礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

山本有三の『戦争とふたりの婦人』と「ふりがな廃止論」

2012-11-03 06:03:02 | 日記

◎山本有三の『戦争とふたりの婦人』と「ふりがな廃止論」

 昨日、神田神保町を訪れた。第五三回「東京名物神田古本まつり」の最中である。歩道上に並ぶ陳列台には目もくれず、古書会館で開かれている古書展に直行した。
 いくつか「掘り出し物」を見つけたが、まずご紹介したいのは、山本有三の『戦争とふたりの婦人』(岩波新書)である。戦前の赤版、一九三九年(昭和一四)の初版が一〇〇円であった。
 この本は、その巻末に、「この本を出版するに當って―國語に対する一つの意見―」、および「『ふりがな廃止論』とその批判」というふたつの文章が付されている。そして、この本は、このふたつの文章が載っていることによって注目されてきた。
 同書の「はしがき」によれば、岩波新書版『戦争とふたりの婦人』は、一九三八年(昭和一三)五月に出た岩波書店から出た単行本、および同年八月に出たその改訂版を、新書という形で「改版」したものである。「『ふりがな廃止論とその批判』へのまへがき」は、新書に入れるに際して追加したものであるという。ちなみに、単行本のほうのタイトルは、『戦争と二人の婦人』だったようだ。
 「この本を出版するに當って―國語に対する一つの意見―」の一部を、以下に紹介する(一五二~一五四ページ)。

 次に、このなかの文章について、ちょっと述べておきたいと思ひます。私は考へるところがあって、この書物では、いっさい、ふり假名を使はないことにいたしました。ふり假名をつけないといふことは、ことさらお断りをするほど、特別な書き方ではありません。國民が守らなければならない法律の條文には、ふり假名がありません。学者の書く論文にもありません。しかし、かういふ文章は、殘念ながら大多数の國民には讀めません。もっとも、学術上の研究論文のやうなものは、特殊のものですから、いっぱんの人に理解出來なくっても、やむを得ないと思ひますけれども、國民が日常知ってゐなくってはならない法律のやうなものが、現在のやうな文章であることは、どういふものでせう。もう少し民衆に親しめる、分りよいものにはならないものでせうか。
 また、「改造」や「中央公論」のやうな雜誌に出てゐる文章には、ふり假名がついてをりません。ふり假名をつけない点は、私も大いに賛成なのですが、あれに載ってゐるものの大部分は、かなりむづかしい文章なので、いっぱんのものは手に取らうともしないやうです。もちろん、かういふ雑誌は知識階級を讀者とするのであって、大衆を相手にするものでないのでせうが、もともと、専門の学術雜誌でないのですから、もう少し書きやうがあると思ひます。あの中には、たいへん立派なものがいくらも載ってをりながら、――さういふものこそ、おほぜいの人の目にふれなくってはいけないと思ふものがありながら、文章が固いために、一部の人にしか讀まれないのは、實に殘念なことです。よい論文、よい作品といふものは、知識階級にだけ讀まれゝば、それでよいといふものではありますまい。文章をやさしく書いたからといって、執筆者の品位や、雜誌のがらが落ちるものでは、断じてありません。
 しかし、どういふものか現在では、かういふ雜誌に書く人の文章には、むづかしい文字がたくさん列んで〈ナランデ〉ゐます。むづかしい文字をたくさん知ってゐることが、そのわざはひの一つかもしれません。そこで國民の大多数はさういふものを讀みません。讀まうと思っても、よく讀めないからです。彼らが好んで手にするものは、いつも、ふり假名のついかものです。「これはやさしい。ふり假名がついてゐるから。」なぞといって、實は相當むづかしい文章であるにもかゝはらず、漢字の横に假名がふってあると、安心して取り上げます。假名の持つ柔かさが、彼らに親しみを与へるからに相違ありません。わが國の常識では、假名のふってないものはむずかしい文章で、これは大衆の讀むものではない、大衆の讀むものには、必ず假名がふってあるものと、こんなふうに思ひこまされてゐるやうです。

 とりあえず、本日はここまで。ここまでのところでは、まだ鮮明になっていないが、要するに山本有三の主張は「ふりがな廃止論」なのであって、多くの人の目に触れるような文章を書く人は、ふりがなを振らなくてもわかるような、読みやすい文章を書くべきだということを、彼は主張しているのである。
 すでにお気づきと思うが、ここで山本は、きわめて口語的な文体を用いている。「ゐなくってはならない」、「ふれなくってはいけない」などである。ここは、引用の際の誤りではなく、原文のままである。
 また、「ちょっと」、「いっさい」なども原文のままである。あえて、「ちよつと」、「いつさい」というふうに表記せず、小さいかなを混ぜた表記法を採用している。
 さらに、「学者」、「大多数」、「賛成」、「与へる」などの漢字は、このままのものを使っている、すなわち今日でいう「新字」を使っているところにも注目したい(上記の引用では、原文がいわゆる「旧字」になってるところは、旧字にしてある)。ただし、「与」という新字は、今日のものとは異なる異体字になっている。
 すなわち山本有三は、ここで、当時としては、きわめて斬新な実験を試みているのである。 山本の「ふりがな廃止論」は、カナモジ論や漢字廃止論に比べれば微温的であった。しかし、それだけに現実的な議論として、大きな反響を呼んだのである。
 戦後の山本が、国語審議会にはいって、「国語改革」を推進したことはよく知られているが、そうした彼の国語改革論の原点は、一九三八年の『戦争と二人の婦人』、あるいは一九三四年の『戦争とふたりの婦人』にあったといってよいだろう。
 余計なことを言うようだが、上記の山本の文章に、二三コメントする。ここで山本は、たしかにふりがな(ルビ)を使っていない。しかし、その趣旨を活かすのであれば、「ふり假名」は、「ふりがな」と表記すべきであった。「ふり假名」のままだと、「ふりかな」か「ふりがな」かという判別ができない。「実に残念」の「実に」も、「まことに」か「じつに」か判別不能である。「列んで」は、ふりがなでも振らないと読みにくい。さらに、「雜誌のがらが落ちる」の「がら」に、傍点「、、」が施されているのは、趣旨に反すると言うべきだろう。

今日の名言 2012・11・3

◎この書物では、いっさい、ふり仮名を使はないことにいたしました

 山本有三の言葉。『戦争とふたりの婦人』(岩波新書、1939)の152ページに出て切る。上記コラム参照のこと。

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1 コメント

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2012-11-03 09:41:10
『和漢洋諺』の諺・名言おもしろく拝見しました。

洋諺からですと、
○珍談も再び語れば味ひなし
 →小生、ブロガーのはしくれとしては実感あり。
○学問は金庫、練習は鍵
 →『練習』は勉強、研究、『学問』はその成果、ということでしょうか。
「生涯一書生」に通じそう。
○名誉は徳行の給金
 →徳を積まずして、地道な仕事の苦労を経ずして、簡単には出世できないものです。(汗)

漢文の諺から、
○局に当たる者は迷ひ、傍観する者は清し
 →自分のことは置いといて、人の批判ばかりする人がいます。
また、自分の為すことにはいっさい無謬がなく、迷いもないとする(ように感じられる)
  どこかの知事もいましたね。

*いわゆる「ことわざ」の中でも、わたしは名言、格言など教訓を垂れるものに興味があります。
自分の成長のためになる、と思うからです。
しかし、これを誰かに「お説教」として言われるのは大嫌いです。
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