ガジ丸が想う沖縄

沖縄の動物、植物、あれこれを紹介します。

瓦版070 ジレンマン

2008年09月12日 | ユクレー瓦版

 ユクレー屋を棲家としているケダマンは、当然、ほぼ毎日ユクレー屋にいて、ほぼ毎日酒を飲んでいるが、私は、住まいは村の中にあり、ユクレー屋へは、金土はほぼ欠かさず通っているが、その他の日はたまにしか顔を出さない。その他の日は概ね、思索に耽っており、ものを書いたりしている。文化マジムンなのだ。
 日曜日はユクレー屋も休みだ。なので、昼間、村の中をブラブラした後は、夕方からは自宅で執筆活動となる。で、そうしていたら、珍しく、ケダマンが訪ねてきた。

 「おや、珍しいね、何かあったの?」
 「今朝、マナがオキナワに帰ったんだ。」
 「知ってるよ。昨日聞いたし、今朝、見送りにも行ったよ。」
 「でよ、マミナも忙しいらしいんだ。」
 「そうだな、学校始まったしな。」
 「でよ、明日から木曜まで、ユクレー屋の手伝いがいないんだ。」
 「手伝いたって、昼間はウフオバーが見てるし、夜だけだろ?」
 「夜だけなんだがな、まあ、俺一人でも大丈夫なんだがな、もう一人いると楽にできるし、楽しかろうと思ってよ。どうだい?」
 「どうだいって、・・・あー、そういうことか。いいよ、手伝うよ。」

 ということで、月曜日から私も夜のユクレー屋を手伝うことになった。しかし、それにしても、ケダマンの言い様はまどろっこしい。自分一人では心許無いと真っ直ぐ言えないのは、たぶん、人間だった頃の名残なんだろう。自尊心の欠片が残っているのだ。

 ケダマンと二人、カウンターに立つ。私は中央から少し離れて、台所寄りに立つ。
 「やっ、お前ずるいぞ。俺と立ち位置を代われよ。」(ケダ)
 「ここには村の人もたまには来るんだ。勝さんや新さんや太郎さんだけじゃない。マジムンに慣れていない人もいるんだ。ネズミの私がまん前にいたら、びっくりするよ。その点、ケダマンは毛むくじゃらだけど、いちおう元人間だからね。大丈夫さ。」
 「いやいや、兄貴、お言葉を返すようだが、世の中にはミッキーマウスという大人気者のネズミがいるんだ。お前はそれに負けないくらいの愛嬌があるぜ。」
 なんて煽てられて、結果、二人代わりばんこにカウンターの中央と端を分担することにした。しかし、それは結局どうでもいいことであった。村の人は来るには来たが、少数であり、皆、テーブル席に着いたのだ。いつもならカウンターの客であるはずの二人がカウンターの中にいるので、カウンターに座る客がいない。我々は酒と料理を運ぶだけで、それも数は少なくて、しかも、村の人は皆、8時頃には帰っていった。
 「あー、そうなのか、俺たち一人と一匹がいなければ、この店はウフオバー一人で十分やっていけるんだ。俺たちが余計者だったんだ。」と改めて気付いた。

 カウンターに立っていて、ほとんど暇だったし、少しは店に貢献しようという気持ちもあって、翌火曜日にはモク魔王に声をかけて、来てもらった。久々の登場だが、このところずっと忙しいらしい。彼が忙しいということは、世界が不安定な状況にあるということだが、詳しくは不明。忙しいモク魔王は、1時間ほどいただけであった。
  水曜日にはガジ丸を呼んだ。モク魔王が忙しいってことは、ガジ丸も当然忙しい。なので、ガジ丸もまた、少し飲んだだけで、さっさと帰ってしまった。
 木曜日にはシバイサー博士に来てもらった。この人に忙しいということは無い。酔うと寝てしまうので、その巨体を家まで送り届けるのが大仕事となる。長くいて欲しいし、酔って寝られたら困るし、ジレンマだが、大仕事が嫌なので早く帰って貰った。
 結局、月曜日から木曜日までの4日間、夜8時過ぎには一人の客もいない状態となってしまった。私とケダマンが客ならば、夜遅くまで開けててもいいのだが、私達が客じゃなければ、店は8時閉店でいいわけだ。うー、これもジレンマだ。
     

 翌日の午後、マナが帰って来た。で、4日間のことを話すと、
 「そうだね、では、君達のことをこう名付けよう。ジレンマン。どう?」
 「焦れんマン、いつものんびりしていて焦らないって意味か、そりゃあいいな。」と、ケダマンはトンチンカンな反応。でも、よく考えると、ケダマンの焦れんマンは面白い。ジレンマは「相反する二つの事の板ばさみになって、どちらとも決めかねる状態」(広辞苑)のこと。そういう状態になっても焦らないというのは、マジムンの証明だ。

 記:ゑんちゅ小僧 2008.9.12


高田渡

2008年09月12日 | 通信-音楽・映画

 高校3年か浪人の頃に、LPレコードをダビングしたカセットテープを4本、当時仲の良かった1年下の女子から貰った。カセットテープの片面に1枚ずつ、あがた森魚、下田逸郎、斉藤哲夫、遠藤賢司、因幡晃、友部正人、高田渡の8枚のアルバムが収められたいた。当時流行っていたフォークソングの、それなりに名の知れた面々。
 当時流行っていた面々であるが、女子高生の趣味にしてはちょっと渋め。おそらく、LPの持ち主は彼女では無い。彼女の兄や先輩たちだと思われる。友部正人、高田渡については、その持ち主を私も知っている。彼女も私も美術クラブに在籍していたが、私より2期先輩のAさんのものだ。Aさんの家を訪ねた時にそれらのレコードを見ている。

 あがた森魚、下田逸郎、斉藤哲夫、遠藤賢司、因幡晃らはそれぞれにヒット曲もあり、ある程度有名だったので私も知っていた。高田渡にも『自転車に乗って』があり、その名前は知っていた。友部正人は、ほとんど初めて聞く名前だった。
 テープに入っていた高田渡のアルバムは『系図』で、彼のセカンドアルバム。聴くと、それまでラジオなどから流れていた流行の、井上揚水、吉田拓郎、かぐや姫などが歌うフォークソングとは全く趣を異にしていた。「そうか、こういう唄もあるのか。」と少し衝撃を受ける。ただ、衝撃は、それまで知らなかった友部正人により大きく受けた。で、初めの頃は友部正人ばかり聴いていた。巻戻して聴く。裏面の渡はたまに聴く程度。
          

   その頃、私の友人たちに友部正人や高田渡のファンはいなかった。友人達と集まってみんなで歌うのも、私が下手なギターを掻き鳴らすのも、井上揚水、吉田拓郎、かぐや姫などメジャーなフォーク歌手の唄がほとんどであった。あがた森魚、下田逸郎、斉藤哲夫、遠藤賢司、因幡晃らもたまに登場したが、友部正人や高田渡は皆無だった。
 東京に出て、大学に入ってから友部正人、高田渡のファンと多く知り合う。彼らに感化されて益々その二人が好きになる。彼らはまた、私の知らなかった魅力的な唄歌いたちをたくさん教えてくれた。いとうたかお、佐藤博、朝比奈逸人、朝野由彦など。
 大学は吉祥寺にあり、吉祥寺にはライブハウスがいくつかあった。友部正人のライブへは行っているが、高田渡のライブは経験が無い。大学の頃はまだ友部の方が好きであったことと、その頃、渡はライブ活動をあまりやっていなかったという理由がある。
 渡の唄が友部の唄よりも心に沁みるようになったのは、大失恋して、打ちのめされて、仕事も辞めて、収入が無くなって、これからどうしようと途方にくれていた30歳手前になってからのこと。カセットテープに入った『系図』を何度も聴くようになった。
          

 2004年3月に高田渡のライブが那覇であった。私にとって初めての生高田渡。ライブは渡が泥酔して、後半はほとんどグダグダであったが、前半だけでも私の期待を裏切らなかった。改めて、渡の唄の良さを認識した。
 那覇のライブから約1年後に渡は急死する。その近辺、渡の出演するテレビ番組が2本あった。新聞を取ってなくて、テレビ番組の予定を知らない私が、偶然、その2本ともに観た。映画『タカダワタル的』も旅先で観た。「あんたの好きな人はもう長くないから、今のうちに観ておきなさいよ。」という天の声があったのかもしれない。
 →記事(高田渡ライブIN那覇)

 記:2008.9.12 島乃ガジ丸


高田渡ライブIN那覇

2008年09月12日 | 通信-音楽・映画

 2004年3月14日、高田渡ライブ。会場のクラブDセットは、実家から歩いて10分程度の、国道58号線から少し入ったところにある。長い間、ジャズ以外のライブハウスには縁がなくて、私はまだ2度目の訪問。昨年の、遠藤賢二ライブの時以来。
 何時開演かを覚えていなくて早めに行った。会場には7時に着いた。店の前に告知板があり、開演は8時と書いてあった。あと1時間もある。が、すでに5、6人の客が並んでいた。高田渡ってこんなに人気があったのかいな、と思った。
 どんなに美味しいラーメン屋だろうが、私は並ぶのが好きではないので並ばない。食い物でなくても、何かを並んで待つという経験が私にはほとんど無い。よって、その夜も渡ファンの列には並ばず、近くにある養老の滝松山店へ一杯やりに行く。

 開演の20分前、ライブハウスへ戻る。1時間前に既に並んでいる人がいたので、「ひょっとして満席」という一抹の不安を感じながら中へ。不安は杞憂。客は6分の入り。
 前から2列目の4人用の丸テーブルに案内される。少しして友人のTが来て、8時ちょうどくらいにIさんも来る。Tの同僚(新聞社)のカメラマンが、たまたま取材に来ていて、我々のテーブルに加わる。3人に、高田渡はアル中だった。今もそうかもしれない。昔から爺さんのような顔をしていた。山之口獏の詩を歌っている。などといった私の知っている高田渡に関する薀蓄を語っているうちに渡がステージに上がった。

 ゆったりとした足取りで椅子に向かう渡はやはり、酔っていた。スローモーションのような動作でギターを取り、腰掛ける。「沖縄は久しぶりです」などと語りながら傍らのテーブルにあるグラスに手を伸ばす。透明な液体は日本酒なのか泡盛なのか知らないが、アルコールには違いない。大丈夫かい、最後まで持つかいと心配になる。
 ライブから1ヶ月が経ってしまって、どんな順番で何を歌ったのかを今、正確には思い出せないが、前半歌った唄はほとんど私の知っているものだった。
 「ブルース」、「コーヒーブルース」、「ものもらいの話」、「69」、「朝日楼」、「鎮静剤」、「アイスクリーム」の7曲。
 前半が終わって小休止。休憩の前に渡は「後半はガンガンやります」と言った。おそらく、せっかく沖縄で歌うんだから獏の詩をガンガン歌いますぜってことだろうと、私は勝手に想像して、後半が始まるのを大きな期待を持って待った。

 15分ほども経って、渡が再登場する。酔いが深まっている様子。最後まで持つかいなという私の不安が現実になりそうな千鳥足、目はうつろ。スローモーションの動作はさらに遅くなり、ステージに上がってギターに手を掛けるまで5分ほど費やした。そして、手を掛けたまま動かない。しだいに上半身が揺れる。もごもごと何か言っている。手を掛けたままだったギターを抱いて、腰掛けるまでに10分以上かかった。
 そしてやっと、開けるのがつらそうな目を何とか少し開いてダルそうな声を出す。前半の最後に「後半はガンガンやります」と言っていたのに、その声は「3曲だけやって終わります」と言う。そしてまた、動きが止まる。そのまま1曲も歌わずに時が流れる。
 渡は寝ていた。スタッフの人が何度も起こしにかかるが、起きない。そのまま時間は過ぎていく。30分以上もそのまま。しかし、客は皆、黙って渡を見ている。高田渡はそういう人であることを皆が認識し、納得しているようであった。
  やっと目を覚まして、酔いの抜けない声で、「2曲だけやります」と言う。寝ている間に1曲減らしてしまったようだ。そして、歌い始めた。『ごあいさつ』、これはごく短い作品である。長い曲をやる気力が無いんだなあと思った。しかし、酔った頭でも、これではウチナーンチュに申し訳ないと思ったかもしれない。最後に、『生活の柄』を歌った。山之口獏の詩だ。私を含め、多くの観客が喜んだ。『生活の柄』にはコーラスの入る箇所がある。知っている客は自然に合唱した。半分寝ながら、渡は最後まで歌い切った。

 演奏を聴いている時間よりも、寝姿を見ている時間の方が長いライブであった。それでも私は大いに満足した。ギターを抱えて寝ている姿も含めて、タカダワタルという作品を堪能できたと思った。タカダワタル的空気に包まれて、私は幸せを感じていた。その空気に包まれたまま眠りたいと思い、家に帰って、渡のCDを2枚続けて聴いた。
          

 記:2004.4.2 島乃ガジ丸 2008.8.31加筆