上海で起こった習近平と中国共産党に対する抗議デモのニュースは、またたく間に世界中を駆けめぐったようだ。このニュースは、きょうの(日本の)ほとんどのニュース番組でも取りあげられた。ニュースの画面に映ったデモの参加者が、口々に「自由をよこせ!」と叫んでいたのが印象的だった。
習国家主席がおし進めたゼロコロナ政策は、コロナ感染者が出た地区をロックダウンするなど、厳しい行動規制を住民に課し、徹底的に人民の自由を奪ってきた。それが彼ら人民には耐えがたかったのである。
このニュース映像を見ながら、私は「盛者必衰の理」の眼目がどこにあるかをまざまざと見せつけられた気がした。「盛者」としての独裁的統治者を衰亡へと導くもの、習近平国家主席を失脚へと追いやるもの、それはひと言でいえば、被治者たる人民の、その〈自由〉の剥奪である。
〈自由〉、それはだれもが欲しいと願うものであり、言い換えればそれは人間の「権利=求めても当然のこと」にほかならない。つまり「人としての権利」、「人権」そのものである。
中国共産党といえば、ウイグル自治区での人権蹂躙が取り沙汰され、国際社会で批判の種にもなったが、人権蹂躙はこの地区に限らず、中国全土で行われる日常茶飯事なのである。
人権を平気で蹂躙する中国共産党の姿勢は、「人権よりもメシのほうが大事だ。メシのためなら人権としての〈自由〉の制限もやむを得ない」という発想から来ている。これに対して人民は「メシなんかよりも自由のほうがずっと大事だ。自由を返せ!」と異を唱えているのである。
自由よりもメシなのか、メシよりも自由なのかーー。何やらドストエフスキーの「大審問官」のエピソードを思わせるが、この二者択一の根本を転換すれば、シー国家主席と中国共産党は自己否定に陥ることになる。
シーさんよ、さあ、どうする。天安門みたいに軍隊を出して、突っ走りますか。
習国家主席がおし進めたゼロコロナ政策は、コロナ感染者が出た地区をロックダウンするなど、厳しい行動規制を住民に課し、徹底的に人民の自由を奪ってきた。それが彼ら人民には耐えがたかったのである。
このニュース映像を見ながら、私は「盛者必衰の理」の眼目がどこにあるかをまざまざと見せつけられた気がした。「盛者」としての独裁的統治者を衰亡へと導くもの、習近平国家主席を失脚へと追いやるもの、それはひと言でいえば、被治者たる人民の、その〈自由〉の剥奪である。
〈自由〉、それはだれもが欲しいと願うものであり、言い換えればそれは人間の「権利=求めても当然のこと」にほかならない。つまり「人としての権利」、「人権」そのものである。
中国共産党といえば、ウイグル自治区での人権蹂躙が取り沙汰され、国際社会で批判の種にもなったが、人権蹂躙はこの地区に限らず、中国全土で行われる日常茶飯事なのである。
人権を平気で蹂躙する中国共産党の姿勢は、「人権よりもメシのほうが大事だ。メシのためなら人権としての〈自由〉の制限もやむを得ない」という発想から来ている。これに対して人民は「メシなんかよりも自由のほうがずっと大事だ。自由を返せ!」と異を唱えているのである。
自由よりもメシなのか、メシよりも自由なのかーー。何やらドストエフスキーの「大審問官」のエピソードを思わせるが、この二者択一の根本を転換すれば、シー国家主席と中国共産党は自己否定に陥ることになる。
シーさんよ、さあ、どうする。天安門みたいに軍隊を出して、突っ走りますか。
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