紅茶に浸した一片のマドレーヌ。その味覚から、幼少時代の記憶が不意によみがえる。ーーマルセル・プルーストの小説『失われた時を求めて』の、有名な冒頭のシーンである。
けさの朝日新聞の文化欄を読んでいて、私はそれと同じ体験を味わった。「語る――人生の贈りもの」と題した連載欄がある。この欄では、このところ映画監督・崔洋一の体験談が取りあげられていた。きょう書かれていたのは、こんなことだった。
1968年、崔は東京総合写真専門学校に入学した。この学校は「赤い写真学校」と呼ばれていて、校長が入学式に「階級闘争の先端に立ち、写真の狙撃兵にならねばならない」と挨拶するような学校だった。
崔はこの学校の自治会に入り浸るようになる。
「高校時代に爆弾を作って大けがをした強者もいました。彼は写真は下手だったけれど(笑)、ウマが合いました。ML(マルクス・レーニン)派の学生解放戦線(SFL)に属し、運動に明け暮れる毎日でした。」
崔が「赤い写真学校」に入学した1968年といえば、私が東京の大学に入学した年でもある。この頃のキャンパスは、学園紛争のあおりで大きく揺らいでいた。あちこちに赤塗りのタテカン(立て看板)が立ち並び、ヘルメット姿の学生がハンド・マイク片手にアジ演説をがなり立てていた。
50年以上も前のそんな記憶がよみがえったのは、崔の体験談に触発されたからではない。この記事の中の「ML(マルクス・レーニン)派」の文字を目にしたとき、当時の記憶が一気に、鮮やかに、私の中によみがえったのだった。
「ML(マルクス・レーニン)派」の文字は、さながら『失われた時』のマドレーヌのようだった。この文字を目にしたとき、私は、「ああ、MLとは、マルクス・レーニンの略だったのか」と「目から鱗(うろこ)」の思いがして、あのT先輩のことを思い出したのである。
T先輩は、私が所属していた空手部の1年上の先輩で、私に親しく声を掛けてくれた優しい先輩だった。彼が「ML派」に属しているのを知ったのは、キャンパス内でデモをする、この人のヘルメット姿を見たたらだったかもしれない。この先輩がある日、「おい、今度、デモに行ってみないか」と私に声を掛けてくれたのである。私は、「そういう体験をするのも悪くはないな」と、軽い気持ちでその日、T先輩の後についていった。
デモの隊列が、人目につかない陸橋下にさしかかったときである。何人もの若い機動隊員が隊列に襲いかかり、私たちはボコボコにされた。「権力は恐ろしい」と、つくづく思い知らされたのは、このときである。
いわゆる「新宿騒乱」があったのは、それからしばらくしてのことだった。このときも私は「新宿に行ってみないか」と(別の友人から)誘われていたが、誘いに乗ることはしなかった。権力の本性を見せつけられた私は、単純に怖かった。機動隊員から、もっとひどく痛めつけられるだろう。大けがをするかもしれない。そんな予感がした。
予感が的中したことを知ったのは、翌日、新聞を見たからである。
T先輩のことだが、彼が「新宿騒乱」で逮捕されたとは聞かなかった。彼が朝日新聞社に就職したと聞いたのは、もっと後のことである。
けさの新聞記事に「ML(マルクス・レーニン)派」の文字を書き込んだのは、ひょっとするとあのT先輩ではないか。ーーふとそんな思いが頭をかすめたが、いやいや、T先輩は存命なら74、5歳になっている。もうとっくに定年退職しているはずだ。
私は、思いがけずよみがえった亡霊のような過去の記憶を、懐かしむでもなく、なぜか持て余していた。