礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

大屋久寿雄、43歳を一期として逝く

2016-10-21 01:19:01 | コラムと名言

◎大屋久寿雄、43歳を一期として逝く

 昨日の続きである。大屋久寿雄の『戦争巡歴』(柘植書房新社、二〇一六年九月)を紹介している。同書の七一五ページに、『時事通信社報』の第八〇号(一九五二・一・二〇)の第六面が、図版として載っている。
 カリエスを発病し、療養中だった大屋久寿雄は、一九五一年(昭和二六)一二月二二日に亡くなった。『時事通信社報』第八〇号の第六面は、すべて、大屋久寿雄の死に関する記事で埋められている。

 大屋久寿雄君逝去
 略 歴 明治四十二年〔一九〇九〕静岡県嘉穂郡に生れ十六歳の時父を亡い、母うめ子さんに伴われて上京、成城学園を卒業直ちにフランスに留学リオン大学文科に学ぶ。昭和八年〔一九三三〕新聞連合社に入り、同盟通信社の発足とともに社会部を担当、十三年〔一九三八〕支那に渡り十四年十五年にかけてパリ、ウイーン、バルカンに特派され、帰国後は社会部、政経部、海外局企画部を務め十九年放送局に転出、対外放送に活躍した。同盟通信社創立と同時に内信部長となり、事業局長に転じ、時事年鑑復刊に当り卓拔な編集企画により大成功をおさめたことはまだ記憶に新しいところ。この間、社業基礎確立のため熱意と才幹を傾けたが、二十三年〔一九四八〕一月、出張先で発病、以来自邸における療養生活に入つた。療養中も、寸時も社業も忘れることなく殆ど連日にわたり意見書いわゆる「大屋レター」を認めて〈シタタメテ〉関係者に送り社業発展の推進役をつとめた。遺族は母堂うめ子さん夫人歌子さん、長男剛人君(一六歳)、長女雄子さん(一四歳)次男毅郎君(一二歳)、三男行男君(十歳)の五人。
 無宗教の葬儀
 闘病四年、再び起つあたわずして大屋久寿雄君ついに逝く。
 十二月二十二日の朝病状急変の報に長谷川〔才次〕さんほか一同が急遽病床に駈けつけたとき手を差しのべて見舞を謝し、更にその日夕刻古野〔伊之助〕さんが見舞つたときは「大丈夫なおりますよ」とハツキリ口をきいていたので古野さんは帰りの車中であの分ではまた持ちなおすかも知れないと一縷の望みを抱いていたほどであつた。しかしその夜十時二十五分、彼は四十三歳を一期〈イチゴ〉としてその生涯を閉じ幽明境を異にしてしまった。
 大屋君は昭和八年十月新聞連合社に入りジヤーナリストとしての第一歩をスタートしてから同盟時事両通信社に勤務してその才腕を揮い、ことにわが社においては編集面のみでなく経営面でも幾多の功績を挙げていただけその死は多く社僚から痛く惜しまれた。
 大屋君の葬儀は二十五日午後二時半から青山斎場で行われた。この日空はどんよりと曇り雲低くたれこめて空もその死を悲しむかのごとくであつた。祭壇には多くの生花の花輪にかこまれて故人の遺影が飾られた。式は無神論者であつた大屋君の遺志に添うべく無宗教葬として営むことになり旧友の一人である私が司会し、まず太田〔三郎〕さんが故人の履歴を朗読、ついで長谷川さんが一千五百の社僚を代表して別項のごとき弔辞を朗読、つぎに大屋君の恩師である元成城学園の創立者で現玉川学院長の小原〔國芳〕先生が弔辞を述べられた。祭壇の前に立つた小原先生は嗚咽慟哭しばしば口を開くこともできない有様で参列者の席からもそちこちで歔泣〈キョキュウ〉の声が聞かれた。つづいて東京タイムス社長の岡村二一〈ニイチ〉さん俳人の栗林農夫〈タミオ〉さん共同通信社会部長の高田秀二さん、わが社の井上勇さんらが弔辞を朗読、つぎに古野さんが大屋君の生涯について思い出話をされその冥福を祈りついで各方面から寄せられた弔電を桂田〔増三〕さんが披露し、最後に遺族を代表して大屋君の令弟菅〔良〕さんがお礼の言葉を述べられ、つゞいて告別式に移り遺児剛人君を先頭に会葬者が順次献花礼拝して四時滞りなく葬儀を終了した。
 この日会葬者は実に四百余名に達し盛儀をきわめた。(浅野豊記)

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