介護付き有料老人ホーム「○○館」は、わが街から20キロほど離れたA市にある。A市は私が生まれ育った街であり、その市街地にある「○○館」には、現在、私の母が入居している。今年で97歳になる母は、私が脳卒中で倒れた年にこの老人ホームに入居したから、もう10年以上もこのホームのお世話になっていることになる。
きのう、妻がこの「○○館」を久しぶりに訪れ、母に面会してきた。胃ろうの処置を受けているためか、母は顔色もよく、元気そうだったという。そこそこの意思疎通はとれたものの、時々、話が通じないこともあった。それは母の耳が遠くなったせいなのか、認知症が進んだせいなのか、そのあたりは判然としなかったという。
帰宅した妻からその話を聞き、私はひとまずホッとしたが、反面、大きな問いを投げかけられ、面食らってもいた。「あなたの家系は長生きで良いわね」と妻が言ったからである。
長生きはホントに良いことなのだろうか。
私の母は自力で食事ができなくなり、胃ろうの処置を受けながら、それでも生きている。
耳が遠くなり、認知症にも冒され、それでも生きている。
他人と充分な意思疎通がとれなくなり、笑顔も消え、ホーム・スタッフの介護を受けながら、それでも生きている。
母は苦痛を感じることがないのだろうか。
私のことでいえば、72歳になった私は、毎朝、ベッドから起き上がるのに苦痛というか、しんどい思いを味わっている。
明け方の3時ごろ、尿意をもよおしてトイレに立つ。やっとの思いでベッドから起き上がり、車イスに移乗する。そのしんどさをもう一度味わいたくない気持ちから、私は再びベッドに入ることはせず、そのまま起き出してしまう。
むろん眠くないわけはない。それでも私は、またベッドに入る気にはなれないのである。私はパソコン机のイスに腰を掛け、半醒半睡のぼんやり頭でネットの森の散策を始めることになる。
「長生きをしたって、良いことはないさ。とにかく毎朝、ベッドから起き上がるのが辛くて、辛くて、どうしようもないんだ。腰がひどく痛むんだよ」
私が言うと、妻はこう答えた。
「でも、病気じゃないから良いわよ。末期がんの痛みに比べれば、まだマシなほうよ」
そうだなあ。四六時中、激痛に攻め苛まれる末期がんの患者に比べたら、私など、毎朝のこととはいえ、苦しみはほんの一時のことだからなあ・・・。
まあ、要は受けとめ方である。影は光を減じるのではなく、光の輝きを際立たせる。苦痛があるから、生の歓びもそれだけ一層輝かしいものに感じられるということである。そう思うことにしよう。やれやれ。