ささやんの天邪鬼 座右の迷言

世にはばかる名言をまな板にのせて、迷言を吐くエッセイ風のブログです。

イエスを磔にしたのは、沖縄県民なのか

2019-03-21 11:32:28 | 日記
辺野古移設工事をめぐる沖縄県民投票の、その結果が出てからも、政府擁護派の悪あがきは続いている。ローラが辺野古基地反対の署名を呼びかけたことを、憶えておいでだろうか。(ネットでの)この署名運動を主導したのはロバート梶原氏であるが、その彼が今、(安倍政権の意を体した?)沖縄県警の嫌がらせを受けているという(琉球新報3月13日《ロバート梶原さん「容疑者扱い」 辺野古署名呼び掛け人の関係先を沖縄県警が訪問》)。

また、元航空自衛官で評論家の潮匡人なる人物の言動も、安倍政権の意向を「忖度」したものではないかと私は勘ぐっている。この人物は、ラジオ番組に出演して、次のように発言したという。「その(辺野古移設工事ノーの)民意とは、そんなに素晴らしいものなのかという疑問を私は抱きます」(ニッポン放送3月20日)。

潮氏は自らの見解の根拠として、なんと「イエス・キリストが十字架につけられたときに、その周りにいた民衆がそれを支持したこと」をあげている。キリスト教徒である欧米人は、そういう原体験を通して、「民意は間違えるのだ」ということを学び、(直接民主制ではなく)間接民主制を生み出したのだというのである。

デタラメも大概にして欲しい。当時の民衆がイエス・キリストの死刑を支持したのは、彼らがイエスの教えに激しい反発を感じたからである。自分の財産も家族も、すべて捨てるように、とイエスは民衆に向かって説教した。

今でこそこの教えは、有難い「隣人愛」の教えとして信者のリスペクトの対象になるが、当時の民衆が「財産も家族もすべて捨てよ」と(オウム真理教の教義のようなことを)言われて、激しい反発を感じたのは、無理もないことだった。それはふつうの人間の、ごく自然な心理ではなかっただろうか。この心理を「間違えたものだ」と言い切れる潮氏は、バリバリの「隣人愛」思想の持ち主であるに違いない。

話題を沖縄基地問題に戻すことにしよう。「辺野古移設工事ノー」の民意を「間違い」と断じるとき、潮氏は、辺野古移設工事をめぐる「正しい意見」がどういうものかを、知っているはずだ。察するに、その「正しい意見」は、移設工事を推進する政府の見解と同じものである。だが、政府の見解が「正しい意見」であるなどと、潮氏はどうして言い切れるのだろうか。

いつでも・どこでも通用する「普遍的な真理」などは存在しない、と私は考えている。意見の正しさは、当該の物事を見る人の視点や、立場や利害関係に応じて異なってくる。そう私は考えている。潮氏が「辺野古移設が正解だ」と考えるのは、潮氏が本土の人間だからである。米軍基地の周辺で暮らす、沖縄県民の痛みを(自分の痛みとして)感じることができないからである。他人の痛みを自分の痛みとして感じとる優しい想像力、ーーそれが「隣人愛」思想の出発点だと思うのだけれどね。
コメント
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