礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

「ぼくらの文庫」(大雅堂)について

2015-01-26 07:52:08 | コラムと名言

◎「ぼくらの文庫」(大雅堂)について

 先の大戦の末期、京都市中京区の大雅堂から、「ぼくらの文庫」という叢書が刊行された。国立国会図書館には、清水三男『ぼくらの歴史教室』(一九四三)をはじめとして七冊が架蔵されている。ただし、この七冊のほかに、「ぼくらの文庫」が刊行されていないとまでは断言できない。
 本日は、その「ぼくらの文庫」の巻末にある「『ぼくらの文庫』刊行のことば」を紹介してみよう。引用は、小林篤郎『物質の謎』(一九四四年八月)より。

 『ぼくらの文庫』刊行のことば
 『ぼくらの文庫』は若い日本の国民である皆さんに楽しく有意義に読んでいただくために生れたものです。皆さんは現在、学校にまなび、やがて世界に冠たる大日本帝国臣民として思ひきり活躍する日を侍ちこがれてゐられるであらうし、或ひはまた既に現在おとなに伍してけなげにもそれぞれの貴い職域において戦ふ大日本帝国臣民のつとめを果たしてをられるのです。
 戦ふ日本の現在をしつかり担ふためにも、輝かしい日本の将来を雙肩に支へて立つためにも、皆さんはいまから最もりつぱな『精神の糧〈カテ〉』を身につけねばなりません。
 『ぼくらの文庫』はこの精神の糧として、すぐれた学者たちが一生けんめい研究して獲られた〈エラレタ〉高く深い人間の智慧を少しでも皆さんがたに呑みこんでいただくためにやさしく、おもしろく書かれたものばかりです。
 皆さんは『ぼくらの文庫』を読んできつと為になつたと思はれたことでせう。この文庫によつて得た知識と教養を日本帝国の発展のために生かすこと、これこそ皆さんに負はされた誇らしい義務なのです。
 この責任をりつぱに果して下さること、たゞそれだけがこの本を書いて下さつた先生がたと刊行者の心からのお願なのです。

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日中戦争の敗北を予言した笠間杲雄

2015-01-25 06:36:52 | コラムと名言

◎日中戦争の敗北を予言した笠間杲雄

 昨日に続き、笠間杲雄『青刷飛脚』(六興商会出版部、一九四一)から。同書の中に、「読史ところどころ」というエッセイがある。本日は、その前半部分(二九一~二九二ページ)を紹介してみたい。

 読史ところどころ
 兵は神速果敢なるを尚ぶ。第一次大戦〔一九一四~一九一八〕当時のカイゼル〔ドイツ皇帝の通称〕は二ケ月で巴里〈パリ〉を抜くと豪語した。然るに他方では、〔イギリスの〕キチナー〔Kitchener〕元帥は四年目からがほんたうの戦争だと言つた。長期に備へたものが勝つたのだ。
 ハンニバル〔Hannibal〕の第二ポエニ戦役〔紀元前二一九~二〇一〕は一挙にしてローマを抜く予定であつた。二十三年前の第一戦役〔紀元前二六四~二四一〕でカルタゴ軍の実力は知れてゐた。世界に君臨したローマも豪勇比なきハンニバルの侵入に戦慄したことは、ローマの史家リヴィ〔Livy〕自身が語つてゐる。曰く、ローマは全く恐慌に陥つた。カルタゴほど果敢好戦の敵は曾てなかつた。ローマ共和国の士気と戦備の欠けてゐたのも未曾有のことであつた、と。
 此の強敵ローマを屠る〈ホフル〉のに、唯一人悲観説を唱へたものがゐた。今これがカルタゴのハンノー〔Hanno〕だ。彼だけはローマの底力について正しい認識を持つてゐた。曰く、対戦の長びくほど、ローマの抵抗力は増すだらう。ハンニバルが無名〔正当な理由のない〕の師〈イクサ〉を興して亡ぼさんとずるものは、ローマにあらずしてカルタゴ自身である、と。
 カルタゴとローマとを比較して見ると、軍備の充実、統率の伎倆、芸術の巧妙に於てローマは到底カルダコの敵ではなかつた。ローマの味方は「時間」と資源だけであつた。短期迅速の決戦が行はれたのなら、勝利は勿論カルタゴのものであつたらう。云ひ換へると、ローマは待ち得たがカルタゴは待てなかつた。併しカンネーの大敗で、ローマ人自身が多くはハンニバルの豪語するやうに、短期迅速の決勝が迫つたと考ヘたのだ。リヴィ再び記して曰く、ローマ市に何の異常もないうちに、市民の恐慌興奮かくの如く激しい例は未だ曾てなかつた。ローマ人以外の国民であったら、 この惨劇の重圧で降服しないものは絶対にないだらう、と。
 此の戦争は十五年かかつた。ハンニバルほどの天才将軍も、ローマの「時間」と資源とスキピオ〔Scipio〕とのコンビに向つては、竟に〈ツイニ〉兜を脱いだ。ムツソリーニ御自慢の名映画「スピオーネ」はこれを語つてゐる。
 ハンニバルの敗因は全く敵を侮つた為めである。二三の事実を見て、早くもローマの末路来れりと即断したのである。

 ローマを侮り、その末路は近いと即断したカルタゴは、大義名分のない戦争をしかけて、一気にローマを屠ろうとしたが、時間と資源に恵まれたローマの抵抗は、きわめて粘り強いものがあった。戦争は長期化し、一五年後、遂にカルタゴは兜を脱いだ。
 どうしても、カルタゴ=日本、ローマ=中国というふうに読めてしまう。おそらく笠間も、そうした寓意を籠めて、この文章を書いたのだろう。だとすればこれは、日中戦争の帰趨についての予言であるといってよいだろう。
 このエッセイの初出は明らかでないが、『青刷飛脚』が出たのは一九四一年(昭和一六)一〇月一〇日、すなわち日米開戦の二か月前のことであった。ちなみに、笠間杲雄が亡くなったのは、一九四五年(昭和二〇)の四月である。つまり笠間は、日本が中国に敗れる前に亡くなっている。

*このブログの人気記事 2015・1・25

 

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笠間杲雄のエッセイ「排外は国辱」(1941)

2015-01-24 07:50:27 | コラムと名言

◎笠間杲雄のエッセイ「排外は国辱」(1941)

 笠間杲雄〈アキオ〉(一八八五~一九四五)といえば、戦前は、イスラム通の外交官として知られ人物であった。健筆家であり、岩波新書『回教徒』(旧赤版33、一九三九)などの著書がある。終戦を目前にした一九四五年(昭和二〇)年四月一日、いわゆる「阿波丸事件」で亡くなっている。
 本日は、その笠間杲雄が書いた「排外は国辱」というエッセイを紹介してみよう。初出は不明だが、彼の「随想随録」を集めた『青刷飛脚』(六興商会出版部、一九四一)に載っていたものである。

 排外は国辱
 対外情勢の深刻化するにつれて、いたるところに外国人排斥の声に踊らされる無智の徒の暴行事件などを聞く。誠ににがにがしきことである。時々は欧米人の国籍と人種とを見わけられない邦人が、某国人と思つて乱暴を加へたら、それがドイツ人であつたり、甚だしいのは態々〈ワザワザ〉我国へ招いた某国使節団の一員の夫人だつたりして、本人も官憲も平身低頭、陳謝させられたりする。
 英米に対する媚態外交の排斥すべきは、日本国民に一人も異議はない。併し何国人だらうがたとひ其の国家の政策が敵性を帯びて居やうが、平和な旅行者、無実な居住者を捉へて暴行するやうな低劣な国民が一人でも居れば、我が国威を傷つけること、これに如く〈シク〉ものはない。我々は攘夷鎖国の時代を再現するほど蒙昧〈モウマイ〉であつてはならない。
 心理学者の説明を聞くまでもなく、外人に暴行を加へたりするのは外国崇拝の潜在意識から出発してゐる。公正な心情の国民なら外国人に一目を置くやうな強がりをやる筈はない。排外は所謂『インフィリオティ・コンプッレクス』で、自尊心の欠如、相手方をえらいと見る前提から出発して居る。これにまさる媚態はない。
 その証拠には四年に亘る対支聖戦の間に、唯の一人の在留支那人をも迫害した例はないではないか。支郡人を我々と平等又はそれ以下と見てゐるためである。これに反して支那人は抗日排日をやつて日本に二目も三目もおいてゐる。
 外国語排斥にも同じやうな一面がある。如何なる外来語を摂取しても、国語は言霊〈コトダマ〉の幸はふ〈サキワウ〉日本のものである。況や〈イワンヤ〉『ダンス』と舞踊『ぺーア』と梨と云ふやうに、巧に使ひ分けをする自然の発達が国語に在る。無理な訳語で代用するのは、外国語の力を恐れ、外国をあまりに高く評価することになる。ビスマークの国語純化はもつと深いもので、皮相な外国語排斥ではない。現代ドイツ語こそは外国語を最も巧妙に摂取してゐるものである。ドイツ人は欧洲では最も多く外国語に通じてゐる。
 我が日本には排外の精神はない。上代にはしばしば敵性を帯びてゐた当時の朝鮮人の混血児たる坂上田村麿〈サカノウエ・ノ・タムラマロ〉を起用して、国軍の総司令官に任じてゐる。それでこそ八紘一宇〈ハッコウイチウ〉である。現代の日本人が暗愚な排外行為をやるならば、日本精神の正反対であり、国辱の極致でもある。

 二一世紀の今日だが、七〇年以上も前のこの文章が、なお一定の説得力を持っている。これは一体、どういうことなのか。

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岩波新書『ナンセン伝』第二刷に、二通りの定価

2015-01-23 04:45:37 | コラムと名言

◎岩波新書『ナンセン伝』第二刷に、二通りの定価

 岩波新書『ナンセン伝』第二刷には、発刊の辞「岩波新書を刊行するに際して」(一九三八年一〇月)が載っているものと、それが載っていないものとがある。

 前者のほうは、本扉と目次で計八ページ、本文二〇〇ページ(最後は白ページ)、奥付と発刊の辞で計二ページ、つまり総ページは二一〇ページである。
 後者は、本扉と目次で計八ページ、本文二〇〇ページ(最後は白ページ)、つまり総ページは二〇八ページで、裏表紙見返しに「貼り奥付」がある。
 前者(○)と後者(●)の奥付は、微妙に異なっている。その違いは、以下の通り。
○昭和二十一年三月十日印刷/昭和二十一年三月十五日第二刷発行  
●昭和廿一年三月十日印刷/昭和廿一年三月十五日第二刷発行
○(定価販売厳行)/停 定価六円五十銭/(税共)
●定価参拾円
○二葉印刷・永井製本〔ワクの下に右ヨコ書きで〕
●二葉印刷・永井製本〔ワクの下に左ヨコ書きで〕
○小店の発行物購入に際し何等かの条件により定価以上の不当なる/
要求をせられたる場合あらば具体的に御内報を願ひます〔ワクの左にタテ書きで〕
●〔相当する記載なし〕

 定価が大きく異なっている。奥付と発刊の辞の二ページ分を破り取り、貼り奥付を付けて、再度、市場に出すまでの間に、物価が激しく上昇したことがわかる。あるいは、この間に、かなりのタイムラグがあったことを物語っているのかもしれない。このあたりについて、何か情報をお持ちの方がいらしたら、ご教示を乞う。とりあえず、明日は、話題を変える。

*このブログの人気記事 2015・1・23

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岩波新書『ナンセン伝』第二刷に、二種類あり

2015-01-22 05:19:09 | コラムと名言

◎岩波新書『ナンセン伝』第二刷に、二種類あり

 昨日のコラムには、「岩波新書『ナンセン伝』第二刷(1946)の謎」という、思わせぶりなタイトルをつけてしまった。
 どこが「謎」なのかという説明が十分でなかったので、まず、これについて補足する。天下の岩波書店が、敗戦後の岩波新書に、「皇軍が今日武威を四海に輝かす」といった文言を含む発刊の辞を載せようとしたことが、第一の謎である。そうした発刊の辞が載った岩波新書(重版)が、GHQの事前検閲に引っ掛からず、実際に世に出たということが、第二の謎である。
 第一の謎について私は、次のように考えている。岩波新書発刊の辞「岩波新書を刊行するに際して」(一九三八年一〇月)には、たしかに「皇軍が今日武威を四海に輝かす」といった時局迎合的な文言も含まれているが、その一方で、「頼みとする武人に高邁なる卓見と一糸乱れざる統制ありや」などの軍部批判も含まれている。これがゆえに岩波書店は、軍部の圧力を受け、一九四〇年(昭和一五)九月三〇日に発行された、大谷東平著『暴風雨』(旧赤版74)以降は、新書の巻末から、発刊の辞を削除せざるを得なかった。しかし、戦後は、そうした軍部の圧力が消滅したので、岩波書店としては、久しぶりにこの発刊の辞を復活させたかったのではないだろうか。
 ちなみに、岩波文庫の発刊の辞「読書子に寄す―岩波文庫発刊に際して―」(一九二七年七月)は、戦前・戦中・戦後を通して、一貫して掲載され続けて、今日にいたっている。
 第二の謎については、単純に、GHQの検閲担当者が、岩波新書発刊の辞に問題な文言があることを見落としたと解釈したい。なお、同発刊の辞は、その初めのほうに、「世界は白人の跳梁に委すべく神によつて造られたるものにあらざると共に、……」という文言がある。これを見逃した検閲担当者は、責任を問われたことであろう。
 いずれにしても、発刊の辞「岩波新書を刊行するに際して」を復活させた『ナンセン伝』第二刷が世に出てしまったことは事実である。その後、発刊の辞に含まれる問題な文言に気づいたGHQは、すぐに『ナンセン伝』第二刷の発売停止を命じたはずである。店頭にあるものが回収された可能性もあろう。
 こうした措置に対し、岩波書店は、どう対応したか。『ナンセン伝』第二刷の最終の二ページは、奥付と発刊の辞である。その二ページを破り取り、新たに奥付を付けて、再び流通に乗せたのである。これは、臆測で言うのではない。現に、『ナンセン伝』の第二刷には、裏表紙見返しに、「貼り奥付」が付いているものがある。よく見ると、最終の二ページが破り去られた形跡もある。ということで、岩波新書『ナンセン伝』第二刷には、発刊の辞があるものとないものとの二種類が存在するようなのである。【この話、さらに続く】

*このブログの人気記事 2015・1・22

 

 

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