住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

木村泰賢博士著『大乗仏教思想論』に現実的輪廻論を学ぶ

2018年11月04日 16時54分15秒 | 仏教書探訪
先ず『Wikipedia』より、博士の略歴をご覧下さい。
「1881年に岩手県に生まれる。幼名二蔵。酒屋で小僧修業の後、東慈寺に貰われて出家。1903年に曹洞宗大学林(現・駒澤大学)を卒業し、東京帝国大学に進学し、高楠順次郎に学ぶ。1909年に首席で卒業し[2]、日露戦争に従軍。曹洞宗大学講師、日本女子大学講師、東京帝国大学講師、同助教授を歴任、1920年頃にイギリスに国費留学した後、1923年に教授に昇任。『阿毘達磨論の研究』で東京帝国大学より文学博士。東京帝国大学印度哲学講座の初代教授。1930年、在職のまま心臓病のため死去。」

手元の『木村泰賢全集第六巻・大乗仏教思想論』は、昭和42年に大法輪閣にて再版されたものである。昭和11年5月、49才で亡くなられて、7回忌の折に博士の諸論文を全集として刊行することが決まり、その際に、『解脱への道』、『真空より妙有へ』など大乗仏教関係の諸論文を収録したという。再読し傍線をいれた、生死輪廻に関する箇所を中心に抜き書きし、私なりに学び取ったことを補足してみたい。

「止みなき苦悩を繰り返すと考えられた輪廻に対しても大乗と小乗と趣きを異にする。小乗にては、輪廻を止息することを思想としたのに対して、大乗は輪廻によるが故に吾らは無限の向上を期して永遠に渉って修行することができるのであるから、修行の立場からするかぎり輪廻は菩薩の本願実現の必須条件であると見るに至ったのである。」193頁

輪廻というのはお釈迦様によれば苦の連鎖であり、はやく抜け出すべきところである。その苦しみの連続である輪廻から解脱するために教えがあり、修行があるとされたきた。しかし、大乗仏教では、無限の向上を目的として修行を続けるために、つまり利他行を修するためには、輪廻は必要なものなのだというのである。死んで訳の分からないあの世に逝くとか、年忌法要を経て仏になるなどということは決してあってはならないということなのであろう。なぜなら大乗菩薩の誓願は自ら涅槃に趣く前に一切衆生を救済することなのであるから。

「菩薩道の主な特質は、
一在家道と出家道とを止揚した立場に立ち、いやしくも大菩薩心を起こし無我心と愛他心とをもってするかぎり、あらゆる行願が悉く衆生の救済と自己の完成とに回向されるという思想の上に立つこと。
二、限りない輪廻も畢竟するに菩薩の行願を修すべき経過で、一歩一歩、仏陀たるべき功徳を積む階段と見る思想の上に立つこと。
三、一切衆生は悉く菩薩として将来に成仏する可能性あり、したがって何人も菩薩の誓願を起こすべきことを最後の理想とすること。
四、衆生無辺誓願度の約束のいたすところ、衆生と共に浄土を建設するのを理想とすること。」302頁

大乗仏教徒とは、自らを在家も出家も超越した菩薩としてとらえ、他の者とともに成仏すること、つまり悟りを得ることを人生の理想とし、その理想を実現するために、何度も何度も輪廻し、生まれ代わりながら菩薩として功徳を積むために尊い命を生きていると捉えるべきなのであろう。

「この(不住)涅槃は輪廻と解脱とを止揚した思想で、輪廻の世界にありながら、それは他力的に運命のために束縛された結果ではなく、むしろ輪廻すなわち現実界のままながら衆生救済の自由活動であり、解脱を理想としながらも無余涅槃のごとく休止した状態ではなく、いい得るならば、永遠に輪廻しながら永遠に解脱しつつある当体である。すなわち仏陀が菩薩として活動されたその活動を永遠化した考察と解すべきである。・・・大乗仏教で生死即涅槃とか治生産業皆是仏法などというのは正しくはこの不住涅槃の消息を明らかにしたものに外ならぬ。」350頁

不住涅槃という言葉があるという。解深密経、入楞伽経などから用いられようになった熟語だという。悟ったまま輪廻してくいということなのだが、涅槃とは解脱であるから、輪廻から抜けて生まれ代わらないことを言うので、不住涅槃とは菩薩として悟ることはできる機根がありながらも、一歩手前で悟らずに輪廻を続けていくことであると解釈すべきであろう。

「仏陀に従えば、吾らは生まれながらにして、前世の業によって、すでに一定の性格を帯び来たれるものである」365頁
「智慧の修練によって宿業による性癖または気質の制せられることは、あくまで仏陀の認められたところで、かの教誡の原則もこれを除いては他に求めることができないのである。仏陀が始終情執を離れて物を如実に認識せよと教えたのも所詮吾らをして必然より自由に解放する道は、いわゆる如実智見によって、その先天的性格を改造する外になしと信じたからであった。」362頁

私たちはみんな前世の業によって、それぞれに性格、性癖、気質を持って生まれてきている。そのとらわれた状態のままに生きていたら、自らにも社会的にもよろしくないのであって、身勝手に、自分の欲望のままに、都合の良いようにものごとを見ることなく、ありのままに見て、自らの心をも観察していかねばならないと言うことであろう。

「菩薩の一員として私たちの建設すべき浄土は将来にありとすれば、その具体的完成もまた遼遠のかなたにあるべきや勿論である。・・・具体的浄土は決して一日に完成するものではない。私たちは生を代え身を代えて、いわゆる無窮の輪廻に渉り、ただ偏えにこの目的のために努力する覚悟がなくてはならぬ。・・・菩薩道の精神からすれば、涅槃に入ることはあとのあと廻しとして、むしろ自ら志願して常に生死に輪廻して生々世々に渉って一歩ずつたりとも最高理想の実現に何物かを寄与し得る機会を得た方が却って涅槃に入るよりも生活上意義あることと考えられているのである。」415頁

大乗仏教、特に戦後日本仏教は、輪廻などない、死んだらみんな仏である、浄土に往生する、曼荼羅の世界に入る、などと耳障りのいい言葉を重ねてきたのではないだろうか。先にも申したとおり、大乗菩薩の使命は一切衆生の救済にあったのではないか。なれば、死んで仏や浄土に身罷るのではなく、やはり輪廻してまた人間界に還ってきて、ともにこの世に浄土建設のため功徳を積み、多くの人々を導くべく、仏教徒として再生してもらうべきなのではないかということである。

「かく浄土より再び戻って、下化衆生に従事するのを本願思想の進歩であるとすれば、浄土も畢竟するに一種の輪廻界ではないかという問題が起ころう。何となれば、往生して再び戻るには、生死の道を経る外に道がないからである。・・・浄土往生の思想は生天思想と密接な関係のあることは争われぬ事実である。」470頁

往生とは往きて生きることだという。浄土思想は生天思想と密接な関係があるとあり、往く先の浄土とは、天界のどこかということなのであろうか。天界なのだから余程寿命は永いとは思われるが、いずれは下界に堕ちるときがくる。浄土から人間界に還ってくる際には輪廻により死後生まれ代わってくるということなのである。

「浄土なる境界を小乗教理に対比すれば、その四果中、第三の不還果に相当するもので、ある意味からすれば、第三不還果の聖者が上天して、そこで入涅槃するという思想を通俗化し積極化したものということもできよう。したがって涅槃と輪廻とを判然と対立せしめるかぎり、未だ真の涅槃に至らない浄土の身分は輪廻界に属するものといわねばなせぬ。」471頁

四向四果という悟りの階梯がある。その中の不還果の聖者とは、天界に生まれ代わり人間界に転生することなくそのまま涅槃に入るとされる、かなり勝れた瞑想の境地を得た人たちのことである。この考え方を発展されたものが浄土思想であるということなのだが、つまり浄土とは未だ六道輪廻の中ということなのであろうか。

「我々は七度八度ではなく、限りなしに死に代わり生まれ代わって弥勒の世界を造る必要がある。・・・無窮の輪廻をたどって、弥勒の浄土の出現を促すのだ、弥勒浄土に何物かを寄与するのだとしたならば、生死すること自身は既に菩薩道の活用でありまして、これを願生輪廻ともいい、または不住涅槃と名づけるのであります。」499頁

56億7千万年後に出現するとされる弥勒浄土のために、その時のためにこの現世に浄土建設のために寄与すべく何度も輪廻することが菩薩としての役目だという。

「序文 著者の人生観は言い得るならば永遠を理想としての解脱主義である。一切は永遠に解脱し行く過程で、而も一切を永遠の解脱に向ける所に人生の価値が存する、というのは著者の主張である。」

最後に、同博士著『解脱への道』(昭和10年甲子社書房刊)の序文の冒頭である。著者の人生観として書かれているが、まさに仏教徒とはこのように生きる人たちのことなのではないかと思う。すべてのものは解脱する過程にある。一切の生きとし生けるものたちを解脱させんがために自分の人生がある。ということであるが、この世は解脱のためにある。つまりは悟るために人生あり、いのちありということであろう。

お釈迦様を人生の理想、目標として生きるとはそういうことであろう。悟るためにこそ人生があるとするのである。だから、人身受け難し、仏法遭い難しという。人間に生まれたからにはせっかくの機会を不意にしてはならないと考えるのである。解脱とか、悟りとか、難しい言葉を使うのでいけないが、悟りとは最高の幸せであり、究極の喜び、なにものにも代えがたい人間としての頂点、完璧な完成した人格、最高の財産。

それらを私たちの身近な目標なり、人生の理想像の先の先にあるものとして生きる。人生の様々なことは皆そのためにこそある、いろいろな経験を通して人として成長し、徳を積み、学び、心を養う。その先にお釈迦様の悟りがあり、そこに近づいていくべく生きる。間違いを犯したとしても、それも一つの人生の経験として何かしら先々の糧となるものと受け取る。何度生まれ代わっても、悟るために頑張るというのが仏教徒の生き方ではないかと思う。そのことを正に博士が亡くなる前年に出された著書の序文にお書きになっているのである。


にほんブログ村

にほんブログ村 地域生活(街) 中国地方ブログ 福山情報へにほんブログ村

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 雲照大和上遺墨展によせて | トップ | R.ゴンブリッチ博士著「ブ... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

仏教書探訪」カテゴリの最新記事