礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

伊藤克の自伝『悲しみの海を越えて』

2014-12-21 08:09:00 | コラムと名言

◎伊藤克の自伝『悲しみの海を越えて』

「尚賢の孫」様から、今月一四日にいただいたコメントによって、ネット上に「中日の懸け橋となった日本女性伊藤克の生涯」という記事があることを知り、さっそく読んでみた。執筆しているのは、文潔若さんという中国人の女性翻訳家である。生前、伊藤克と交流があり、一九八二年一二月には、日本に伊藤克の家を訪ねて、出版されたばかりの『悲しみの海を越えて』を贈られている。
 文潔若さんの記事を読み、その後、『悲しみの海を越えて』にもザッと目を通してみたが、文潔若さんの記事のうち、伊藤克の経歴を紹介している部分については、『悲しみの海を越えて』に依拠しているところが多いようである。
 文潔若さんの記事を少し引用させていただく。

 この年の12月、長く中国で暮らした、日本文学の女性翻訳家、伊藤克の自伝『悲しみの海を越えて』が出版された。この本は本当のことが書かれていて、感動的であり、正直で善良な一人の日本女性が率直に自分のことを書いたものである。
 伊藤克は1915年に東京で生まれた。13歳のとき、医者をしていた父親が亡くなり、残された少しばかりの財産は、叔父に騙し取られてしまった。そのため彼女は学校を中途退学し、デパートの店員や母校の淑徳高等女学校、丸の内ホテルなどで働かなければならなかった。当時の日本は、大学卒さえ失業するほどで、彼女のような若い娘がどうやって、未亡人となった母親や弟、妹を食べさせていったらいいか、それは容易なことではなかった。
 絶望のどん底で苦しみもがいていたとき巡り会ったのが蔡であった。蔡の父は華僑で、大阪でレストランを開いており、母は日本人だった。蔡は大阪帝国大学の冶金科を卒業し、自分の技術を貧しく遅れた祖国のために役立てたいと真剣に考えていた。
 伊藤の父は、生前、中国が好きだったから、彼女に漢文を教えた。それで彼女は小さいころから中国に対して深い思いを抱くようになっていた。蔡と結婚したあと彼女は、1936年、非常に苦しい状況にあった中国に渡った。

 ここに、「医者をしていた父親」とあるが、父親の名前は出てこない。これは、伊藤克の自伝『悲しみの海を越えて』についても同様である。
 実は、講談社から出版された同書は、伊藤克の自伝の一部分しか収録していない。彼女が書いた自伝が膨大なものになってしまったので、「出版社側の希望にそって」、日本時代を描いた部分すべてを割愛したのだという。
 おそらく、この割愛され部分には、父・伊藤尚賢のことも、紹介されていたことであろう。
 なお、「尚賢の孫」様から、今月一〇日にいただいたコメントによれば、伊藤克の死後、克の娘の手により、中国で『悲しみの海を越えて』が出版されたという。ここには、「大塚の医院の様子などが描写されている」ということなので、日本時代を描いた部分を含む、いわば「オリジナル版」が出版されたということであろう(ただし中国語)。
「尚賢の孫」様には、同書中国版の出版年月、出版社、翻訳者などを御教示いただければさいわいである。

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コメント (3)
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