(承前)
アメリカは80年前、原爆の使用によって日米戦争に終止符を打つことができた。言うまでもなく、勝者はアメリカである。
「原子爆弾を使わなかったら、日本はいつまでも降伏しようとせず、日本側にもアメリカ側にも多大の犠牲がでたに違いない」ーーこれは、アメリカが原爆使用を正当化する論理として、多くの場面で使われてきた、きわめてポピュラーな理屈である。
だが、ホントにそんなことが言えるのだろうか。
その昔、「日本でいちばん長い日」(1968年、岡本喜八監督)という映画を見たことがある。なにぶんにも昔のことで、ほんの粗筋の部分しかおぼえていないが、原爆投下を受け、ポツダム宣言を受諾した日本政府は、天皇の「玉音放送」によってこの戦争の終結を国民に告知しようとした。
しかし、敗戦を認めず、徹底抗戦を叫ぶ一部の軍人たちーー将校たちーーは、政府・天皇による「玉音放送」の遂行を阻止しようとして、反乱をくわだてた・・・。
この映画がどこまで史実を反映したものか、私は知らない。だが、
「もし広島、長崎への原爆投下がなかったら・・・」
と考えると、私はぞっとする気持ちを禁じ得ない。
もし広島、長崎への原爆投下がなかったら、敗戦を認めず、徹底抗戦を叫ぶ将校たちの雄叫びはもっともっと大きなものになって、当時の日本国民をつき動かし、「一億総決戦」へと導いたのではないか。
当時の国民の大半が空襲や食糧難で疲弊し、厭戦気分に傾いていたとしても、自暴自棄になった彼らの心は、軍人たちの「徹底抗戦」の叫びに呼応し、共鳴し、ぐらつき、特攻隊の兵士たちと同じ、破れかぶれの気分になったかもしれないのである。
「乾坤一擲、一億総決戦」がもたらすのは、焦土の上に累々と横たわる、おびただしい数の死傷者だろう。
そう考えれば、広島、長崎で原爆の犠牲になった方々は、決して無駄死にではなかったと私は思う。彼らは図らずも(死屍累々の「一億総決戦」を防ぐ)「人間の盾」になってくれたのだ、そう思いたい。
だが、そう思ってみたところで、すっきりしない気持ちは残る。
そのモヤモヤの正体を探るべく、私はさらに考え続けた。
一体、何が問題なのか・・・。何が問題だというのか・・・。
(つづく)
アメリカは80年前、原爆の使用によって日米戦争に終止符を打つことができた。言うまでもなく、勝者はアメリカである。
「原子爆弾を使わなかったら、日本はいつまでも降伏しようとせず、日本側にもアメリカ側にも多大の犠牲がでたに違いない」ーーこれは、アメリカが原爆使用を正当化する論理として、多くの場面で使われてきた、きわめてポピュラーな理屈である。
だが、ホントにそんなことが言えるのだろうか。
その昔、「日本でいちばん長い日」(1968年、岡本喜八監督)という映画を見たことがある。なにぶんにも昔のことで、ほんの粗筋の部分しかおぼえていないが、原爆投下を受け、ポツダム宣言を受諾した日本政府は、天皇の「玉音放送」によってこの戦争の終結を国民に告知しようとした。
しかし、敗戦を認めず、徹底抗戦を叫ぶ一部の軍人たちーー将校たちーーは、政府・天皇による「玉音放送」の遂行を阻止しようとして、反乱をくわだてた・・・。
この映画がどこまで史実を反映したものか、私は知らない。だが、
「もし広島、長崎への原爆投下がなかったら・・・」
と考えると、私はぞっとする気持ちを禁じ得ない。
もし広島、長崎への原爆投下がなかったら、敗戦を認めず、徹底抗戦を叫ぶ将校たちの雄叫びはもっともっと大きなものになって、当時の日本国民をつき動かし、「一億総決戦」へと導いたのではないか。
当時の国民の大半が空襲や食糧難で疲弊し、厭戦気分に傾いていたとしても、自暴自棄になった彼らの心は、軍人たちの「徹底抗戦」の叫びに呼応し、共鳴し、ぐらつき、特攻隊の兵士たちと同じ、破れかぶれの気分になったかもしれないのである。
「乾坤一擲、一億総決戦」がもたらすのは、焦土の上に累々と横たわる、おびただしい数の死傷者だろう。
そう考えれば、広島、長崎で原爆の犠牲になった方々は、決して無駄死にではなかったと私は思う。彼らは図らずも(死屍累々の「一億総決戦」を防ぐ)「人間の盾」になってくれたのだ、そう思いたい。
だが、そう思ってみたところで、すっきりしない気持ちは残る。
そのモヤモヤの正体を探るべく、私はさらに考え続けた。
一体、何が問題なのか・・・。何が問題だというのか・・・。
(つづく)