礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

慶応四年の夏、大監察となりて江戸に着きし時

2024-04-03 00:30:10 | コラムと名言

◎慶応四年の夏、大監察となりて江戸に着きし時

 これまで、三条実美(さんじょう・さねとみ、1837~1891)という人物に関心を抱いたことはない。その伝記を読んだ記憶もないが、今回、三井甲之の『三条実美伝』を一読して、この人物が明治維新において果たした役割は、やはり、たいへん大きかったのだろうと感じた。三条実美という人物を軸に、維新史を捉え直してみるのも面白いかもしれないと思った。
 本日は、『三条実美伝』の「一五 三條實美の経歴と思想(五)」の一部を紹介してみたい。

 明治元年正月九日、三條實美は岩倉具視と共に副総裁に任じ、兼外国事務取調掛、議定〈ギジョウ〉如故〈モトノゴトシ〉である。
 十七日職制改革、神祇、内国、外国、海陸軍、会計、刑法、制度の七科を置く。實美副総裁を以て外国事務総督を兼任。二月六日権大納言〈ゴンダイナゴン〉に任ず。
 三月十四日 天皇紫宸殿に出御、親王公卿諸侯を率ゐ天神地祇〈テンジンチギ〉を祭り、五箇条の誓文を渙発せらる。
 一、広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ
 一、上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フヘシ
 一、官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメンコトヲ要ス I、沔來一、旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ
 一、智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ
 我国未曽有ノ変革ヲ為サントシ朕躬ヲ以テ衆ニ先ンシ天地神明ニ誓ヒ大ニ斯国是ヲ定メ万民保全ノ道ヲ立ントス衆亦此旨趣ニ基キ協心努力セヨ
 三條實美は親王群臣と共に左の奉答書を上つた〈タテマツッタ〉。
 勅意宏遠誠ニ以テ感銘ニ不堪〈たえず〉今日ノ急務永世ノ基礎此他ニ出ヘカラス〈いずべからず〉臣等謹テ叡旨ヲ奉戴シ死ヲ誓ヒ黽勉〈びんべん〉従事冀クハ〈こいねがわくは〉以テ宸襟ヲ安シ〈やすんじ〉奉ラン
【一行アキ】
 当時太宰帥〈ダザイノソチ〉〔有栖川宮〕熾仁〈タルヒト〉親王は東征大総督として関東出陣中、親王を除き三條實美を始め在京の親王公卿諸侯署名す。
 御誓文は総裁局顧問木戸孝允〈タカヨシ〉の奏議に基き議定参与をして国是の大綱を言上〈ゴンジョウ〉せしめ、其中より選択起草せしめられしものである。
 二十日車駕〔天皇の車〕京都を発し二十三日大阪に幸し〈コウシ〉、天保山〈テンポウザン〉沖に海軍を親閲あらせられ、實美扈従〈コショウ〉して大阪に滞在、閏〈ウルウ〉四月四日車駕京都還御〈カンギョ〉。二条城に移り万機親裁の令を布く〈シク〉。七日車駕大阪行在所〈アンザイショ〉を発し、八日京都還御、實美扈従す。
 閏四月八日、岩倉具視、小松帯刀〈タテワキ〉、西郷吉之助、大久保一蔵〔利通〕、広沢兵助〔真臣〕、後藤象二郎、吉井幸輔、三條實美邸に会合、徳川氏処分問題を議す。
 三條實美を関東監察使に任じ関東の政務を総裁せしめ、時機を計り実情に応じて徳川処分を決せむとす。参与万里小路通房〈マデノコウジ・ミチフサ〉、江藤新平等實美に従ひ、西郷吉之助亦東下す。實美に賜はりし御沙汰書〈ゴサタショ〉に『総て御委任候』とあり、即ち徳川氏処分について『以至仁之叡慮寛典之御処置被仰出候間、速に東下、億兆人心安堵候様取計可致総て御委任候。且可為関東監察使旨御沙汰候事』とある。
 實美江戸に着して詠歌一首、
    慶応四年の夏大監察となりて江戸に着きし時 
  月と日のみはたのかぜに武蔵野の青人草もうちなびくらむ
 徳川慶喜〈ヨシノブ〉は東帰以来東叡山〔寛永寺〕に蟄居〈チッキョ〉謹慎す。東征官軍三道より東下し、大総督宮〈ダイソウトクノミヤ〉熾仁親王参謀西郷吉之助を従へ駿府〈スンプ〉に着。三月十五日を以て四方より江戸城を攻めむとす。こゝに有名の勝義邦(安房)と西郷吉之助(隆盛)との会見となり平和交渉成立す。〈169~171ページ〉

 若干、注釈する。最初に、「明治元年正月九日」とあるが、正確には「慶応四年正月九日」である。明治と改元されたのは、この年の9月8日である。なお、西暦の1968年は、慶応3年12月7日から明治元年11月18日まで。
 文中、「三條實美を関東監察使に任じ」とあるのは、原文のまま。「関東監察使」を「関東大監察使」、「関東観察使」としている文献も目にした。「御沙汰書」は、天皇の指示や命令であることを示した法令のこと。
 三条実美が「大監察」として江戸にやってきたときに詠んだ歌に、「月と日のみはた」とあるが、これは、陰陽一対の、いわゆる「錦の御旗」のことであろう。また「青人草」は、「あおひとぐさ」と読み、人民を草にたとえた言葉である(民草=タミグサと同義)。
「勝義邦(安房)」は、勝海舟のこと。海舟は号、幼名・通称は麟太郎、諱(いみな)は義邦(よしくに)。幕末に安房守(あわのかみ)を名乗ったことから、勝安房(かつ・あわ)とも呼ばれたが、維新後は、「安房」を避け、「安芳(やすよし)」と改名したという(ウィキペディア「勝海舟」)。

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