礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

約五百機のB29が東京を空襲(1945・5・25)

2016-05-25 04:53:19 | コラムと名言

◎約五百機のB29が東京を空襲(1945・5・25)

 この間、中村正吾秘書官、および黒木勇治伍長の「日誌」によって、七一年前(一九四五年)の「今ごろ」の出来事を紹介している。出典は、それぞれ、中村正吾著『永田町一番地』(ニュース社、一九四六)、および黒木雄司著『原爆投下は予告されていた』(光人社、一九九二)である。
 本日は、『原爆投下は予告されていた』から、五月二五日から二七日までの日誌を紹介する(一四四~一四九ページ)。なお、『永田町一番地』は、五月一四日のあと、六月四日まで、日誌が飛んでいる。

 五月二十五日 (金) 晴
 午前八時、勤務に上番。下番者田原候補生は、
「前勤務老田中候補生の申し送りでありますが、昨日午後十時のニューディリー放送によりますと、(一)昨日、米軍艦載機約二百機は南九州の航空基地を空襲し銃爆撃を加えました。(二)昨夜午後八時ごろ、沖縄読谷【よみたん】飛行場に日本特攻隊機が八機進入し来たり、七機は着陸寸前に撃墜されたが、一機は胴体着陸したるも全員死亡した模様。撃墜機が米軍機の中に墜落したるもの多く、約二十機あまりの損害を出したと報じておりました。以上であります」
 午前八時半、隊長、上山少尉があいついで部屋に入られる。
 午前九時、ニューディリー放送が流れてくる。
 ――こちらはニューディリー、ニューディリーでございます。信ずべき情報によりますと、昨夜から今朝未明にかけてB29約五百機は東京、川崎、横浜にかけて空襲し爆撃致しました。繰り返し申しあげます。…………。――
 隊長「昨夜だったか、日本から攻撃は八機で、敵さんは五百機と桁が違うなあ。日本ももっと飛行機が欲しい。それにガソリンも欲しい。対等なら勝てるんだが、この戦さの差異は、生産量と補給量の違いだ」
 上山少尉「隊長のおっしゃる通りです。おそらく戦うはじめには己れを知り、敵を知って、まず対等か対等に近い状態であったと思います。いざ戦争になって武器・弾薬はじめ消耗品の大量生産と補給路線の艦船やそれを守る航空機の大量生産をやった国と、はとんどの生産資源を海外に依存し、海外からの輸入が止まれば生産量はどんどん減り、消耗品の油にいたっては南方からの輸入でまかない、国内生産の新潟油田は、ほんの数バーセントのわずかなもの。飛べる飛行機まで燃料を大事にといわれれば、片道燃料でとか片肺燃料でという言葉ができるくらいで、燃料だけは飛行機には遠慮なく飛べるように使わしてやりたい。海軍では戦艦でたしか、榛名、伊勢、日向、長門、空母では隼鷹〈ジュンヨウ〉、葛城〈カツラギ〉と残っているはずだが、燃料がたくさん要るので動けないとか。戦艦は浮かぶ砲台の役目しかできないと聞いた。どんな時代になっても、生産第一なんです。戦争には負けてないんですが、ただ今のところ生産に負けています。生産の皺奇せが戦争に来ています」
「よしわかった」といって、隊長は席を立って出られた。上山少尉は、歯を食いしばってやや興奮した模様。
午後一時ベル。――こちらは聖岳、聖岳コンドル〔B29〕十羽、浅間山に向けて進行中――「了解」聖岳とは四会【スーホイ】のことである。三日ぶりか。それにしても西北の綏江【スウイコウ】沿いの四会から入って来るのは珍しいと思いつつ発信ベルのボタンを押して放送する。「各所! 各所! 聖岳より浅間山に向けてコンドル十羽、進行中」――
了解。了解と声つづく。【中略】
 午後四時下番。今日は疲れたという気分。水浴をしようとドラム缶の入浴場に行ったら、ドラム缶一杯の水が太陽光線で湯になって、とくに上の方は熱いくらい。よく混ぜて入ったら、ちょうどよい湯加減、だれがやってくれたか多謝多謝【トーチエトーチエ】だ。
 田原が午後五時すぎに食事のために起きて来て、
「班長殿、入浴されましたか」と聞きながら昼食を食べている。
「ああ入ったよ」
「熱さはどうでした?」と聞く。
「ああ貴様が入れてくれたんか。多謝多謝だ」
「今朝下番したときにもう暑いんで、ドラム缶に水を入れておけば熱くなるかと思って入れました。熱さはどうでした?」
「上は熱くて、よく混ぜたらちょうどよい塩梅でテンホーテンホー〔天和、天和〕だったよ」
「後で自分も入らせてもらおう」
 
 五月二十六日 (土) 晴
 午前八時、勤務に上番する。下番者田原候補生は、
「前勤務者田中候補生の申し送りでありますが、(一)午後四時上番直後の午後四時五分、オオハクチョウ(P38)二羽(二機)が陽江にあらわれ、海曇【ハイエン】、広海【コウバイ】、平沙【ピンサー】、斗門と海岸線を東行し、湾岸の線に添って飛行した模様で、直線百キロを一時間近くもかけ、さらに珠海、香港と飛行し、香港から北上して深?に、深洲から北東に向け恵州に飛び、最後は午後六時二十五分、河源から北に脱去しております。(二)昨日午後十時のニューディリー放送によりますと、昨二十五日、B29約五百機は東京を空襲し、爆撃したということであります」
 報告を聞いて驚く。昨日B29が、珍しくも十機も広東を空襲し銃爆撃を加え、一方、午後四時すぎから南方海岸線から広東を中心に円を書くように深?、恵州、河源と北東に脱去したというが、かりに一時間でも重なっていたら、放送がどうなっていたかわからない。
田中に勤務に着いた早々で、ご苦労さんといってやりたい。
 一方、東京の空襲、二日連続五百機のB29なら、焼野ヶ原になるのではないだろうか。皇居は大丈夫だろうか。内心気になるが、質問すらできない。陛下はどこか安全な山の中にお移りになられた方がよいのではと思ったが、そんたことはとても口に出してはいえない。隊長も上山少尉も、自分以上に陛下のことについては心配されているはずだ。【中略】
 午後四時、勤務下番する。今日も田原が作ってくれた太陽の自然熱による入浴をさせてもらう。壮快なることこの上なし。そのうえ、お湯で洗濯すると、よくおちるように思う。
 
 五月二十七日 (日) 晴
 昨日までが二勤であったため、今日は休日である。休日なれば朝もゆっくりしていればよいのに、七時半すぎにはもう起床した。
 洗顔をすませて朝食をしていると、田原が下番して来た。田原は今日は三勤の勤務があるので、早く休ませてやらねばと思っていたが、つい口から、
「何か変わったことはなかった」と聞くと、
「前任者田中君が昨晩勤務のときにニューディリー放送で米統合幕僚長会議が一昨日(六月二十五日)に開催され、その席上、日本本土上陸作戦についての議題が討議されたと報じておりました」
「隊長殿はご存知か?」と聞けば、
「田中君のメモが報告書として隊長殿の机の上においてありました。放送はおそらく聞かれていると思います。本日、隊長殿が情報室に入られない場合でも、上山少尉殿は入られ、見られて報告される思います」と答えてくれた。
「よしご苦労。貴様は今目は三勤だから早く休め」といって休ました。
 沖縄戦の最中に何をいうのかという気持と、九死の中に一生を見出せるのではなかという期待とが交錯する。【中略】
 午前十時ごろ、もう三十度から三十二度くらいだ。正午を過ぎれぽ三十六~三十八度、体温をはるかに超える。こんな昼にはボサーとして煙草でも吸っている以外に手はない。勤務の方がずっと楽だ。
 午後四時、下番して来た田中に聞くと、
「今日はまったく静かでした。ただ午前九時、ニューディリー放送で、昨日(五月二十六日)、チャーチル英国首相が、『英国は米国と協同して一切の困難を切り抜け、日本に当たらねばならない』と演説したと放送しました」と報告してくれた。
 今にして思うと、ドイツの敗戦はあまりにも痛手だった。だれが独伊の敗戦を予想したであろうか。戦争とは最悪の場合を考えて動かねばならないものだ。明日は午前零時からの勤務なので、夕食後は早くから横になる。

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