ガジ丸が想う沖縄

沖縄の動物、植物、あれこれを紹介します。

慰霊の日の食事

2014年06月27日 | ガジ丸通信-沖縄関連

 6月23日は慰霊の日であった。子供の頃、慰霊の日の正午から1分間の黙祷を戦争で亡くなった人々に捧げた。慰霊の日に黙祷を捧げるのはずっと続いていると思うが、大人になってからの私は怠けている。今回も怠けた。怠けて写真を撮っていた。
  慰霊の日には糸満市摩文仁にある平和祈念公園で沖縄全戦没者追悼式が行われる。沖縄戦で亡くなった全ての人を慰霊する行事である。それにも私は参加したことが無かった。であったが、従姉のK子に誘われて今年は参加すべく出かけた。
 「姪のSも行くからイオン南風原で待ち合わせて車1台で行こう」となる。待ち合わせ時間は午前10時15分。イオン南風原は私の畑ナッピバルから車で10分ほどの所、朝の内、畑仕事でひと汗流し、一服して、のんびり出かけ、10時前には着く。
 イオン南風原は大きなショッピングセンターで有名だが、畑からは近いが家からだと20分はかかるので、私は滅多に行かない。今年が開店10周年らしいが、店内に入ったのはこれまで2、3度しかない。約束の時間まで15分あるので、店内を歩いた。

  朝から客は多くいた。月曜日なのに小中学生の姿も目立ったので一瞬不思議に思った。が、すぐに気付く。「そうだ、慰霊の日は学校も休みだった。」と。
 今(2014年)から69年前の6月23日は、沖縄戦における組織的戦闘が終了した日。その日は私が子供の頃から学校は休みだった。「今でもそうなんだ、そうだよな、特別な日ということを感じて貰って、平和を愛する心を育てるべきだよな」と、店内で平和を謳歌している人々(もちろん私も含め)を眺めながら思った。

  S女が遅れて、イオン南風原を出たのは10時半を過ぎていた。車を走らせてすぐに、K子が「おにぎり買ったから食べよう」と言う。10時のおやつのつもりか知らないが、「余分に食わない」をモットーとしている私はもちろん断る。2人はおにぎりを食べた後、お菓子も食べた。私も勧められたが、それももちろん断る。その後は飴玉、これは頂いた。それにしてもよく食う。食べるのが当たり前になっているのだろう。Sは小太りといった程度だが、K子は大太り、それで「痩せたい」は無いだろうと私は思う。
 「慰霊の日とは関係無いでしょ!いらんこと書いて」とK子に怒られそうだが、「食べるのが当たり前で食べない私は変人、ということは無い」ということを私は言いたいのである。その日動くエネルギーは朝飯で十分採っている、おやつは余分なのだ。
 ちなみに、摩文仁(遅ればせながら、マブニと読む)を出た後、S女の運転でイオン南風原とは逆の方向にあるレストランへ行った。しかも、小食の私には合わない食べ放題の店。K子の要望であった。「えー、また食うのかよー、しかもこんな遠くまで、時間の無駄、食料の無駄、胃袋も無駄働きだぜ」と私は思ったが、もちろん口にはしない。K子の奢りなので有難く頂いた。食べた量はK子の半分ほどだったが、「カメーカメー(食べなさい、食べなさい)」とK子に攻撃されて、アイスクリームまで食べてしまった。

 慰霊の日の話がアイスクリームになってしまったが、69年前、飢えに苦しんでいた人々のことを想えば、飽食は慎みたいと私は思う。そうだ閃いた、6月23日は黙祷を捧げるだけでなく、皆が粗食にしたらどうだろう?霊を慰めるに良い案だと思うが。
          
          
          

 記:2014.6.27 島乃ガジ丸


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バナナツヤオサゾウムシ

2014年06月27日 | 沖縄の動物:昆虫-甲虫目

 色黒もいます

 私の畑ナッピバルは西は道路、北隣はウージ(さとうきび)畑、南隣はキャベツ畑になっていて、東隣の半分は原野で残りはバナナ畑である。バナナ畑といっても、もう何年も前から放置されており、バナナが自生している原野みたいな景色となっている。
  隣のバナナはナッピバルとの境界まで生えており、ナッピバル内に果実の房が垂れていれば採って食べている。そのバナナは料理バナナという種で、青いうちに火を通して食べるのに適している種、私の感覚ではジャガイモに近い。熟すれば普通の果物バナナとしても食える。スーパーで売られている果物バナナに比べると甘味も酸味も少ない。

 ナッピバルにもバナナはある。前にここを使っていた友人Kが植えたもの、島バナナという種で、とても美味しい果物バナナ。その バナナは東側境界の北端にまとまって植えられていた。その約半分を他所に移して、今は5~6本だけとなっている。
 バナナを他所に移す前、まだ10数本が立っていた頃、具体的に言うと、2012年の9月、ナッピバルを始めて一ヶ月が過ぎた頃、バナナの根元付近に置いてあったバケツの縁に「いかにもゾウムシ」と見える虫がいるのを見つけた。「いかにも」は、その鼻(口吻)が長かったからだが、写真を撮って調べても、図鑑に似たような者はいなかった。
 ゾウムシだと決めつけて、図鑑もゾウムシ の写真ばかり見ていた。「ゾウムシじゃないかも」と思って甲虫類全体を見たが、それでもいない。で、捜索は諦めた。

 一ヶ所にあった島バナナの約半分を移植したのは2012年の11月。今年(2014年)6月13日、そこのバナナの近くに置いてあったプラ鉢の縁に「いかにもゾウムシ」と見える虫がいるのを見つけた。写真を撮って調べると、それはバナナツヤオサゾウムシという種であることがすぐに判明した。図鑑にほぼ同じ写真があったのだ。
 5日後の18日には東側境界の北端に残っ ているバナナの近くで「いかにもゾウムシ」と見える虫がいるのを見つけた。色は違うが、形はバナナツヤオサゾウムシにそっくり。バナナツヤオサゾウムシは赤褐色だが、そのゾウムシはほとんど黒色。で、図鑑の説明文を読んだ。「地色は赤褐色から黒色まで変化がある」とあった。「これもバナナツヤオサゾウムシってわけだ」となり、我が捜索能力に大いに満足したのであった。
 満足して、そして、天才的閃きが珍しく私の脳に起こった。「まてよ、バナナに付くゾウムシなら、前にもバナナの近くで見つけたのがあったな、大きさも形も同じようなものだったぞ」と、パソコンの中の、不明写真フォルダの中の、甲虫フォルダを開いた。

 
 バナナツヤオサゾウムシ(甘蕉艶長象虫):甲虫目の昆虫
 オサゾウムシ科 沖縄島、宮古諸島、八重山諸島、他に分布 方言名:不詳
 名前の由来については、「寄主はバナナ」ということからバナナ、体に光沢があるのでツヤ(艶)、ゾウムシは広辞苑に「象の鼻状に長く突き出した口吻をもち」とある。オサについては資料が無く不明。本種はオサゾウムシ科で、おそらく、ゾウムシ科のゾウムシに比べ、全体が細長いのでオサ(長)と付いたのではないかと思われる。
 成虫も幼虫もバナナに付き、茎や葉柄を加害して枯らせてしまうこともあるとのこと。私のバナナの茎に穴を空けている。バナナには他にバショウオサゾウムシとバショウコクゾウムシなどの害虫がいるとのことだが、それらはまだ見ていない。
 体長12ミリ内外、出現は周年。地色は赤褐色から黒色まで変化があるとのことで、私の畑で見たものにも色の濃さに違いがあった。比較的薄い地色のものでは本種の模様の特徴である前胸背に2筋の黒い縦線が走っているのがはっきりしている。
 
 横から
 
 やや黒っぽい個体
 
 さらに黒っぽい個体

 記:2014.6.24 ガジ丸 →沖縄の動物目次

 参考文献
 『ふる里の動物たち』(株)新報出版企画・編集、発行
 『沖縄大百科事典』沖縄大百科事典刊行事務局編集、沖縄タイムス社発行
 『沖縄昆虫野外観察図鑑』東清二編著、(有)沖縄出版発行
 『沖縄身近な生き物たち』知念盛俊著、沖縄時事出版発行
 『名前といわれ昆虫図鑑』偕成社発行
 『いちむし』アクアコーラル企画発行
 『学研生物図鑑』本間三郎編、株式会社学習研究社発行


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摩文仁の丘

2014年06月27日 | 沖縄02歴史文化・戦跡

 今週月曜日(23日)、従姉のK子に誘われて糸満市摩文仁へ出かけた。6月23日は慰霊の日、69年前のその日、沖縄戦における組織的戦闘が終了した日。その日、摩文仁の丘にある平和記念公園で沖縄全戦没者追悼式があり、それに参加した。
  倭国に住んでいる親戚友人たちが沖縄に来た時など、彼らを案内して私は摩文仁(マブニと読む)へ何度も行っている。が、沖縄全戦没者追悼式には初参加。一度は行ってみたいと思っていたので、その日は晴れて畑日和だったのに、畑を放って出かけた。県内外からたくさんの人が訪れていた。私も沖縄戦を改めて考える良い機会となった。

 平和記念公園に最初に行った年月日はいつだったか覚えていないが、ずっと若い頃だ、公園が開園(1978年)して間もない頃だったと思う。既に私は運転免許を取得しており、ドライブがてらだったと思う。一緒に行った人はよく覚えている。当時、デート相手だったM女、「何で掴まえておかなかったんだ」と今でも後悔している唯一の女。
  初めて彼女と行った日、平和資料館を覗いて、そこの壁に飾られていたピエロらしきものを描いた油絵に魅入ったことを、彼女の顔と共によく覚えている。今の平和資料館は当時のものとは違っている。だいぶ大きく、立派な建物になっている。今回は資料館へ入らなかったが、何年か前に入った時、ピエロらしきものを描いた油絵を探したが無かった。良い絵だと私は感じたのだが、一般的には評価されなかったのかもしれない。

 最初に行った時かどうかは覚えていないが、・・・いや、今調べた。ずっと後になってからだ。平和記念公園には平和の礎(イシジと読む)なる構造物がある。沖縄戦で亡くなった人たちの名前を刻んだ墓碑銘だ。建てられたのは1995年というので、公園の開園から17年後のこと。私はおそらく、建てられて間もない頃に見に行っている。敵も味方も全てが戦争の犠牲者であるという平和の礎の理念に感動したことを覚えている。
  平和の礎には戦争の犠牲となった沖縄人はもちろん、全国各地から来て沖縄戦で死んだ日本の兵隊も、日本軍の一員として強制的に連れてこられ死んでいった韓国人も北朝鮮人も台湾人も、そして、敵として戦ったアメリカ人やイギリス人たちの戦没者も、その名前が刻まれていて、全てが戦争の犠牲者として慰霊されている。

 糸満市摩文仁近辺は沖縄戦の最後の激戦地であった。近くには有名なひめゆりの塔があり、学徒兵を慰霊する健児の塔がある。摩文仁は多くの沖縄の民間人が自決した場所でもある。そして、沖縄にいる日本軍の最高司令官牛島中将が自決した場所であり、その自決によって沖縄戦の組織的戦闘が終わったとされている。ということで、平和を希求する沖縄人の心を示すため、ここに平和記念資料館を置き、辺りを公園にしたのであろう。
  敗走して、海端まで追いつめられて、多くの人が「もはやこれまで」と摩文仁の崖から海に飛び降り自殺したらしい。生前の父から聞いた話、私の祖父も家族を連れて南風原の家から爆撃の中を逃れて摩文仁へ辿り着いた。妻(後妻で、血縁としてはK子の祖母)、息子(私の父)、娘たち(私の伯母たち)と崖から飛び降りることにしたらしいが、その直前になって「帯を忘れた、武士たるもの帯を締めずに屍を晒すのは恥」と祖父が言い、帯を取りに家に戻ったらしい。その途中で捕虜となり、命拾いしたという話だ。

  6月23日、一緒に摩文仁へ行った従姉のK子、彼女の姪にあたるS女の2人を沖縄全戦没者追悼式が行われていた会場近くに残して、私は公園内の散策に出た。「沖縄全戦没者追悼式があり、それに参加した」と上述したが、式典そのものには、私は参加していない。多くの来場者同様、戦没者を追悼する心は持っていたが、かつて酷い目にあった沖縄に新たな基地を建設しようとする日本国総理大臣や、それを許した沖縄県知事の挨拶など聞きたくなかったので場を離れた。ただ、平和の礎には手を合わせた。
 摩文仁の丘には多くの都道府県の慰霊の塔も建てられている。会場を離れ、丘に登ってその数ヶ所を見ながらのんびり歩いた。覗いた塔の前には全て献花があった。一つの塔では、数人が弁当を食べていた。「他府県からも参加者が多くいるんだな」と判った。

  空は晴れて強い日が差していた。日向を歩くと暑かった。でも、風が優しく吹いていたので木陰に入ると涼しかった。歩いて汗をかきつつ、木陰でひと休みしつつしながら、岸壁の崖っぷち(といっても、柵があったので危険では無い)に立った。
 崖の上から太平洋を眺めた。海はきれいだった。波は穏やかだった。「ここから飛び降りるのか」と思って下方を見た。「飛べないこともないな」と思った。「生きていることが死ぬより辛くなったら、5回転5回ひねり位しながら飛んでやるか」とも思った。そして、「生きていることが死ぬより辛くなる」ことが起こらないよう祈った。

    
     
     
     
     
     

 記:2014.6.24 ガジ丸 →沖縄の生活目次

 参考文献
 『沖縄大百科事典』沖縄大百科事典刊行事務局編集、沖縄タイムス社発行


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沖縄全戦没者追悼式

2014年06月27日 | 沖縄04行事祭り・生活風習・言葉

 今週月曜日(23日)、従姉のK子から「摩文仁の平和記念公園で行われる沖縄全戦没者追悼式に参加するけど、あんたも行かない?」と誘われ、一緒に行くことになり、「姪のSも行くからイオン南風原で待ち合わせて車1台で行こう。待ち合わせ時間は午前10時15分。」となった。イオン南風原は私の畑ナッピバルから車で10分ほどの所、朝、畑仕事でひと汗流し、一服して、のんびり出かけ、10時前には着く。
  S女が遅れて、イオン南風原を出たのは10時半を過ぎていた。摩文仁へ向かう道が混んでいて、現場に着いたのは12時前となった。式典の開始は11時50分、それには間に合ったが、既に多くの人が式典会場入口に並んでいる。K子とS女はその列に並んだが、私はきっぱり諦めて、近辺の散策。しばらくして、K子から電話があり、礎を先に回ると言う。来賓挨拶が多くて長くて待っていられないとのことであった。

 K子と私は血の繋がりは無い。S女はK子とも私とも血の繋がりは無い。戦争で夫を亡くした妻、妻を亡くした夫が多くいて、亡くしたもの同士が結婚して血の繋がりの無い兄弟姉妹、従兄妹、甥姪などがたくさんできたということ。
  K子の母親(故人)は、夫、義理の母、6人の子供たち全てを戦争で失っている。K子とその姉のE子は戦後、母親が再婚してからの子供だ。Sはまた、K子の母親が戦後に養女としたT姉さんの娘である。それでも彼らはとても仲が良い。お互いを信頼している。血の繋がりよりも深い絆で繋がっていることが、傍目で見て感じられる。

 K子にとっては大好きだった母親の血を分けた兄姉たち、S女にとっては血は繋がっていないが大好きだった祖母の家族、彼らの名が刻まれた平和の礎の前に花とお茶を供え、手を合わせることはけして義理のみでは無く、心からの感謝なのであろう。
  「本当は式典の行われている場所に供えたいんだけどね」とK子が言う。式典の行われている場所はお偉方(県知事、日本国総理、ケネディー駐日大使など)も参列し、彼らの長い挨拶があり、一般の人も多くいて、祭壇前へ行くまでに相当の時間がかかりそうだったので、そこは後回しにして礎(イシジと読む)を先にしたわけだ。
 「何で本当は向こうなの?」と訊いた。
 「あそこに骨が埋葬されているのよ」とのこと。戦争犠牲者の骨は、それが個人のまとまったものの場合は個人として埋葬されるが、細かく砕けて多くの人の骨と混ざり合っているものは個別に分けるのが困難なので一ヶ所にまとめられているらしい。
     
     
     

  「誰のものか特定できない骨がたくさん混ざり合っているのか」と、それだけで戦争の悲惨さを感じた。それなのに、その沖縄に新たな軍事基地を作ることに熱心な総理大臣が挨拶し、それを許した県知事が挨拶する。「何か、腹立つなぁ」と思う。
 「偉い連中の挨拶も済んで、一般の人たちが手を合わせる時間が来るまで待つさ」というK子とS女を残して、私は公園内を散策することにした。お偉方がいるため、場内には黒服の、目つきの悪い男たちがたくさん、あちらこちらに散らばって立っていた。
 各都道府県の石碑が立ち並ぶ摩文仁の丘(高台)に登ると式典会場全体が見渡せた。私の見ている場所から言って会場の手前側に黒い車が20台ほど停まっている。お偉方とその警護の車だ。1時頃、それらの車が順次出ていった。「やっと白々しい挨拶が終わって、一般市民の心からの祈りの時間だな」と、私もやっと平和な気分になる。
  お偉方が掃けて15分も過ぎた頃、神奈川の塔の前で黒服の男2人に出会った。木陰でタバコでも吸っていたのだろう。その2人の胸にはSPのバッジがあった。「お偉方が帰った後も残っているんですか?」と1人に訊いた。男は迷惑そうな顔をして、「時間によります」と答え、急ぎ足で丘を下りて行った。まあ、警護について詳しくは言えないし、一般市民と親しく口をきくことも無いのだろう、「SPは隠れてタバコを吸わないといけないの?」と軽い話をしたかっただけなんだが、訊いた私がバカだった。
     
     

  私は摩文仁の平和記念公園へは何度も行っている。倭国に住む親戚友人たちを案内したり、デート場所にしたこともある。であるが、6月23日慰霊の日に来たのは初めて。沖縄全戦没者追悼式も初めて見た。沖縄戦を改めて考える良い機会になった。
 摩文仁は沖縄戦最後の激戦地だった。公園内には平和の礎というモニュメントが多く並び、そこには沖縄戦の戦没者の名前が刻まれている。沖縄人はもちろん、沖縄戦で死んだ日本の兵隊も強制的に連れてこられた韓国人も、そして、敵として戦ったアメリカ人の戦没者も慰霊する場所となっている。沖縄の歴史にとってはとても大事な場所。
 「そうだ、大事な場所だと思っているのに、ガジ丸は平和記念公園も摩文仁の丘についてもまだ紹介していないなぁ」と気付いたので、別項とした。
     

 記:2014.6.24 ガジ丸 →沖縄の生活目次

 参考文献
 『沖縄大百科事典』沖縄大百科事典刊行事務局編集、沖縄タイムス社発行


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協力して生きる社会

2014年06月20日 | ガジ丸通信-音楽・映画

 沖縄にはユイマールという言葉がある。ユイは結、マールは周り、労働力の相互扶助といった一つの慣習だが、その精神は現在でもまだ少しは残っていると思う。
 結を広辞苑で引くと、その第三義に「田植などの時に互いに力を貸し合うこと」とあるので「労働力の相互扶助」は日本の伝統でもあるようだ。
 「ユイユイユイ、ユイユイユイ、ユイマール・・・」と美少女達が歌うヒット曲(民謡なのでたぶん沖縄限定)もあるが、ユイマールについてはいつか別項で述べるとして、社会は助け合うことが必要である、少なくとも貧しかった昔の沖縄では、ユイマールが「人々が生きていく上で必要なもの」であったのだろうと想像できる。

  4月の始め、埼玉の友人Kから桜坂劇場の招待券が送られてきた。有効期限は4月20日なので余裕はある。観たい映画もある。ありがたく頂戴した。そして有効期限の切れる2日前の4月18日、晴れていて畑日和ではあったが、Kの厚意を無駄にせぬよう畑を休んで映画鑑賞とした。観た映画は良い映画と噂の『ペコロスの母に会いに行く』。
 映画を観に行くのは久々、去年10月の『標的の村』以来。『ペコロスの母に会いに行く』は、桜坂劇場から毎月送られてくる冊子の確か3月号で紹介されており、私の「観たい映画」の一つになっていた。3月はしかし、畑仕事が忙しく行けなかった。でも、4月にリバイバル上映があり、招待券が手に入り、好都合が重なったわけだ。
  冊子でそのタイトルを見た時、「老人ホームとか介護施設に入っている母親とその息子の話だな、ペコロスとはその施設の名前だな」と勝手に想像していた。映画の序盤で勝手な想像が違うことが判明した。ペコロスは主人公である息子のあだ名、その禿げた頭がペコロスみたいだと自らつけたあだ名のようであった。
 禿げ頭がペコロスみたい、というそのペコロスとは何ぞや?と疑問に思って広辞苑を引く。「小玉葱。通常の玉葱を密集栽培して小さくしたもの」とのこと。私の畑にはペコロスが多くあった。私は「通常の玉葱を密集栽培して小さくした」のではなく、肥料をあげずに育てているのでなかなか大きくならない、で、ペコロスも自然にできる。
          
          

 ペコロスはどうでもいいことであった。農夫は野菜に興味があるのでついつい話がそこへ逸れてしまった。本題は「助け」、他人の助けを要する人々がいるということ。今はそういった人々を他人ごとのように眺めている私だが、いずれ私も体や頭に不具合が来て、誰かの助け無くしては生きていけないようになるだろう。
  前に図書館からスペシャルオリンピックスをテーマとしたDVDを借りて、観た。そこにも「協力して生きる」社会があった。スペシャルオリンピックスのことを私は全く知らなかったのだが、簡単に言えば、知的発達障害者のスポーツ大会である。
 そこには助け合う形が様々見られた。障害者の傍にいて普段の練習から彼らの努力を助ける人々、スポーツ大会を運営する人々、ボランティアの人々、そういった人々もまた、障害者に協力を得て、自らも幸せを得ているのだと感じられた。
 私は勝った負けたのスポーツにはほとんど興味が無いので、オリンピックもパラリンピックも観ないのだが、スペシャルオリンピックスも、競技そのものには興味は持てなかったのだが、生きるために協力するというその精神には温かいものを感じた。
          

 記:2014.6.20 島乃ガジ丸


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