礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

湯川秀樹の中間子理論を少年少女に紹介(1944)

2015-01-28 05:16:17 | コラムと名言

◎湯川秀樹の中間子理論を少年少女に紹介(1944)

 昨日の続きである。「ぼくらの文庫」の一冊、小林篤郎著『物質の謎』(一九四四)を紹介している。
 同書の構成は、序、第一章~第二六章、結び、用語解説、というようになっている。その第二六章は、湯川秀樹博士(一九〇七~一九八一)の中間子理論の紹介である。本日は、これを紹介してみよう。

 二六、日本の誇、中間子の予言
 原子核の中からは、陽電気を帯びた陽子と、電気を帯びない中性子が飛び出します。その他色々な理由もあつて、総ての原子核は、陽子と中性子との集りで出来上つてゐると考へられてゐます。
 ところが電気を帯びてゐない中性子と、陽電気を持つてゐる陽子とは、どうして原子核を作つてゐるのでせうか。そこには引きつけ合ふ力はないやうにも思はれます。
 これは中々難かしい問題です。
 我が国の湯川博士に、原子核の中には、電子の二百倍位の目方をもつた、中間子と云ふものがなければならない。陽子と中性子とは、この中間子をやり取りして、互に結合してゐるのであると発表されました。
 陽子や中性子は電子の千八百倍ほどの目方を持つてゐます。これに対して、二百倍ほどの目方を持つものを、中間子と呼ぶやうになつたのです。中間子は正または負の電気をもつ事が出来ます。
 陽子と中性子とは、原子核の中でたゞ引きつけ合つてゐるのではないやうです。中性子が陽子になつたり、陽子が中性子になつたりしてゐるのです。陽子が中性子になる時には、陽電気を帯びた中間子をほうり出します、中性子がそれを受取つて陽子になります。また中性子が陽子になる時には、陰電気を帯びた中間子をはうり出し、それを他の陽子が受取つて中性子となります。このやうな複雑な事が、小さい原子核の中で起つてゐると考へねばならないのです。
 湯川博土の中間子に就いての発表があつて、二年ほど経つてから、宇宙線を研究してゐる際に、中間子は霧函〈キリバコ〉の実験によつて発見されました。世界の学者はみんな驚嘆しました。私達は、どこまでも進んで止まない、学問の奥深いのに驚くと同時に、日本人の頭について深く考へさせられるのであります。

 文中、「中間子は霧函の実験によつて発見されました」とあるのは、一九三五年(昭和一〇)のアメリカの実験物理学者・アンダーソンによる中間子(ミュー中間子)の発見を指しているようだが、アンダーソンの名前を出さなかったのは、「戦中」という事情があったからと思われる。ただし、このとき、アンダーソンが中間子と考えたものは、のちに、中間子ではなかったことが判明し、今日では、ミュー粒子(ミューオン)と呼ばれているという。ちなみに、湯川博士の中間子理論の正しさが確認されたのは、戦後の一九四七年(昭和二二)のことであった。
 湯川秀樹は、すでに一九三四年(昭和九)に「中間子理論」の構想を発表し、一九四三年(昭和一八)には、文化勲章を受章していた。したがって、一九四四年(昭和一九)に出たこの本の中で、著者が湯川秀樹の中間子理論を、「日本の誇」として紹介していることに、何の不思議もない。むしろ著者は、湯川秀樹の中間子理論というものを、少年少女にわかりやすく紹介したいがために、この本を書いたのではなかったか。

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