礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

排撃者には無抵抗主義で徹底した(成宮嘉造)

2024-04-16 05:40:54 | コラムと名言

◎排撃者には無抵抗主義で徹底した(成宮嘉造)

 成宮嘉造の論文「天皇機関説のゆくえ」(1979年3月)を紹介している。本日は、その四回目。
 本日、紹介するのは、「3.天皇機関説排撃の政治」の章の「第8 台湾の機関説排撃と私への処分」の節の全文である。

第8 台湾の機関説排撃と私への処分
 上述した私〔成宮〕に関する問題に呼応して台湾の右翼浪人某,その他は地方小新聞・雑誌・赤字手紙・総督府への措置要求等で,私の機関説排撃を再三再四,執拗に繰返した.だが,私は彼等は論争相手として不適当と断定し,全く無抵抗主義で徹底した.然し,私を告発する者はなく,大新聞には攻撃記事が全くなかったが,僅かに総督府から昭和10年晩秋に弁明書を求められた.私は仔細に弁明書を認めて提出したが,全然反響がなかった.
 私は貧乏なので,右翼浪人は私と懇親な同郷の宇治原志郎富豪にたかっていた.時に一度,警察から呼出を受けた.出頭すれは,全く意外.警察官は「貴方は右翼ゴロに脅迫されているだろう.そんな時は隣の電話で連絡ください.直ちに参上致しますから」と,好意的であった. 
 私は,翌年〔1936年〕3月末までに依願退職する旨を懇切な切田太郎〈キリタ・タロウ〉校長に表示していたし,排撃者に完全無抵抗主義であったのと小粒なので,次のような直接行動とは無縁であった.
 貴族院で美濃部博士の一身上の弁明に拍手した小野塚喜平次〈キヘイジ〉・伊沢多喜男〈イサワ・タキオ〉・織田萬〈オダ・ヨロズ〉・田中館愛橘〈タナカダテ・アイキツ〉につけられた警察護衛,美濃部支持者と見られて襲われた芦田均〈アシダ・ヒトシ〉,3月23日一木枢密院議長邸を襲うた菊地大八(当時21歳)やその教唆者・藤吉男(当時30歳),美濃部博士宅は警官多数で護衛されていたが10月30日暗殺予備で検挙された樋口敏雄(当時21歳)・翌年2月21日美濃部博士を狙撃した小田十壮(当時31歳)等のような心配は私にはなかった.

「美濃部博士を狙撃した小田十壮」とあるが、小田十壮は、美濃部達吉を狙撃していない。たしかに小田は、ピストルで美濃部を狙撃せんとした。しかし、その弾は美濃部に当たっていない。美濃部に当たった弾は、護衛の警官が犯人を撃とうとして放った弾だったらしい。当ブログ記事「美濃部達吉銃撃事件の真相」(2017・5・3)参照。

*このブログの人気記事 2024・4・16(8位の藤村操は久しぶり、9・10位に極めて珍しいものが)

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