。で、近くの電気屋に行き、給水ホースを買い、古いのと換える。ホースは正常に役立った。しかし、水はなお漏れていた。洗濯槽から漏れている、洗濯槽に穴が開いているようだ。「何てこった!」と呻く。
 そして今朝、宜野湾の職場に出勤し。職場まであと数十メートルの所で、走行中に車のエンジンが止まった。修理屋さんを呼ぶ。「バッテリーが悪いのでは無く、バッテリーに充電する機械が故障している」とのこと。「何てこった!」と天を仰いだ。
          

 記:2010.8.6 島乃ガジ丸