礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

天皇機関説が問題となったのは、今度で二度目

2024-04-06 00:13:48 | コラムと名言

◎天皇機関説が問題となったのは、今度で二度目

 二十年以上前のことだが、東大正門前の伸松堂書店(古書店)で、鈴木安蔵著の『明治憲法と新憲法』(世界書院、1947年4月)を買い求めた。
 最近になって、この本を手に取った。時代を反映して、紙質が悪く、印刷も鮮明でない。しかし、内容は非常に充実している。文章が高度に論理的で、説得力に富んでいる。
 本日以降、同書第二章「明治憲法学の史的考察」から、その第二節「天皇機関説論争の経緯」の全文を紹介してみたい。この文章の初出は、『改造』の昭和十年四月号だというが、初出との異同は、確認していない。
「天皇機関説論争の経緯」は、「一」から「四」までの四節からなるが、本日は、そのうちの「一」を紹介する。

      第二節 天皇機関説論争の経緯
        
 美濃部〔達吉〕博士の立憲主義的憲法学説、特にその基礎概念たる国家法人説・天皇機関説が広く問題となつたのは、今度で二度目である。
 明治四十五年〔1912〕三月、今日では歴史的文献となつた博士の「憲法講話」の初版が公刊されたが、周知のごとく、これを「國體に関する異説」として直ちに激越な批評を加へたのは、天皇主権説の熱烈な祖述者たる故上杉慎吉博士であつた。これより先き、四十四年〔1911〕十二月、上杉博士の「国民教育帝国憲法講義」が刊行されたのに対し、四十五年五月、美濃部博士は、「一言したいのは著者は常に君権主義、官僚政治主義を抱懐せられて居るといふことで、此の書に於ても亦此の主義を宣伝せんと欲せられた形跡は到る処に之を見ることが出来る」との見地から、上杉博士の国家概念、天皇主権説等について痛烈な批評を加へたのである。これらを導火線として、美濃部・上杉両博士の論駁弁難に加ふるに、故市村光恵〈ミツエ〉博士の「上杉博士を難ず」、故井上密〈ヒソカ〉博士の天皇主権説の主張、織田萬〈オダ・ヨロズ〉博士の国家法人説支持、また故浮田和民〈ウキタ・カズタミ〉博士は「無用なる憲法論」として、美濃部説に理解ある立場から調停を試みる一方、天皇主権説の創始者として終始これがために戦つて来た故穂積八束〈ホヅミ・ヤツカ〉博士は、天皇機関説のごとき「皇位主権否認論が今にして流行すること」しかも「異説その者よりも平然之を迎へて怪まざる」のみならず、これに拍手を送るもの多き教育界新聞雑誌界の風潮を慨して、「國體の異説と人心の傾向」を、その逝去直前発表する等々、論争は翌大正二年〔1913〕夏にいたるまで一年前後にわたつて学界論壇の中心問題となつた。
 この論争は、「どちらが勝とも負とも結着がつかぬ内に、時勢はドンドン進んでしまひ、」「天皇機関説は今日ではもう問題はなく当然を通り越した程当然なこと」と、後に一学者が述べてゐるやうに(昭和二年〔1927〕九月、中島重〈シゲル〉博士「日本憲法論」序)、少なくとも学界内部においては、国家法人説・天皇機関説は、主流的定説的原説となつたと言つていい。美濃部博士自身「憲法撮要」「憲法精義」によつて自説の体系化をはかられたが、市村博士の「帝国憲法論」「憲法精理」、森口〔繁治〕博士の「憲政の原理と其運用」、佐々木惣一博士の「日本憲法要論」、野村淳治博士の「憲法提要」等、何れも、この説を採用し説述してゐる。それに対して、上杉博士の「帝国憲法述義」以後の全著作、清水澄〈トオル〉博士の「国法学第一編憲法篇」「帝国憲法大意」その他、松本重敏〈シゲトシ〉博士の「忠君論」「憲法原論」「憲法真義」、佐藤丑次郎〈ウスジロウ〉博士の「帝国憲法講義」等は、それぞれのニュアンスを有しつゝも何れも天皇機関説を排して天皇主権説を主張してゐるが、天皇機関説が漸次学界主流の優越的地位を占めて来たことは疑ひない。
 この外〈ホカ〉筧克彦〈カケイ・カツヒコ〉博士のごとく、古神道や大乗仏教の教理を憲法法理の基礎に取り入れて、天皇を天照大御神〈アマテラスオオミカミ〉の延長とし、現人神〈アラヒトガミ〉であるとする「汎神教的多神教的テオクラシー」の憲法論を試みる学者もあつたが、この種の学者は、学界には殆んど他に絶無であり、公法学界は、国家法人説・天皇機関説以外の学説を最早や過去のものとして、その主要関心を、この国家法人説・天皇機関説自身の科学的不充分さの克服、その意味での再解釈、あるひは国家概念、主権概念の学理的再整理に向け、現に、この課題解決の試みは、諸種の立場から諸学者によつて企てられてゐるのである。
 しかるに昨今、全然学界の外部から、天皇機関説排撃が叫ばれ、日本憲法法理の説明としては天皇主権説のみが正しいと強調力説し、これを国家公認の統一的学説たらしめようとする政治運動が展開されて来た。この際嘗ての主権論争を回顧し、それの根柢に横はる根本見地、政洽的立場について若干の考察を試みたいと思ふ。*

 *上杉博士対美濃部博士論争記録の主要なるものは、星島二郎「上杉博士対美濃部博士最近憲法論」に蒐収されてゐる。
 なほ大正二年〔1913〕三月四月五月「東亜之光」掲載の美濃部博士「所謂國體論に就いて」は同博士の「時事憲法問題批判」に所収。
 以上の記録の外、美濃部博士の所説については、論争の契機となつた前述「憲法講話」初版本、上杉博士の所説については前述「帝国憲法講義」および論争後の大正三年〔1914〕十二月、前著を基礎として発表せる「帝国憲法述義」を主要典拠とする。

 ここまでが、「一」である。

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