ガジ丸が想う沖縄

沖縄の動物、植物、あれこれを紹介します。

ホームコンサート

2014年02月27日 | ガジ丸通信-音楽・映画

 今週火曜日(2月25日)、久々に音楽ライブを聴きに行った。その前は2011年2月の友部正人だからほぼ3年ぶりとなる。さらに記憶を辿っていくと、2008年5月にタテタカコ、2007年8月にEPO、2007年2月にいとうたかお、2004年3月に高田渡、同じく2004年には鈴木亜紀を知り、その後数回そのライブをあちこちで聴いている。その他、2004年から2011年の友部までの間に、遠藤賢治、ジママ、ショーロクラブ、比屋定篤子などを聴いている。年に1~2回程度だ。音楽は好きな方なのでもっとたくさん聴きに行ってもいいのだが、私の経済事情がそうさせている。
 上記の内、遠藤賢治、ジママ、ショーロクラブ、比屋定篤子、鈴木亜紀、EPOは友人のI女史の誘いで一緒した。この内、ショーロクラブは「上手い!」と思い、鈴木亜紀、EPOは大ファンとなり、鈴木亜紀には恋までしてしまった。いとうたかお、高田渡は私からI女史を誘っており、タテタカコはI女史のお勧めで私一人で行っている。

  I女史が私に教えてくれた音楽家たち、テレビにはあまり出ないので一般的にはさほど有名では無いが、優れた感性を持っていると私は感じ、その多くが私好みとなっている。私好みの音楽をいろいろ紹介してくれているI女史は飲食店の女将さんである。その飲食店の名前は「めぇみち」、店の名前をばらしてしまったら、I女史をIとイニシャルで書いている意味が無くなるが、まあ、取りあえずガジ丸ではイニシャル。
 先々週、I女史からチラシを頂いた。「めぇみち」でライブをやりますというお知らせのチラシ。ライブの演者は純名里紗ボーカル、笹子重治ギター。笹子重治はショーロクラブの人で知っているが、純名里紗は知らない人。料金3500円は私にとって大きな金額なので、「これどう?」とI女史に言われても即答はできなかった。
          

 家に帰ってチラシをよく見ると、「めぇみちライブ」の他に別のチラシがあって、それは桜坂劇場のものであった。同じ純名里紗ボーカル、笹子重治ギターのライブは「めぇみちライブ」の前、21日に桜坂劇場でも行われるとあり、料金は同じく3500円。
  チラシには純名里紗の写真が大きく載っているが、顔に見覚えは無い。「元宝塚歌劇団トップスターで、NHKの朝ドラ『ぴあの』の主役だったと書かれてある。『ぴあの』は私もちょっと観ていた、随分前のドラマだ。が、主役の女優の顔は思い出せない。チラシの写真を見ても一致しない。お父さん役の宇津井健が脳裏に浮かんだだけ。
 それよりも、私の心を動かしたのは「めぇみち」のチラシにある「20名様限定」という文字だ。「めぇみち」は小さな店だ。ぎっしり詰めて20名がやっとだろう。そんな中でライブ、演者がきっと目の前にいて、我が家で一流の音楽家が演奏してくれるような感じになるであろう。そう思ってすぐ「ライブ行く」とI女史にメールした。

 25日、店内の一角にマイクスタンド2台、アンプミキサー1台、スタンド式スピーカー2台、マイクの前に椅子が2脚あって、そこがステージ。客20名の他にI女史、及び店の手伝い3人が加わって店内はぎっしり。私はステージに近い席で、目の前1m程に純名里紗が立った。純名は「マイク要らないかもね」と言って、3曲目からは生唄となり、4曲目からはギターもマイクを外した。想像した通りのホームコンサートとなった。
          

 記:2014.2.27 島乃ガジ丸


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にわか家庭教師

2014年02月27日 | ガジ丸通信-社会・生活

 家土地売却のあれこれ、契約手続きとか、引渡し前に済ませねばならない家の中の片付け掃除、外の片付け掃除、売却金額の管理などがあって、私の本業(と目指している)である畑仕事がおろそかになっていた。「あれこれ」が全て終わって、「さー、畑仕事を頑張るぞ」と思ったら、雨が長く続いてすぐには入れず、その後も雨の日が多くて、収穫時期にあったホウレンソウは、その半数以上を収穫できぬままダメにしてしまった。
  家土地売却のあれこれを除いて、去年からの懸案事項が別に2つあった。友人のFが、貧乏な私を気遣って庭仕事を頼んでいた。2月21日の時点ではそれをまだ終えていなかった。もう一つは家庭教師、大学受験を控えた高校三年生の従妹の娘Sに、去年の年末から「勉強教えてちょうだい?」と頼まれていた。センター試験が既に終わり、2次試験が目の前となった21日の時点で、それもまだ、一度もやっていなかった。
          

 「教えてちょうだい?」と可愛い顔の可愛い声で甘えられたらオジサンは「嫌」とは言えない。嫌とは言えないが大学受験の勉強を教えることができるほどの自信は無い。
 小学校から中学、高校、大学までずっと勉強嫌いだった私だが、数学だけはちょっと面白いと思った。YがあってXがあって、その間にある決まりごとがあればたった一つの明解な答えが出る。すっきり、さっぱり、晴れ渡った空のような明解さ。一つのことが解れば100のことが解るという効率性の良さも怠け者の私に合っていた。
 それに対し、英語やら社会やら単純に覚えなければならないものは大の苦手。同じ理由で国語の漢字書き取りも苦手で、中二の時、100問100点満点のテストで3点しか取れなかったのを覚えている。クラスで最低だったと思う。後日、担任に呼ばれそれを聞かされた母親が、(たぶん怒りを通り越して)悲しい顔をしていたのも覚えている。
 漢字書き取りは苦手だったが、読むのは得意だった。小学校高学年の頃から本をよく読んでいたお陰だと思う。そのせいだと思うが、高校に入っての古文、漢文も、成績が良かったというほどではないが、苦手というほどにはならなかった。

  センター試験では国語も数学もあり、可愛いS嬢は「古文漢文が苦手、何書いてあるのかもさっぱり解らない」というので、ならば、古文漢文を特訓してやろうと思っていた。私も高校の頃は成績が良かったわけでは無い古文漢文だが、大学が日本文学科だったお陰で、多少の知識は身に着いている。試にと、古文の試験問題集を本屋で買って、問題を解いてみると、8割方は正解した。書いてある文章もほぼ理解できた。
 「よっしゃ、これなら家庭教師も務まるぜ」と思ったのだが、前述の通り、家土地売却のあれこれが忙しくなって、結局は一度も教えること無く、センター試験は終わる。
 センター試験が終わって数日後、Sから電話があり、「学校の行事で那覇市民体育館へ行かないといけない、連れてってちょうだい?」と可愛い顔の可愛い声で甘えられ、オジサンは連れて行った。その車の中で、「25日に2次試験がある。勉強教えて?」と頼まれた。2次試験に古文は無い。Sが頼んだのは英語、英語は私の苦手科目だ。
 試験目前の23日、Sの家に行き、にわか家庭教師となり、英語を教えた。苦手な英語の何を?最も多く時間を割いたのは「一緒に考えてあげる」だった。にわか家庭教師はそれで精一杯。そうそう、「どう転んでも私は幸せ」という楽観的思考も教えた。
          

 記:2014.2.28 島乃ガジ丸


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酒造りの野望その2

2014年02月27日 | ガジ丸の日常

 去年12月に仕込んだ日本酒は正月で大方飲み干した。味はまあまあいけていると思ったが不満は残った。35年程前、東京に住んでいる時に作ったものに比べると、香りと甘さが全然少なかったからだ。アパートのドアを開けると醸造の甘い香りが漂って、それだけでもう酔ってしまいそうな、幸せな気分になれたのに、今回はそれが無かった。
  沖縄の水は硬水である。東京の水は軟水である。その違いかもしれないと判断し、ならば、軟水を使ってもう一遍挑戦してみようと、1月11日に仕込んだ。米は前と一緒、米麹も前と同じ市販のもの。水を市販のペットボトル入り倭国産水に代えた。
 米と米麹と水を混ぜたものは仕込んで7日くらい経つと発酵し始め、モロミとなる。発酵しているかどうかはモロミが泡立っていることで判る。仕込んで9日目、容器の蓋を開けて見ると、泡立ち具合は前回と同程度で、香りも前回と同じく、ほとんど無い。「こんなもんだったかなぁ?」と、35年前の部屋の匂いを思い出しつつ「またダメかなぁ」と望みを失くしかけていたのだが、それから3~4日後に変化が訪れた。

  仕込んで12日目頃からモロミの泡立ちが前回のそれよりずっと盛んになった。グツグツと音も立てていた。前回はアルコール臭が強かったのだが、今回はそこに甘さが加わった。東京で造った時に近い甘い匂いだ。アルコール度数も十分あるはず、もう立派などぶろくの出来上がりだ。「これなら味もいけるかも」と期待が膨らんだ。
 仕込んで14日目の1月25日、どぶろくのまま飲むのは口当たりが悪い、というか、飲み物というより食べ物(お粥)に近いので「酒を飲む」という感じがしない。で、どぶろくを布で濾した。初めはその重さで自然に垂れ落ちるままにし、ごく薄い濁り酒とし、その後、その布を絞って、しごいて、とろっとした濃い濁り酒を造った。
  「自然に垂れ落ちるまま」は時間がかかる。モロミを濾す布袋が小さいこともあり、丸一日かかって濾せた量は2合程度、その後、布袋を手でしごいて同じく2合程度の濃い濁り酒ができた。26日の夜、試飲。前回よりはずっと良い。が、物足りない。どぶろく、濃い濁り酒、ごく薄い濁り酒のどれも香りが少ない、甘味も足りない。
 「仕込んで12日目頃からモロミの泡立ちが・・・盛んになった」と書いたが、泡立ちが盛んということは、そこからガスが盛んに発生しているということになる。そのガスは酒の匂い、甘い匂いだ。その頃から部屋のドアを開けると「酔ってしまいそうな、幸せな気分」になれた。でもまだ、東京で造ったものに比べるとそれも物足りない。

 布袋でモロミを濾して、絞る作業を数日かけて4回ほど繰り返した。布袋に残った酒粕は粕漬けに使おうと思い、1回目のものは平たいタッパーに入れておいた。翌朝そのタッパーの蓋が取れていたので、「何で?」と見ると、酒粕は盛んに泡を出し発酵していた。ガスが溜まって蓋が取れたようだ。「もしかしたら」と思って、1回目から2回目までの酒粕を広口瓶に移し、水を加え軽く蓋をし、しばらく置いておくと期待通りとなった。それはモロミの発酵をし、盛んに泡立ち、ほんのり甘い匂いのガスを出した。
  絞った酒粕から再度酒ができるとなれば、酒造りの材料代が安くなる。安く旨い酒が出来るとなれば、自給自足芋生活を目指す私にとってはとても良い話。「貧乏だけど旨い酒が飲める余生だぜ」と半ば有頂天になって、幸せの広口瓶を流しの下に保管した。
 その日(27日)の夜中、ポンっという大きな音で目が覚めた。寝ぼけた頭で「何事だ!」と考えながら起きた。部屋は見た目に変わりは無かったが、甘い匂いが漂っていた。で、予測がついた。「流し台の下の酒だな、たぶん」と、そこを開けた。

 流し台の下は悲惨な状況になっていた。どれだけ悲惨だったか写真を撮れば良かったのだが、その時には写真を撮るなんて思い付く余裕もなかった。中央の最も手前に幸せの広口瓶を置いてあったが、それの蓋は離れたところに落ちていて、その周りはどぶろくだらけとなっていた。どぶろくは広口瓶の周りだけでなく四方八方に飛び散っていた。流し台の下にはタッパー類、缶詰類、インスタント食品(カップ面など)、粉類(小麦粉など)を保管していたが、それらの多くにもどぶろくは降りかかっていた。
 夜中の掃除となった。だいたいで済ませたのだが、それでも30分はかかった。目が覚めてしまった。ハーっと溜息をつき、しばしボーっとする。
 気を取り直して冷蔵庫を開け、既に絞って瓶に詰めてあった自作日本酒をぐい呑みに半分ほど注ぐ。飲む。フーっと息を吐く。「旨ぇじゃねぇか」と自酒自賛。
     
     
     
     
     

  酒を絞った後の酒粕に再度水を加えたものが、軽く締めておいた蓋を吹き飛ばすほど発酵しているのだ。これも十分なアルコールを含んだ酒になることは間違いない。辺りには醸造の甘い匂いが立ち込めている。「不味いということもなかろう」と思う。そう思うと何だか愉快になってきた。ぐい呑みの酒を飲み干し、おかわりをする。今度はなみなみと注ぐ。煙草に火を点ける。独り暮らしのオッサン(私)は自由気ままだ。いつでも遠慮なく屁をこき、鼻を穿る。どんな表情をしているのかも全く気にしない。その時の私はたぶん、ニヤニヤと気持ち悪い笑いを浮かべていたに違いない。
 酒造りの参考書『ドブロクをつくろう』には日本酒の他、ワインの造り方、焼酎の造り方なども載っている。「よっしゃ!いつかワインも造ってやるぞ、芋焼酎も米焼酎も黒糖焼酎も造ってやるぞ!」と決意を新たにしたのであった。

 記:2014.1.11 島乃ガジ丸 →ガジ丸の生活目次


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幸せは何処にでも

2014年02月21日 | ガジ丸の日常

 大学の何年生だったか覚えていないが、ある年、帰省すると、「家を建て替えることにした。」と両親が言った。私は反対した。無駄なことだと思ったのだ。

 「今の家で十分住めるだろう?」
 「雨漏りがする、修理しても直らないから建て替えた方が良いのだ。」
 じつは、当時の実家の私の部屋は、家の玄関を通らずに外へ出入りできる別のドアがあって、私は両親や祖母に知られることなくいつでも自由に外へ出られたし、いつでも自由に友人たちを部屋に入れることができた。私にとっては住み心地の良い家であった。それともう一つ、私はどちらかというと森や林のある環境が好きであった。なので、
 「建て替えるよりここを売って、ちょっと田舎、母さんの郷である南風原に畑もできるような広さの土地を買って、そこに家を建てた方が良いよ。」と意見を述べた。が、
 「那覇から田舎へ行くのは落ちぶれた者みたいでダメだ。」と却下された。
     

 次に帰省した時には、両親はおおよそ出来上がっている新築建物のプランを話してくれた。建物は敷地一杯の大きさにし、下駄履きで1階は全面駐車場。2階にキッチン、ダイニング、リビングなどがあり、3階はそれぞれの寝室となっていた。当時の家には小さいながらも庭があった。新築のプランには庭がまったく無い。それと、寝室のある3階へ上がるには内階段しかない。つまり、両親に知られることなく自由に出入りできない。

 「この計画、俺は好きじゃない。」と言うと、
 「じゃあ、あんたの意見を聞かせてよ。」と母が応えたので、
 「小さくてもいいから庭はあった方が良い、それと、3階はアパート型式にして、俺と弟がそれぞれ住めるようにした方が良い。」と意見を述べた。
 次に帰省した時にはもう新築建物が建築中であった。両親と祖母は近くで借家住まいしていた。その借家は平屋の瓦葺で庭があり、門から建物までの間に大きな木(ガジュマルだったかも)があって、「いかにも沖縄」という雰囲気。「こんな家がいいなぁ」と思いつつ、新築建物の設計図を見た。前回の私の意見はまったく無視されていた。
     

 私は大学卒業後、沖縄に帰って実家に住むようになった。それから4~5年後に父が定年退職となった。父はその数年前に脳梗塞(または脳溢血)で倒れ、以来、右半身に麻痺が残っていた。その体で、毎日が日曜日となった父は屋上にたくさんの鉢物やプランターを並べ、果樹を育てたり、野菜を作ったりしていた。
     
 「農業やりたいの?」
 「あー、もっと広いところでやりたいなぁ。」
 「俺が農業やりたいと言ったら反対したじゃないか。」
 「趣味としてならいいんだよ。」
 「なら、この家土地を売って、南風原に広い土地を買えばいいじゃないか。」
 当時はバブルの頃、実家は那覇市の住宅地としては一等地にあり、坪単価は現在の約3倍、160万円以上はあった。まだ新しい建物も含めれば1億円を超える。田舎なら広い土地が買えて、家も建てられる額になる。その計算も私には働いていた。
 「それはダメだ、田舎には落ちたくない。それに、母さんが反対する。」

     
 母は確かにこの土地から離れたくないと思っている、というのは私も感じていた。母の郷は那覇市の東隣にある南風原町、字(あざ)の中でも商店やムラヤー(公民館)の並ぶ通りに面した賑やかな場所に母の実家はあるが、そこから少し行くと畑が広がり、森と呼べる大木の鬱蒼と茂った原野もあり、那覇から見ればずっと田舎であった。
 「田舎は嫌」と母が思っていたのかどうかは知らないが、「街中は好き」ではあったと思う。母はよく動く人で、ボーっとしていることはほとんど無かった。その腹から生まれた私がボーっとばかりしている子供なのが不思議なくらいである。私のボーっとばかりしている性質は、大人になってからもそのまま続き、今でもそうである。

     
 母の活動は、免許資格を得ることから始まる。若い頃に運転免許を得ている。沖縄の女性としては早い方だと思う。もしかしたら「もっとも早い時期に運転免許を得た沖縄女性トップ10」に入るかもしれない。今度、公安へ行って調べてみよう。
 話が逸れた。母の免許資格は、洋裁和裁、着付け、お茶(煎茶)、生花、書道、詩吟に及ぶ。洋裁和裁、着付けは仕事(つまりプロ)となり、書道、詩吟は師範にまでなっている。生半可では無く、身を入れてやっていたということだ。
 母の活動はそれだけでは無い。地域のボランティアに参加し、民生委員になり、地域の子供たちの安全を守る活動や、独居老人を訪ねる活動などもやっている。

     
 「生きているということは何かをやるということ」と母は思っていたのかもしれない。若い頃にある宗教団体に属し、それは死ぬまで、おそらく50年以上続いた。母の部屋には聖書があり、仏典もいくつかあった。般若心経の母の手による写経もあった。信心深い人だったのだ。なので、「努力を惜しまず、我が身を高める」とか、「他人のために身を尽くす」という想いを持っていたのだろう。ボーっとしている暇は無いのだ。
 そんな母なので、田舎に引っ込んでのんびり過ごすなんてことは考えられなかったのかもしれない。都会にいて、多くの団体と関わり、多くの催し物に参加し、多くの付き合いをすることが母の幸せだったのかもしれない。「いつも何かをやっている、一所懸命やっている」充実した人生だったと思う。走り続ける幸せがそこにはある。
 田舎暮らしは母が反対、ということで父も納得なのであった。「母さんがそう言っているからそうしよう」というのが、母に対する父の愛情だったのであろう。田舎暮らしは母が反対、ということで私も観念し、バブルの頃に「家土地を売って、田舎に広い土地を買って・・・」と提言したが、それ以降はもう両親と一緒の田舎暮らしは諦めた。

 父が76歳の年、母が死んだ。右半身が不自由な父なので一人暮らしは大変であろうと思ったが、都会の真ん中の実家に住むことは私にとって精神衛生上よろしくないので、ある提案をした。首里のまだ緑の多く残る場所に従姉の家がある。家は相当古くて「建て替えしたいが金が無い」と従姉が言っていた。そこで、実家を売って、その金で従姉の土地にアパート型式の家を建てて、1階に父が住み、介護の経験豊富な従姉が2階の1室に住み、もう1室には私が住むという計画を、設計図まで書いて父に提案した。
     
 その設計図、以前に紹介したかもしれないが改めて説明すると、2階はアパートになっていて2DKベランダ付きの部屋が2室、1階はその分の広さがあって、父の部屋以外に客間も2間設けている。駐車場は2台停められ、別途、道路から玄関までのアプローチは車が通れる幅があり、玄関前に車を停めることができる。介護車用である。もちろん門から建物1階内部はトイレ浴室も含め全てバリアフリー。父が車椅子生活になっても困らないようにだ。車椅子で一人で外に出て、車椅子での散歩もできるわけだ。庭は10坪ほどあり、果樹も含め緑を茂らす。その一角に5坪ほどの畑もある。畑で作物を育て、木々の緑にやってくる鳥、花に集まる蝶などとユンタク(おしゃべり)もできるわけだ。


 その計画に最初父は肯いてくれたが、結局は却下となった。娘(私の姉)に反対されたのだ。娘は都会が好きみたいであった。父のことを想って姉が反対したとは、私は思えない。人付き合いの少ない父だ、都会にある実家ではほとんど外に出なかった父だ。畑の土をいじり、作物を育て、収穫を喜び、収穫を息子や姪たちに分けて喜ばれることを喜び、鳥や虫たちとユンタクすることが父の幸せであっただろうと私は思う。
 幸せは何処にでもある。何処にいてもそれなりの幸せを感じることができるだろう。だけれども、その人の好む環境にその人がいればもっと大きな幸せとなるだろう。
 都会暮らしを好んだ母はその環境にいて幸せだったに違いない。田舎暮らしが好きだったと思われる父だが、母が生きている間の父にとっては、田舎暮らしよりも母のいる環境が最も大きな幸せを感じる場所だったのだと思う。
     
 父と母は二人で、またはツアーでよく旅行した。父のパスポートを見ると台湾へ4度、アメリカへ1度行っている。国内旅行にも何度か行っている。それを考慮すれば、まあまあの夫婦仲だったと思われる。ではあるが、「おしどり夫婦」とまでは言えない。お互いに不満はあったようで、たまには喧嘩もしていた。

 あの世へ行って、自由になって、互いに遠慮するようなことも無くなっているとしたら、・・・今頃あの世で2人、
 「今日もまた出かけるのか?どこへ?何時に帰ってくるんだ?」
 「今日は友達とカラオケ、帰りは遅くなるよ。」
 「毎日毎日出かけて行って、たまには家にいろよ。」
 「煩いわねぇ、私はそれが好きなのよ、ボーっとするのが好きなあんたは田舎に引っ込んでいた方がいいと思うよ。そうすれば?」
 「えーっ、お前、俺と別れるつもりか!」
 などと、喧嘩していないだろうか。仏になってまでも夫婦喧嘩するのかな?
     

 記:2014.2.9 島乃ガジ丸 →ガジ丸の生活目次


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金で金を稼ぐ

2014年02月21日 | ガジ丸通信-社会・生活

 ひょんなことから知合った平和運動家Hさんから先週月曜日、「来沖するケネディー大使に手紙を書いた、領事館へ持って行くつもりだ、パソコンで清書してくれないか」と頼まれた。ちょうど私はブログ記事『イルカより劣る人間』書き終えたところだったので、Hさんはどんなことを書いているのか興味を持って、その依頼を快諾した。
  『はいさい キャロライン・ケネディたい。』というタイトルの手紙は、原稿用紙3枚分くらいの長さで、沖縄の基地負担の重圧を訴え、私と同じくイルカに触れつつ辺野古の豊かな海を守ることを訴え、沖縄の、平和を愛する者の素朴な心情が綴られたもの。
 その中で一つ、「この表現はよろしくない」と私が意見した箇所がある。「あなたはまだ若いのにお顔を見れば、しわがれ「おばあ」に見えますが、・・・」という一文。その後に続く文章を読めば、その真意が「経験を積んで、社会、人情などに深い思慮を持っているような顔」と言いたいのだということが解るが、いやいや、それでも、50代後半とはいえ、女性に対してその表現はいかがなものかと私は思ったのだ。
 しかし、手紙はそのまま出された。女性に対し細かく気を使わないHさん、それでも結婚できており、離婚した後、今は他の女性と同棲中。まあまあモテるのである。
          

 その翌々日水曜日、不動産売却金の管理についての相談で取引銀行へ行った。私の担当者は若い美女のYさん。銀行へ着いたのは11時頃、2、3分も待たずにYさんはやってきて、「テーブル席で話しましょう」と言い、彼女が指差した方向にある衝立の向こうに案内された。そこで2時頃までの約3時間、彼女と二人っきりで話。
  「畑やってるんですよね、いいですね、見てみたいです」とか、「自分で登記や不動産売買手続やるなんて、すごく頭良いんですね」とか、目をキラキラさせて大いに褒め、私を気持ち良くさせてくれる。そうしながら資産運用、投資の説明をした。
 「大事なのは金では無く物、金は道具に過ぎない」という考えの私なので、金で金を稼ぐような投資に興味は無く、お金は定期預金へと思っていたのだが、Y嬢がじっと私の目を見つめ、熱心に説明するのを聞いていたら、「こんな可愛い娘が一所懸命勧めてくれるんだ、投資してもいいかな」と、「金で金を稼ぐなんて」を忘れつつあった。
 投資するかどうか決定するのは明後日(金曜日)ということにして、その日は帰る。そして、約束の金曜日、いろいろ考えて、「投資はやはり人の生き方としては邪道だ、止めよう、やっても少しだけにしよう」と心に決めつつ、銀行へ。すぐに応接室に通され、お茶も出され、その日も3時間、応接室で概ねY嬢と二人っきりで話をする。
  前回もそうだったが、熱心な彼女は仕事の話だけでなく、目をキラキラ輝かせて、互いのプライベートまで会話を弾ませてくれた。私は思わず抱きしめてやりたくなった。もちろんそうはせず、その代わり、彼女が勧める投資商品に100万円の契約してしまった。鼻の下を伸ばしてオジサンは、美女の言いなりになったというわけである。
          

 若い美女が、オジサンに気を使ってあれこれお世辞を言い、長い時間話を合わせ、オジサンを気持ち良くさせてくれた。それに対し私は「彼女の評価が上がれば良いな」と気を使って契約した。それはもう、まったく、若い美女に対する私の優しさである。であったが、彼女から義理チョコ一つ貰えなかった。私はまあまあモテないのである。
          

 記:2014.2.21 島乃ガジ丸


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