ガジ丸が想う沖縄

沖縄の動物、植物、あれこれを紹介します。

瓦版069 無用な努力

2008年09月05日 | ユクレー瓦版

 週末、いつものユクレー屋、だが、今日はマミナがいる。で、マナがいない。
 「あれ、何でマミナ、マナの体調が悪いの?」
 「ユーナが帰ってからマナはここで働き詰めでしょ。ウフオバーが休みなさいって言っても彼女優しいから、なかなか休まないのさあ。で、私が週末は代わることにしたわけ。ジラースーも来てるんだから、たまには二人っきりにさせないとね。」
 「今頃船の中でチュッチュッってわけだ。」(ケダ)
 「ふんふん、そういうことか。それは良いことだ。さて、それじゃあマミナ先生。今日も歩いて、汗をかいた僕に泡の出る冷たい美味しいものをください。」(私)
 「はいよ、情報集めだね、何か面白い話あった。」とマミナは言いながら、ジョッキにビールを注ぎ、私の前に置いた。カウンターにはもう何杯か飲んでいるに違いないケダマンのジョッキがあり、私のジョッキと2つ。それだけしかない。何か違和感がある。
 「マミナ、変だね。ビールジョッキが2つしかないね。飲んでないの?」ということである。酒豪のマミナの手元にジョッキが無い。酒の入ったグラスも無い。
 「ダイエット中なんだとさ。マミナ先生は。」(ケダ)
 「えーーーっ!ダイ、エット!」と思わず私は叫んでしまった。1日歩き回って何のニュースも得なかったが、ここで、今週一番のネタを得た。

 聞けば、マミナのダイエット挑戦は3日前から始まったらしい。
 「何でまた?マミナの太っているのは良い気が溜まっているからじゃないの?」(私)
 「そりゃあそうだと思うんだけどね。」
 「痩せて、美人になって、結婚でもしようかと思ってるんだぜ。」(ケダ)
 「バカ言ってるんじゃないよ。健康のためだよ。」
 「ん?どこか調子悪いの?」(私)
 「いや、いたって健康なんだけどね。これからもっと歳取って、筋力が衰えた時にね、太っていると膝や腰に負担が大きくなるってテレビでやっていたのよ。この島で私より年寄りなのは、超人のウフオバーは別にして、勝さん、新さん、太郎さんのオジートリオでしょ。三人ともイイ体していてさ、オジーとは思えないほど体力あるでしょ。日頃、体を鍛えているみたいさあ。私も足腰丈夫なオバーでいたいなあと思ってさ。」
 「そうだなあ、あのオジートリオは元気だよなー。いくつ何だい?」(ケダ)
 「三人とも77、8だよ、もうすぐ80だよ。」
 「そんなになるんだ。畑仕事はするし、山にも登るし、木にも登るし、唄を歌えば、若者のような大きな声が出るし、酒はたらふく飲むし、ホントに元気だよなあ。」(私)
 「私もだから、あの3人みたいに元気な年寄りになりたいわけよ。」

 と、ここで、店のドアが開いて、客が入ってきた。若い女の人、村の人だ。確か今年の春に来たばかりの、子供が一人いる若いお母さんだ。
 「こんにちは、マミナ先生いらっしゃいますか?」
 「あい、金城さん、何でまたここに、明日帰るんでしょ?」
 「はい、帰る前にお礼言っておこうと思って、この子がそうしたいって。」と、金城さんという若いお母さんは、寄り添って立っている女の子の肩に手を置いた。
 「先生、ありがとう。」と女の子は言って、ぺこんと頭を下げた。
 「いえいえ、どういたしまして。先生も楽しかったさあ。」

 その親子はその後しばらく、マミナとユンタク(おしゃべり)して、帰った。
 ユクレー島に来るということはそれなりの悲しい事情がある。その親子もそれなりの事情があって、母一人子一人の生活らしい。女の子は来年小学生という年齢。マミナに懐いていて、時々、遊んであげたり、勉強を教えていたらしい。

  「これ、食べてくださいって言ってたけど、何かねぇ。」と、マミナは言って、アルミホイルに包まれた皿をカウンターの上に置いた。アルミホイルを取らなくても、私にはそれが何かすぐに判った。ケダマンにも判ったようだ。
 「何かねぇって、ピザに決まってるがな、この匂いは。」と鼻をピクピクさせる。
 「そうだね、そういえば、金城さん、ピザは得意料理って言ってたさあ。」
     
 アルミホイルを取る。美味しそうなピザが現れた。ビールのつまみには持って来いだ。さっそく頂く。匂いからも見た目からも想像できた通り、とても美味いピザだ。
 「うめぇー!」とケダマンと私が叫ぶ。マミナはしかし、ピザに手を出さない。ちょっと厳しい表情だ。それから、ちょっと悲しい表情に変わる。そしてついに、
  「えーいっ、鬱陶しい。やーめた。」と大声を出した。
 「おっ、何だ?何か開き直ったか?」(ケダ)
 「なるようになるさってことさ。」
 「そうだな、まあ、世の中はたいていそうだ。ならないようにはならない。」とケダマンが言い終わらない内に、マミナはジョッキにビールを注ぎ、それをゴクゴクと喉に流し込んだ後、ピザをほおばった。これ以上無いほどの喜びの表情を見せ、
 「美味い!こうでなくちゃあ、これが人生よ!」と大声で叫んだ。

 「美味い!これが人生よ!」には私も賛成である。マミナは無理して太ってるわけじゃない。体もよく動かしてるし、今のままで健康体なのだ。今の体がマミナに最適なのだ。ダイエットなんて、マミナにとっては無用な努力だと私は思っている。
     

 記:ゑんちゅ小僧 2008.9.5


タカダワタル的ということ

2008年09月05日 | 通信-音楽・映画

 『タカダワタル的ゼロ』の前作、『タカダワタル的』を観ての感想。

 高田渡の捉え方2004.5.14
 『タカダワタル的』は、柄本明の映画だったのではないかと最後のテロップを見ながら思った。『タカダワタル的』で表現されている高田渡は、柄本明が捉えた高田渡だったのではないだろうか。私の頭の中におぼろげ(渡は大好きだが、彼が何者かなんてよく考えたことが無いので、はっきりしていない)にある高田渡とは少し違う。が、柄本明は上手いと思う。風貌だけで十分絵になる渡なので、風貌だけで客は興味を持つ。
 歌手のようである。ギターを弾いているようである。息子が後ろでスチールギターを弾いているようである。女房がいるようである。歌はあまりヒットしていないようである。よって、あまり金持ちでは無いようである。などといったことが映像から伝わってくる。ヒットしていない歌は聴きなれない歌なので、何を歌っているのかよく解らない。歌っている内容が解っても、何でそんな歌を歌うのかが解らない。この人、いったい何者!
 というわけで、不思議なものに対する興味を客は持つかもしれない。あるいは、現代人が忘れた大事なものをまだ持っている人ではないか、と錯覚するかもしれない。
 高田渡は、歌っていなければ普通の、ただの飲んだくれなんだろうか。血中からアルコールが消えることの無い、いつも眠そうな眼をしていて、いつも頭がボーっとしている酔っ払いなのであろうか。高田渡って、どう捉えたらいいのでしょうね。

 このメールは2004年の5月14日に書いて送っているが、その翌日、NHKの教育テレビで「“フォーク”であること・高田渡と高石ともや」という番組をやっていた。その番組の詳しい感想は記録に残っていないが、友人に以下のメールを送っている。

 番組の感想ですが、少なくとも渡の捉え方としては、映画「タカダワタル的」よりもNHKの番組の方が私の感性に近かった、とだけ言っておきましょう。

 このメールから4年以上も過ぎた今となっては、NHKの番組が高田渡をどう捉えていると私が感じたかも思い出せない。ただしかし、今回の映画『タカダワタル的ゼロ』を観て、私なりに見えたものがある。これも同じ友人にメールしている。
 
 「音楽をやっています。」
 「どんなジャンルの音楽ですか?」
 「タカダワタルやっています。」
 タカダワタル的というのはそういうことだと思う。ジャズとかクラシックとかロックとか演歌とかと並立するジャンルの一つに高田渡個人が存在するのだと思う。
 高田渡はまた、人間としても1つのジャンルを成していると思う。タカダワタル的は、高田渡の存在そのものが「1つの文化である」ことを表現したものだと思われる。
 ということを、今回の映画を観て、私は感じました。
 翌日木曜日の夜、渡のCDを聴きながら酒を飲みました。『ごあいさつ』、『系図』を続けて聴きました。文化です。彼は。
          

 記:2008.9.5 島乃ガジ丸


タカダワタル的ゼロ

2008年09月05日 | 通信-音楽・映画

 先週水曜日(8月27日)、滅多にやらないことをやった。元々、夜出かけるのが好きでなくて、月1回の模合(相互扶助的飲み会)を除いては、飲み会も年に5、6回ほどしかない。デートなんてのも滅多に無い。夜は概ね一人静かに家で飲んでいる。さらに、平日の夜は文章書いたり、絵を描いたりで忙しい。そんな私が、平日の夜、晩飯食って、風呂入った後、8時を過ぎてから出かけた。バスに乗って、桜坂劇場。
 大好きな桜坂劇場で、ぜひ見なくちゃという映画をやっていて、それが1日1回の上映で、時間が夜9時20分からで、しかも、その週の金曜日までの上映ということだったので、「平日忙しい夜出不精の体」に鞭打ったのであった。

 18か19の時にそのアルバムを初めて聴いて、衝撃を受け、後年、私の音楽感性に大きな影響を与えた人、ウチナーンチュには、山之口獏の詩を歌っている歌手として知られる人、高田渡の映画が桜坂劇場で上映されていた。

  『タカダワタル的ゼロ』

 70分ほどの映画で、高田渡のライブ映像が主。映画には柄本明、泉谷しげるなども出ていたが、柄本も泉谷も渡の存在感には遠く及ばない。途中、ゲストの泉谷が2曲歌ったが、私には邪魔であった。まあ、渡と比べられたら泉谷も可哀想だが。
 人それぞれの感性によると思うが、私は70分、涙が出そうなほどの幸福感に浸れた。10年ほど前のこと、「付き合ってくれないか?」と、一回り以上も歳の離れた可愛い娘に訊いた。「いいよ」と、その娘は答えてくれた。その時以来の幸福感であった。このあと、しばらく映画を観なくて良いと思うくらいの大満足を得た。
          

 場内が明るくなって、立ち上がって振り返る。私の前の席にいた人も含めて観客は20人余り、明るくなる前に出て行った人がいたとしても30人近く、その数が多いのか少ないのか、高田渡の認知度がどの程度なのかを知らないので判断はできないが、観た方が良いですよ、幸せの感性に包まれますよ、と私は勧めたい。生憎、上映は終了したが。

 2004年5月に東京のテアトル新宿で、前作の『タカダワタル的』も私は観ている。その感想を友人にメールしている。それを含めて話は続く。
 →タカダワタル的ということ

 記:2008.9.5 島乃ガジ丸