最近は週に二度通うデイサのスキマ時間に、ぶ厚い文庫本の
『絶望名言(NHKラジオ深夜便)』
を読んでいる。「いいね!」と思える言葉に出会った。
「人間って過去の積み重ねでできているわけで、その過去の記憶が 自分によってある程度 作り変えられているとしたら、もしかすると『自分』というのも、一つの創作物にすぎないですよね」
これは、「絶望名言」の紹介者である頭木弘樹氏がNHKの「ラジオ深夜便」で語った言葉である。川端康成の次の言葉をパラフレーズしたものだ。
「忘れるにまかせるということが、 結局最も美しく 思い出すということなんだ な」
(「散りぬるを」『眠れる美女』)
川端のこの言葉に着目し、そこから「自分」の成り立ちに関する独自の見方をつむぎ出してくる頭木氏の慧眼もなかなかのものだ。
デイサの喧騒の中で頭木氏のこの言葉を目にして、私はう〜む、と考え込んでしまった。
車イスにすわり、十数人のジジババの中で、テーブルの上に文庫本を広げているこの「私」。この「私」はたしかに過去の記憶の積み重ねからできている。
75歳の後期高齢者となったこの「私」には、過去のさまざまな記憶がまつわり、それがなかったら、この「私」はただの空白、一片の空白に過ぎないだろう。
『絶望名言(NHKラジオ深夜便)』
を読んでいる。「いいね!」と思える言葉に出会った。
「人間って過去の積み重ねでできているわけで、その過去の記憶が 自分によってある程度 作り変えられているとしたら、もしかすると『自分』というのも、一つの創作物にすぎないですよね」
これは、「絶望名言」の紹介者である頭木弘樹氏がNHKの「ラジオ深夜便」で語った言葉である。川端康成の次の言葉をパラフレーズしたものだ。
「忘れるにまかせるということが、 結局最も美しく 思い出すということなんだ な」
(「散りぬるを」『眠れる美女』)
川端のこの言葉に着目し、そこから「自分」の成り立ちに関する独自の見方をつむぎ出してくる頭木氏の慧眼もなかなかのものだ。
デイサの喧騒の中で頭木氏のこの言葉を目にして、私はう〜む、と考え込んでしまった。
車イスにすわり、十数人のジジババの中で、テーブルの上に文庫本を広げているこの「私」。この「私」はたしかに過去の記憶の積み重ねからできている。
75歳の後期高齢者となったこの「私」には、過去のさまざまな記憶がまつわり、それがなかったら、この「私」はただの空白、一片の空白に過ぎないだろう。
もっとも、記憶というやつは厄介だ。我々はそいつをいとも簡単に作り変える。
「忘却」という都合のよい操作によって、嫌な記憶は無かったことにし、「美しい」記憶だけを残す。
私は今、これまでの75年をふりかえり、「ああ、良い人生だったなぁ」と感慨に浸ることがしばしばだが、ふと思いがけず、嫌な記憶が押し寄せてきて、「それにしても、オレのこれまでは苦労続きの人生だったなあ」と思うこともある。そんなことは頭の片隅に追いやって、忘れてしまおう、と思い直すとき、私は川端と同じ境地にいるのかもしれない。
「忘れるということが、 結局、最も美しく 思い出すということなんだ な・・・」。
恍惚の人、という言葉があったが、ボケ老人になることが、ハッピーエンドに至る極意なのかもしれない。やれやれ。
「忘却」という都合のよい操作によって、嫌な記憶は無かったことにし、「美しい」記憶だけを残す。
私は今、これまでの75年をふりかえり、「ああ、良い人生だったなぁ」と感慨に浸ることがしばしばだが、ふと思いがけず、嫌な記憶が押し寄せてきて、「それにしても、オレのこれまでは苦労続きの人生だったなあ」と思うこともある。そんなことは頭の片隅に追いやって、忘れてしまおう、と思い直すとき、私は川端と同じ境地にいるのかもしれない。
「忘れるということが、 結局、最も美しく 思い出すということなんだ な・・・」。
恍惚の人、という言葉があったが、ボケ老人になることが、ハッピーエンドに至る極意なのかもしれない。やれやれ。