ガジ丸が想う沖縄

沖縄の動物、植物、あれこれを紹介します。

瓦版096 空に空がある限り

2009年10月02日 | ユクレー瓦版

 10月になっても、晴れた日、昼間の太陽はまだまだ強力。ガンガン照り付けている。人間の体と違ってマジムンの体は外気温に左右されにくい。つまり、我々は暑さ寒さに強い体質となっている。それでも、この太陽の熱さは感じることができる。

 「はっさもう、暑いねえ。秋も半ばだというのに。」
 散歩の途中、ユクレー屋をちょっと過ぎた辺りで、港の方から二人乗り乳母車を押しながら歩いて来るマナとバッタリ出合った。その時のマナの第一声がそれだった。
 「確かに、今年の秋は特別暑いね。」
 左手で乳母車を押し、右手で日傘を差している。その傘の下の、マナの顔には汗が滲んでいる。でも全然余裕の顔、そう、陽射しは熱いけれど、風はすっかり秋の風。爽やかな風、美味しい風。ユクレー島は特にそう。マナもそれは感じている。
 「でも、この島はやっぱり良いさあ。風が最高なんだね。」とのこと。
 「ところで、ずいぶん久しぶりだね。忙しかったの?」
 「それはこっちのセリフさあ。私は先月も第一週には里帰りしたよー。あんたがいなかったんだよー、どっか行ってたの?」
 「あー、先月はね、ちょっと旅をしていた。でも、そうか、マナは月1回、第一週には帰るようにしてるんだ?」
 「うん、月一はね。今日はでも。トリオG3のライブもあるんだよ。」
 「ライブ?ユクレー屋で?今日?」
 「知らなかったの?旅に出ていたからだね。けどまあ、突然決まったみたいさあ。昨日の夜、家に電話があったよ。新曲ができたからって。」

  ということで、その夜、ガジ丸一行もいつもより早くやってきて、ユクレー島運営会議も早めに終わって、トリオG3の、4曲20分ばかりのちょっとしたライブが開かれた。新曲は1曲だけ、残りの3曲は既に発表済みのもの。
 新曲のタイトルは『かにはんでぃてぃよー』、沖縄民謡風の唄。カニは曲尺(かねじゃく)のこと、ハンディティヨーは「外れてよ」ということ。頭の中の計りがずれてしまっているということ。つまり、「ボケてしまってよー」という意味。
     

 演奏が終わって、「寂しくて、ちょっと暖かい唄だね。」と感想を述べる。 
 「最近、ユクレー屋にちょくちょく顔を見せる初老の夫婦がいるだろ。」と勝さん。
 「前田さん夫婦のことだね。」
 「俺たちは三人とも女房がいなかったり、死なれたり、逃げられたりして、歳取ってからの夫婦愛というものを知らないんだ。あの夫婦を見ていて、仲良いなあ、羨ましいなあなんて話していたら、ガジ丸がそれを唄にしてくれたんだ。」
 「歳取っても愛し合っていようよ、なんて唄なんだ。」と今度はガジ丸に訊く。
 「それはちょっと違うな。長い年月を経ると、もう雄とか雌とか関係の無い愛情に変わる。その人の生命そのものに恋をする、その人のことが純粋に愛おしくなるんじゃないかと思ってな。まあ、良くは知らないんだが、想像だ。」
 「ふむ、確かに、前田さん夫婦を見ていると、何だかそんな雰囲気あるね。」
 「生まれて、生きて、恋して、死ぬ。空に空がある限り、それは繰り返される。生きることは恋をすること、と言ってもいいだろうな。空に空がある限り、人は恋をする。」
 などと、珍しくガジ丸が恋を語った。マナが大きく肯いていた。

 記:ゑんちゅ小僧 2009.10.2 →音楽(かにはんでぃてぃよー)


子供たちは空を飛ぶ

2009年10月02日 | 通信-社会・生活

 学校が夏休みであった8月下旬の1日、従姉の孫、男の子二人(7歳と5歳)を遊びに連れて行った。才色兼備の彼らの母親も一緒で、彼女の車、彼女の運転で出かける。
  場所は、私がトンボ公園と呼んでいる沖縄市の公園。子供達や美人妻にとっては初めての場所で、私も約1年ぶり。トンボ公園はしかし、池の水が半減していて、そのせいか、昆虫の数も激減していた。去年は多くの種類、多くの数のトンボが乱舞していたのに、ハチやアブ、チョウやバッタも多くいたのに・・・、あてが外れてちょっとガッカリ。

 子供達も少々不満が残ったに違いない、いつかその埋め合わせをしなくちゃあと思い、今度は近場だが、那覇市の原生林が残っている末吉公園へ連れて行こうと考えた。
 9月になって、子供達の母親、才色兼備のアラサーにその旨メールした。子連れの美人妻と不倫デート気分も悪くないのだが、「できれば亭主も一緒においで」と追記した。すると、「一人で子供二人の面倒をみるのは大変ですか?」と返信がきた。
 私がこれまでに遊び相手をした甥たち、友人の子供達に比べると、彼女の子供達は「女の子か?」と思うほどに大人しい。なので、面倒を見るのは楽勝である。ただし、大人しいといえど子供は子供、子供は空を飛びたがる。その行動を常に注意して見ておかなければならない。目を離すと、どこへ飛んでいくか分からないからだ。

 自分の欲求が満たされないと駄々をこねる。泣き喚いて自分の要求を通そうとする。周りの迷惑を顧みず我儘にふるまう。こういったことは子供のすることである。子供のほとんどは、感情を押さえつけて我慢することができない。感情を抑えて我慢するという修行はこれからである。その修行を積んで、彼らは大人になっていく。
 ただし、感情を押さえつけて我慢することは、人として身に付けるべき力だが、感情を思いっ切り発散することもなければ、豊かな感性は育たないのではないかとも思う。自由に空を飛び回るような心の開放が、子供たちには必要だと思う。
 というわけで私は、我儘で自己主張の強いアメリカ育ちの甥や、比類なき暴れん坊(かつて保育園から退園処分を受けたほど)の友人Hの息子たちを遊びに連れて行った際は、できるだけ、彼らの行動の、制限のハードルを低くした。
  子供達は動き回る。我儘と暴れん坊は大人が予想しない行動を取る。彼らの動きを追いながら、ここまではいいが、これ以上はダメということも考えながら、常に監視する。大人たちは心の休まる暇が無い。子供達の体をロープで縛って、一方を木に括りつけて、ロープの長さの範囲外には行けないようにしてやろうと、何度思ったことか。
 そんな子供達も、感情を抑えて我慢するという修行を積んで、大人になった。暴れん坊は大学を卒業し、親の店を手伝い、これまでいい加減だった経営、経理について、親に意見し、教育をするまでになっている。見事な育ちっぷりである。

 さて、去った日曜日の午後、従姉の孫二人とその父親を連れて末吉公園を散策した。子供達はバッタ、チョウ、トンボ、カエルなどを見つけ、遊具で遊んだりもして、たっぷり楽しんだ。彼らの心は空を飛ぶことができたと思う。二人の監視は父親がしっかりやっていた。お陰で私は概ね自由、オジサンもまた、気持ち良く空を飛ぶことができた。
          
          

 記:2009.10.2 島乃ガジ丸