ガジ丸が想う沖縄

沖縄の動物、植物、あれこれを紹介します。

瓦版043 千の道があって

2007年11月02日 | ユクレー瓦版

 もう長いこと顔を見ていないので、その存在も忘れてしまうところだった。久々にモク魔王がユクレー屋にやってきた。
 「やー、久しぶりじゃないか。」(ケダマン)
 「おう、去年の年末以来だ。」
 「何してたの?島にはいなかったの?」(私)
 「あー、たまには帰っていたがな。ほとんど留守にしていたな。」
 「どこに行ってたんだ?」(ケダマン)
 「ヨーロッパ、フランス、パリ。ハルにつき合わされていた。」
 ハルとはモク魔王の女房のことである。モク魔王と同じくネコ型のマジムンだ。どうやら、女房というものはマジムンであっても煩いようで、「あーしてこーして」とあれこれ命令されるらしい。「お願い」と口では言うが、断ると、怒ったり拗ねたりし、時には陰湿な仕返しをされたりする。で、なかなか断れない。実質的には命令なのである。

 そういったモク魔王の愚痴がしばらく続いて、ジョッキ一杯を飲み乾した頃、
 「誰?」と、カウンターの向こうでマナが訊く。マナとモク魔王は初対面だった。二人を互いに紹介してあげる。モク魔王は悪魔とは違うので、恐怖を感じさせることは無い。グーダとは恐る恐る付き合っていたマナだが、モク魔王とはすぐに打ち解けた。
 「モク魔王と悪魔のグーダとどんな関係なの?」と訊く。
 「グーダと私は特に関係は無い。私は実在した生き物が変化したマジムンだ。グーダは人間の、悪の想念が実体化したものだ。」とモク魔王が答える。すると、ケダマンが、
 「おー、そういった話をしていると現れるぞ。」と口を出す。で、その通り、そのすぐ後に、生暖かい風が吹き込んできて、彼が現れた。グーダだ。

 「はいはい、どーも、お呼びのようで。」
 「別に呼んだわけじゃないんだがな。」(ケダマン)
 「マナさん、ビールください。」とグーダは注文し、腰掛けて、我々の方を向く。
 「やっ、今日はいつもより賑やかだな。・・・あっ、モク魔王じゃないか。」
 「おう、久しぶりだな。相変わらず怠けているのか?」
 「あー、まあ、のんびりが一番だよ、なあ、マナ。と、そういえばマナ、お前、このあいだ見たぞ。道をトボトボ歩いていただろ?元気なさそうに、うつむいて。」
 「えっ、見てたの?どこで?どこから?」
 「この近辺は私の縄張りだからな、あちこち定期的に見てるよ。人の見えない少しずれた次元からな。ところで、今はお前元気そうに見えるが、何かから立ち直ったか?」
 「うん、まあね、ちょっと悩み事があったのさ。これから先、私はどの道を歩いて行けばいいんだろうなんてことをさ。」
 「ほう、道か。道はたくさんあるからな。」とグーダは言って、突然、歌い出した。
 「千のかーぜーにー、千のかーぜになーあーってー、って歌知ってるか?」
 「うん、聞いたことあるよ。クラッシックの歌手の人が歌ってる。」
 「そう、それ。この歌の通り空にはたくさん風がある。そして、地上にはたくさんの道がある。千のみーちーがー、千のみーちがあーあーってー、ってわけだ。」
 「何の話よ?」
  「うん、そうだな、ちょっと真面目なことを言うと、お前の目の前には万の道がある。しかし、その道のどれもが生きるのに適した道というわけでは無い。だけれども、お前の目の前には少なくとも、生きるのに適した千の道がある。その道のどれを選んでも、お前は十分に生きていける。生きていることが幸せであるならば、お前の目の前には、少なくとも千の、幸せの道があるということになる。って話だ。」
 「あー、そういうこと。うん、何となく解るよ。」と言ってマナはニッコリ笑う。その笑いが余裕のある笑いであることに私も気付いたが、グーダが先に口を開いた。
 「って、お前、隠してるな。何か幸せを持っているな?」
 「えっ、ううん、何も無いよ。」とマナはすっとぼけた顔をする。だが、何かあると私は感じた。で、少し追求してみたが、マナは口を割らなかった。
 マナの秘密は気になったが、それはウヤムヤなまま、話題はモク魔王の苦労話に戻り、その話で盛り上がり、その夜の宴会は夜更けまで続いた。
     

 記:ゑんちゅ小僧 2007.11.2


悟り

2007年11月02日 | 通信-その他・雑感

 母が病院通いをしていることを2月に聞く。通院がしばらく続いて、4月には入院することになった。母は他人のためによく働く。自身が78歳という年寄りのくせに、近所の年寄りの面倒を見たり、車を運転して、詩吟、長寿大学、清掃ボランティアなどの仲間たちの送り迎えなどをやっている。むろん、父の面倒もみている。そういったことの疲れが溜まって体調を崩したのであろうと、初め私は思っていたが、入院と聞いて、何か別の病気かと心配になった。4月20日、母の主治医に面会する。

 母の病名は強皮症。強皮症は膠原病(こうげんびょう)の一種で、簡単に言えば、「膠原繊維が変化し、皮膚が硬くなる病気」となる。
 母が強皮症を発症したのは48歳の時だったらしい。その時、3ヶ月もの入院生活を送ったのだが、彼女が強皮症であることは身内の誰も、父でさえも知らずにいた。
 退院してからもずっと、彼女は一人で強皮症と戦っていたようだ。誰にも気付かれなかったのは、病気との闘いでずっと優勢だったのであろう。それから30年が経って、体力が落ちて、病気の方が優勢になったということなのであろう。
 膠原病は不治の病であり、母の病状はかなり進行しているということも聞く。

 4月に入院した母だが、6月までは2、3度の入退院を繰り返した。退院して数日は家で過ごすことがあり、入院している間も週に2日ばかりは外出し、所属するサークルの会合に出たり、買い物をして、父の食事の面倒を見たりしていた。
 7月からは外出を控えるようになる。7月下旬、軽い脳梗塞を起こし、言語障害がちょっと出る。9月中旬からは一人で歩くこともできなくなってしまった。
 その9月中旬、「ノートの後のページを読みなさい」と母が私に言う。ノートは、言語障害のある母と意思疎通を確実にするために私が用意したもの。時々、言葉を思い出せない母であったが、書道の師範でもあることから文字には慣れ親しんでいる。文字を書くことには少し障害があるが、読む分には普通に解るのであった。
 
  ノートの後のページには、死を覚悟したような内容が書かれてあった。そういえば、その少し前から、「守護霊が毎日来てくれて、ベッドのゴミを払ってくれたりしている」なんていうことを言っていた。その守護霊に諭されたのだと思う。母は自分の死ぬ日を予知し、それをノートに記し、その日が来るのを静かに待つ覚悟のようであった。
 10月に入ると、母はしゃべることも少なくなり、ノートに書くことも無くなった。12日頃からはほぼ寝たきりとなる。そして、母が自らの死を予知した日、
 不届き者の息子はすっかりその日を失念していた。前夜、携帯電話をドライブモードにしたまま寝ていたため、従姉たちや姉からかかってくる電話にも全く気付かず熟睡していた。10月18日、予知した日、その通り母は後生へ旅立った。

 母が自分の死を覚悟して書きとめた文章は9ページほどある。そこには、自分の死に対する心構えが書かれてあり、また、神への感謝、周りの人たちへの感謝がより多く書かれてあった。それを読むと、他人のために懸命に働いてきた人は、人生に悔いなく、悟りを得ることができるんだなと思う。母の死顔はとても安らかであった。
          

 記:2007.11.2 島乃ガジ丸