礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

娯楽文化の偏在は余りにもひどすぎる

2016-11-22 03:38:57 | コラムと名言

◎娯楽文化の偏在は余りにもひどすぎる

 政府広報誌(情報局編輯)である『週報』第308号(一九四二年九月二日)から、「戦時下娯楽と移動演劇」(署名なし)という文章を紹介している。本日は、その二回目。

真の娯楽文化
 かやうに娯楽文化は、或ひは国民精神を啓培【けいばい】する点からいつても、或ひは国民娯楽として国民の精神生活を更新させる点からしても、さらにまた国策を巧妙に宣伝する点からいつても非常に大きな効果をもつものであります。
 しかし、かうした立派な機能を果すには、当然二つの条件が満されなければなりません。即ちその一つは、娯楽文化自体が国家目的に十分副【そ】つてゐると同時に、芸術的にも優れてゐなければならぬことであります。
 今ひとつの条件は、第一の条件に適【かな】つた立派な娯楽文化が、 一地方や国民の一部に偏【かた】よらないで、全国至る所に普及されなけなければならないことであります。どんなに優秀な文化でも、一部だけに偏在してゐたのでは、その与へる影響は制限されるでありませう。即ち娯楽文化がその本来の機能を余すところなく発揮できるためには、質的にすぐれたものが、量の上ても国民全般に万遍【まんべん】なく提供されることが絶対に必要であります。これでこそ初めて真の国民文化、国民娯楽となるのであります。
 そこで、かういふ見方で、現在わが国の芸術文化の在り方を眺めますと、そこにはなほ多くの不満や欠陥が横たはつてゐることに気付くのでありますが、その中でも、最も著るしいものは、現在の娯楽文化が質の点でも、量の点でも、大都会を中心としたものでありすぎるといふことであります。勿論、昔から文化の中心は都会であつたし、今後ともこのことには変りないと信じますが、しかし、現在の状態は余りにもひどすぎるのであります。若しもこれをこのまゝに放任して置きますと、前に述べたやうな文化や娯楽の働きが、国家の要請に応へて十分に機能を発揮するところまで行かないことになります。
 何故こんな欠陥が出来たか、それにはいろいろ原因もありませうが、その最も重要なものとして、従来の文化や娯楽の営【いとなみ】が、多分に自由主義的な経済機構に依存【いそん】してゐたことを、挙げることが出来るでせう。
 ところが今日、わが国の経済組織は、国家的な見地に立つて編成されつゝあるのでありますから、文化の面においても、国体の本義に立脚した国家観に還り〈カエリ〉、この考へ方に基づいて、新らしい一頁を書き始めることが是非とも必要であります。即ち質の点からいひますと、大都市中心文化の個人主義、自由主義、芸術至上主義に源〈ミナモト〉を発する頽廃的な性格、米英崇拝的な性格を一掃して、ほんたうに日本人の気持にしつくりとした、清く、逞しく、明るい芸能の創造に邁進〈マイシン〉すると共に、この立派なものを大都会だけでなく、日本人全体に普及させ、都会も田舎【ゐなか】もなく、国家全体が文化的に高まり、国力が増進する、といふ方向に進まねばなりません。
 日本の文化は、日本の大都会の人達だけの趣味や嗜好【しかう】の対象になるといふことで終るべきではありません。日本国民全体の生活としつかり結び付き、常に大東亜共栄圏を光被【くわうひ】するだけの本質と機能とを有つものでなければならぬと言ふことを忘れてはならぬと思ひます。【以下、次回】

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