僕の心は、ピチピチ通信
「「男性大河ファン」の直感的で素直な感想」
●京おんなに嫌われた、それを遺恨に仕返しをした、モテない司馬遼太郎の真骨頂物語!人間がわからないよ、このひと!
えー、「胡沙笛を吹く武士!」
ということで、胡沙笛って、あんなんだったんだねー(笑)。
ま、逢魔が時に、吹いちゃったもんだから妖魔が・・・(笑)。
という、作品の話は、あとにして、この話については、ある風景を思い出します。
それは、もう、10年以上前のこと・・・僕は当時、なぜか、大阪は堂島にある三菱電機関西支社に、営業支援という立場で行っておりました。
そんなある日、僕は先輩の営業さんと京都に数日出張になり、その夜、営業の先輩に、
「今日はいいところ連れていってあげるよ!」
と言われて、連れて行かれたのが、京都では、有名という美人のママさんがいて、綺麗なお姉ちゃんが、5,6人いるお店・・・あれは、パブとかスナックとかの
種類に入るのかなー(笑)。まあ、僕は若い頃から、飲むと超おしゃべりになって、無敵状態に入るので、基本そういうところの女性と仲良くなるのは、大得意!(笑)。
ということで、この有名な美人なママさんとも意気投合して、楽しく飲んじゃったわけですねー。
で。よく覚えているのが、この京おんなの美人なママさんが、僕に、言った言葉、
「旦那はん。人間というものをよく勉強しなはれ」
ということですねー。で、そのあたりの話をしている時になぜか、司馬遼太郎に話になったんですね(笑)。
そして、このママさんが、
「私は司馬遼太郎の新選組血風録という作品は、京おんなを馬鹿にしていると思います。あんな京おんな、京にいてません!」
と、言って指摘した作品が、この「胡沙笛を吹く武士」の小つるさんだったんですねー。なつかしいなー(笑)。
「京女やったら、一目惚れしても、絶対に当人に言ったりしまへん。どういうおひとかさりげなく見ていて、「ああ大丈夫やな」と思ってから、それとのう、目で合図するもんです」
ということを言っていましたねー。これね。最近僕がよく言っている、
「女性は、毎日、恋をするのが仕事。そして、女性は、目で恋を語る!」
というのに、符号するんですね。というか、ママが教えてくれているんだから、ちゃんとそれ、覚えておけよ!って話ですね(笑)。この作品見て、おもいだしたんですけどね。
「だから、小つるみたいに、自分から手をだしたりなんて・・・そんな、はしたない京おんなは、いてません。それに、この小つるって、相手の中身を全然見てへん。それで身体許すなんて、あほや」
と言い切ってましたね。自分が京おんなだから、自信があるんでしょうね。そういうことに。そして、この美人ママさんは、
「これ、はっきり言って、司馬遼太郎というひとは、京おんなを馬鹿にしてはるんです」
と、おもっそ主張してました。
「多分、このひと、若い頃に京のおんなに痛い目にあったから、こんなこすっからい仕返しをしてはるんです」
と続けます。すごいですねー(笑)。
「私はこういうお仕事やさかい、たくさんの人間を見てます。そういう目えで、司馬遼太郎さんの小説を読むと、このひと人間を見ていないことがわかる」
という、接客業一筋のママさんの見解です。
「だから、小つるは、京おんなやないし、司馬遼太郎というひとも、嫌いなんです」
まあ、だいたいこういう話だったと思いますが、多分ママさんは、サラリーマンとたくさん話をする中で、司馬遼太郎を好きなひとがたくさんいることに気づいて、
話の種に、司馬遼太郎の作品を読んだんでしょうね。
でも、ベテラン接客業のママさんから見たら、あり得ない物語ばかりだったんでしょう。体験的におかしいと思ったんでしょうね。
もちろん、当時、僕はあんぽんたんで、むしろ司馬作品を愛していましたから、
「ふーん、そんな風に感じるひともいるんだなー」
と、何も言わずにその見解を聞いているだけでした。
で、ね。
今から考えると、接客業のベテランのママが、そんなことをお客に言うの、おかしいんですよね?
だって、司馬遼太郎作品が好きなお客さんが、たくさんいたから、話を合わせるために、読んだわけだから。
で、思い出すのは、どうも、僕は、かなりあんぽんたんなことを当時言っていたんだと思うんですよ。ガキっぽいというか、オトナの世界を知らないくせに、
知った風な、ね。
だから、多分、ママが母性本能的に、僕のだめなところをやんわり指摘するために、あえて、司馬遼太郎を批判して、
「人間というものを、よく見なさい!」
と、助言してくれたんだと思います。まあ、今になって、わかるんだから、まー、遅いけど、遅くないのかもしれない。
やっと、ママの助言が、役に立つ時が、来たわけだからねー(笑)。
まあ、でも、この作品を見て、そのあたり思い出したんだから、僕が司馬遼太郎を批判しているのは、
元々、このママさんの言葉が、記憶の底に残っていたからかもしれませんねー。
しかし、鹿内薫さんですけど、あんなおっさん、京おんなが、一目惚れするかねー?
まあ、薫さんを塩谷瞬さんにすることで、かろうじて、イケメンなんだから・・・的な説得力を持たせようとしたんでしょうけど・・・、
月代剃ってない武士ってのは、見栄えむちゃくちゃ悪いよー。どうも、まあ、ママさんの助言もあって、小つるの対応がまったく説得力がないですねー。
まあ、これね、多分、これの書かれた時代の人間に夢を見させようっていう魂胆だと思うんですよ。司馬遼太郎のね。
まあ、おもしろい話があって、以前、ある女性作家が書いていたエッセイに、
「男性作家の作品を読めば、その作家が、モテる男性か、モテない男性か、すぐにわかる」
という趣旨の内容を書いていたんですね。
「女性にモテる男性は、女性の気持ちのよーくわかっている男性である。だから、自分に好意を持ってくれている女性の気持ちがわかっているから、自然、口説くのもやさしい」
「だから、そういう男性は、口説きのテクニックも自然向上してきて、さらに女性からモテるようになるものだ。だから、そういう男性が作品を書くときは」
「女性をどう口説くか、そして、それに対する女性の反応をいちいち細かく書き、説得力を上げるようにするものだ」
そして、モテない男性の側の話がまた、おもしろいんですね。
「モテない男性は、女性の気持ちがわからないどころか、女性を口説いた経験もない。だから、どう女性を口説いていいかわからない」
「だから、そういう男性の作品は、だいたい、女性の方から、口説いてくる話になる。しかも、「なぜかわからないけど」突然モテる、という状況にする」
「村上春樹さんの作品は、特にその傾向が、強いですよね(笑)」
まあ、村上春樹さんが、モテるか、モテないかは、知りませんが、村上さんの場合は、母性本能を刺激するタイプだったから、ある程度モテたんじゃないですかね。
まあ、確かに、ほぼ、だいたい、作品中では、女性から声をかけられていますけどね(笑)。
だから、司馬遼太郎の書いたこの
「なぜか、小つるが、かっこよくもない鹿内を超積極的に口説いて、身体まで、超積極的に許しちゃうストーリー」
というのを見れば、この女性作家の言葉を信じれば、
「司馬遼太郎は、女性を口説いた経験がなかったから、いや、リアルライフで、女性に人気がなかったから、こういう形のストーリーになったのだ!」
ということが、もろに、わかるわけです。
だいたい、どこを好きになるんだ?あんな、ださいおっさん。月代剃っていない鹿内薫(笑)。
まあ、それから、今の僕的に言えば、女性は好きになったからと言って、小つるのように、直接、声をかけてきません。
目で誘って、男性に誘わせるようにするのが、普通です。まあ、中には、例外もあるでしょうけどね。昨今は肉食女子なんてのも、いるらしいですから(笑)。
それが、京女だったら、尚更でしょうね。はしたない、という価値観が、京女には、ありますからね。未だに。
だから、あの小つるの物語は、ママの言うとおり、京おんなを馬鹿にした、司馬遼太郎の作り物に過ぎないんですね。
まあ、確かに、司馬遼太郎は、人間を見ていない。
こんな小品でも、わかってしまう、人間の浅さが露呈していますね。
それで、おもしろいことに、このストーリーには、同時進行で、もうひとつの、京おんなの恋愛話があるわけですよね?原作には、ない話。
もちろん、お美代さんの土方ラブストーリーなわけで、こっちは、一目惚れするけど、ずーーーーっと言わずに一年以上、耐えている。
確かに行動力旺盛だったりするんだけど、目で訴えるんですよね。このあたり、京おんなそのものじゃないですか!
これぞ、ザ・京おんなですよ。
そして、父親の要請で、結婚を受け入れ、最後に、自分の思いを土方さんに伝え、さらに、自分の気持ちをほんの少しだけ、かなえさせてもらう。
これこそ、本物の京おんなだ。ママが言っていた京おんなそのもの、じゃないですか。
だから、これ、製作側による、京おんなダメだしじゃ、ないですか。鹿内薫の物語だけでは、京おんながおかしな形で描かれてしまう。
だから、あえて、製作側が考える本物の京おんなストーリーをお美代さんの形でいれこみ、まるで、小つるは、鹿内の見た幻影かのような、処理がされていましたよね。
これは、完全に、製作側が用意した、司馬遼太郎・京おんなストーリーへのダメだしです。
なーんだ、みんな、同じこと、思っていたってことでしょう?ねー(笑)。
鹿内薫のストーリーにしたって、浅いですよ。
かみさん娶って使えなくなるサラリーマンなんて、それこそ、オトナになって社会に出ればたーくさん、それに似た話があることを知ります。
平凡な何処にでもある話なんですよ。かみさんに逃げこんで、仕事をすることを拒否してしまうわけです。
そうなったら、使えない奴として、皆から嫌われ・・・まあ、このお話の通り、最後は、否定されてしまう。
よくある話なんですね。そういう現代の話を、新選組の話として、使っているだけなんだから、誰でもわかる話でね。新鮮味がないというか・・・。
というか、現代話を、そういう時代を変えただけの話にするから、いろいろ齟齬が出てしまう。
例えば、奥州の人間が、なぜ、新選組に入ったか、と言えば、会津藩中将お預かりだから、とか、親のいない子どもだったようだから、本当の武士になりたいとか、
いろいろな志望理由があったはずだ。剣にも自信があったようだから、そういうのを活かしたいというのも、あったはずだ。
そういう自分の生きる目標みたいなものがあるからこそ、新選組に入ったんじゃないの?
そしたら、かみさん娶れて、子供まで授かったんだったら、安易に逃げるかね?どちらかと言ったら、隊務に励んで出世しようとするんじゃないの?
だいたいあの時代の武士の価値観は、何百年もかかって創り上げられた武士道によって、いつ死んでも対処できるようにしておく・・・ということでしょ?
現代サラリーマンのように、かみさん可愛さや子供可愛さで、死を恐れるような価値観はないと思うんだけどね。
つまり、現代の物語を、幕末にたーだ、持っていったから、そういう価値観のズレが露呈しちゃうわけよ。簡単に。
あの時代の価値観と、現代の価値観は、あきらかにまったく違う。というより、武士道がわかっていれば、こういうダメサラリーマン的ストーリーは、現代話に過ぎないことが
わかるはずでしょ?それも考えないで、たーだ、締切り守るために、ストーリーを書いていることが、簡単に露呈してしまう。
こういう簡単な批判にも、全然耐えられないでしょ?このストーリーは。
まあ、最後、小つるが鹿内によって、殺されていたおかげで、鹿内の見た小つるは、ただの幻影だった・・・普通に夫婦生活をしていたけれど、
恐怖によって、おかしくなった鹿内の脳内話・・・胡沙笛を吹いたら小つるが来た・・・というのも含めて・・・となったけどね。
いずれにしろ、モテないおっさんが、締切り守るために、現代によくある話を、時代を変えてストーリーに仕立て上げただけの話ですよ。
しかも、モテなかった腹いせに京おんなを狐狸の類的に書いて、復讐しようとしている最低の男の書いた話ですよ、これは。
ほんと、どうしようもないよね、司馬遼太郎は!そして、司馬遼太郎の作品も!
●司馬遼太郎にはわからない、人の器を見抜いた近藤さん!あんたは、エライ!
鹿内薫を、
「あいつは、だめだ。風采があがらない、あんな男は人の上に立つ男ではない」
と、すぱっと見抜く目を持つ素晴らしい近藤さんです。
まあ、この物語では、死をも恐れぬ目を持っていたからこそ、使えた鹿内が、
死を恐れるようになって、使えなくなった・・・という浅いお話なんですけど、
もう、頭で考えついた浅い話って、感じだよねー。
僕は風采が上がらない男って、やっぱり、ひとの上に立てないと思うんだよね。
自分を飾りたてることすら、できない人間にひとを率いる力はない。
だから、剣の力がある、というのと、ひとの上に立つというのは、また別なんだよね。
そのあたり、作者の頭が整理されていない、というか、わかっていないから、
主人公である、土方の目が狂っていた、ということを露呈させちゃうわけ。
本来、やってはいけないことなのに、本人すらわかっていない。
例えば、なぜ、鹿内は、死をも、恐れていなかったのか、を考えれば、この物語で言うと、
「孤独だったから」
というわけよ。これ、おもしろいことに、前回、「沖田総司の恋」で語られた、沖田が
「怖いものはない。なぜなら、剣の道しか知らないから」
と、ほぼ同じ構図なんだよね。
人に恋したから、剣に迷いが出た→その元を断ち、乗り越えたから、また、剣が強くなった。
まあ、恋の方は、近藤さんに、壊されちゃったんだけど、あくまで、精神的に乗り越えている。
それに比べると、ひとを見る目のある近藤さんが、風采があがらない・・・自分の管理もできない孤独者・・・そいつが強いというのは、
これは、破れかぶれ的な刹那的な強さであって、それこそ、人の上に立てる器じゃないってことになるわけ。
だから、伍長にするべきではなかったし、単に女が出来て舞い上がって、その女を殺しちゃうような人間だった、ということで、
ひとの器というものを、司馬遼太郎は、よくわかっていないんだよね。
近藤は、わかっていたわけだけど、土方もわかってないってことになって、ほんと、だめだめ物語なんだよねー。
ほんと、近藤さんだけだ。なんか、変なの。
●第一話から続いてきたお美代さんの激愛!これこそ、正統派京おんなのゆかしい恋!美しかったです、お美代さん!
今回、結婚話が、持ち上がって為すすべ無く受け入れて・・・すると女中さんが、
「土方さんに会いにいきなさい。一切合切すべて打ち明けてきなさい!」
と、珍しく的を射たアドバイスをしてくれるわけです。そしたらもう、いてもたってもいられなくなって、お美代さん、
土方さんに、最後の逢い引きです(笑)。
いやあ、一年以上、想い続けて、目で恋を訴えただけしたからね。正統な、ザ・京おんなです。
そして、退っ引きならなくなって、最後に洗いざらいぶちまけて、ほんの少しだけ、土方の男性要素を感じさせてもらう・・・その心根の美しいこと。
「ほんの少しだけ、あとちょっとだけ・・・」
の言葉が、せつない響きを持っていましたねー。
あれが、正統な京おんなの恋ですよ。
忍ぶ恋・・・沖田さんの相手もそんな心境になっていましたねー。
なんか、あのお美代さんのあり方・・・よかったですねー。
なんか、ああいう忍ぶ恋って、昭和の頃は、よく描かれていたように思いますね。
時代は、変わって、今は、婚活の時代ですからねー。
だからこそ、ああいう美しいシーンが、胸に堪えたのかもしれませんねー。
でもねー、ほんと、女性って、目で語るよねー。
目で笑うし、目で訴える。あの池田屋の夜、お辞儀したお美代さんの目は、
「あなたが、好きどす」
と、土方さんに訴えていたんですねー。
●お美代さんのことで頭が一杯だった!ひとの上に立つということは、強さだけじゃだめなの!あんぽんたんだった土方さんです!
と、その土方さんですが、今回は、ちょっとあんぽんたんだった・・・というか、ひとを見る目が不確か、でしたねー。
まあ、敵を前にして、逃げちゃうような男ですからね。
見込んじゃいけなかったんですよ。
というより、剣が強いから、人の上に立たせる、という発想がまちがっているんだな。
普通に社会に暮らしていれば、例えば、会社で、上司になれる人間と、明らかに、上司向きでない人間がいることは、誰だってわかるはず。
それは、幕末だって、同じなんですよ。
そして、鹿内は、女が出来たくらいで、けろけろ変わっちゃう、要は中身がない人間なんですよ。
ほら、よく、男によって、女の服装が、けろけろ変わるなんて、ことあるでしょう?
あれは、女性が男性に尽くすタイプだからこそ、自分を無くして相手にすべて合わせちゃうから、そういう状況が出来るわけで、
そういう人間は、中身がない、ということなんだよね。
今回、鹿内は、おもっそ、そうだったじゃん。
しかも、結局、武士として、一番大事な胆力そのものがなかった。
そんな人間が上にいられるわけはないし、元々ダメ人間だった、ということなんだよね。
だから、近藤さんは正しくて、土方さんは、ひとを見る目がなかったのでした。
まあ、今回は、お美代さんのことで、頭が一杯だった、ということにしておきましょう(笑)。
●なぜか生きているリアリティがあまりない!狐狸の類か、それとも幻影か!でも、かわいかったよ、小つるさん!
というわけで、まるで、狐狸の類に描かれていた小つるさんです。
まあ、一目惚れ・・・という説得力がまったくなかったですけれど、超積極的な女性になっていましたねー。
まるで、京おんなは、化物的な司馬遼太郎の主張なわけですけど、まったくリアリティがないのね。
「触って」
とか、まあ、女性は、そんなこと、酔っ払ったりしなきゃ、そうそう言いませんよ(笑)。
それで、関係さえ持って、子供まで作っておきながら、突然手のひらを返したような、物言い・・・あそこだけ、正統な京おんなだったように
思えますね。
「わたしは、京から出たことあらしません。京でのうては、生きていけません」
ここだけ、取材で、誰かから聞いたんでしょう。そして、物語の構想を膨らませた。そういうことでしょうね。
だから、ストーリーとして、ものっそアンバランスで、非リアリティな話になっちゃうわけで、ストーリーの構成力がない。
例えば、最初から、狐狸の類的な表現をするなら、もっと、リアリティ感を無くせばいいし、なんか中途半端。
どっちつかずの作品になってしまいましたね。
まあ、最後、鹿内に殺されていましたから、鹿内の脳内ストーリーという風にもとれて、やっとバランスがとれましたけど、
まあ、ある意味、いっちゃった人間の脳内ストーリーを見せられただけ、という感もあって、うーん、という感じのリアリティを感じ無い
京おんならしくないけど、京おんなを主張する小つるさんでした。
●目力全開で、逃げこみ者を表現!器じゃないと、逃げこまなくてはいけなくなってしまう!かわいそうな鹿内くん!
えー、塩谷瞬さん!ということで、正義の見方でなく、こういう癖のある弱い人間を、目力全開で、表現していましたー。
まあ、なんか危ういだめ人間をしっかり演じていて、まあ、新しい境地を見せていたんでは、ないでしょうかー。
にしても、これまで、書いてきたように、ちょっと作品自体が、あれなんで、こう、だめだめ感が救いようのない感じになっていました。
まあ、逃げ込んじゃうひとって、どこにでもいるものですからね。
司馬さんが生きていた時代も、ちゃあんといた、ということでしょう。
そして、逃げ込んじゃったひとって、最後はああいう最後になっちゃうんだよねー。
しかし、このひと、最後、原田さんに、斬られちゃったねー。武士としても、死ねなかった、かわいそうな鹿内くん、ということで、
元々、器じゃなかった、ということですかね。武士としても。
今週の喜び
まあ、こうやって、観てくると、ひとの上に立つひとの器というものが、まったくわかっていない作者による、おかしなストーリーという感じで、
京おんなにいやがらせしたストーリーと言えるでしょうか。まあ、確かに、あんな京おんな、いや、あんな女いないんじゃないですか?
それこそ、狐に馬鹿された感じですよ。
しかし、だとしたら、この狐になんの利があるんだ?これも、最後殺されちゃうんだから、よくわからない・・・。
もう、わからないことだらけのストーリーです。だめだめですねー。
だいたい女が出来たくらいで、人間変わっちゃうなんて、そして、それを褒めるなんて、今まで、どんだけ、浅い人間しか見てこなかったんだ、ってことですよ。
そういう男は、かみさんにいいようにあしらわれちゃって、結局、会社じゃ、使い物になりませんよ。
だとすりゃ、結局、ひとの上に立つ器がなかったってことになって、いずれにしろ、だめだめ君なわけです。
だから、今回に限り、土方さんの目は、ボンクラだった、ということでしょう。
だいたい、鹿内自体のリアリティが、まったくないんだよねー。
だいたい、逢魔が時には、胡沙笛を吹くな、と言われているのに、吹いた理由は何なの?
自分に絶望して、悪魔にこの身を売りたいと考えていたなら、そういう理由があるのなら、多少野望がある人間にもなるんだけど、
たーだ、吹いただけじゃあ、なんの説明もつかないんだよね。ただのぼんくらでしょ、それじゃあ。
それで、狐狸に騙されて、死にました・・・じゃあ、おとぎ話にもならない。やまなし、おちなし、意味なしでしょ、それじゃあ。
まあ、でも、このストーリーを書いた意味を考えてみれば、
「モテない男共に、ちょっとだけ、いい目にあわせてやる。でも、そういう女に乗せられると、最後は、こうなるよ。俺知ってんだから」
ってことでしょ?まーた、司馬遼太郎の俺偉い病にかかった自分アゲショーなわけよ。
だけど、それ、ぜーんぶ、作り物臭しかしない、できそこないのストーリーだから。
ま、原作批判は、これくらいにするか。
俳優のみなさんは、ほんと、がんばっていますよねー。頭が下がります。
あの小つるちゃんも熱演でした。ほんと、こわいわー。
こう、全体の作りもちょっと古めかしいナレーションと言い、白黒のオープニングと言い、NET版へのオマージュが感じられます。
まあ、あのー、知らない俳優さん達の群像劇的なところも、NET版を思い出させるしねー。
こういう真面目な作りの時代劇たくさん見たいですねー。というか、大河をどうにかしろ、大河を!(笑)。
今週の「?」
もう原作が「???????」なんで、そんなんばっかでした。
お美代さん、綺麗な涙でしたねーって、ただの感想か(笑)。
「「男性大河ファン」の直感的で素直な感想」
●京おんなに嫌われた、それを遺恨に仕返しをした、モテない司馬遼太郎の真骨頂物語!人間がわからないよ、このひと!
えー、「胡沙笛を吹く武士!」
ということで、胡沙笛って、あんなんだったんだねー(笑)。
ま、逢魔が時に、吹いちゃったもんだから妖魔が・・・(笑)。
という、作品の話は、あとにして、この話については、ある風景を思い出します。
それは、もう、10年以上前のこと・・・僕は当時、なぜか、大阪は堂島にある三菱電機関西支社に、営業支援という立場で行っておりました。
そんなある日、僕は先輩の営業さんと京都に数日出張になり、その夜、営業の先輩に、
「今日はいいところ連れていってあげるよ!」
と言われて、連れて行かれたのが、京都では、有名という美人のママさんがいて、綺麗なお姉ちゃんが、5,6人いるお店・・・あれは、パブとかスナックとかの
種類に入るのかなー(笑)。まあ、僕は若い頃から、飲むと超おしゃべりになって、無敵状態に入るので、基本そういうところの女性と仲良くなるのは、大得意!(笑)。
ということで、この有名な美人なママさんとも意気投合して、楽しく飲んじゃったわけですねー。
で。よく覚えているのが、この京おんなの美人なママさんが、僕に、言った言葉、
「旦那はん。人間というものをよく勉強しなはれ」
ということですねー。で、そのあたりの話をしている時になぜか、司馬遼太郎に話になったんですね(笑)。
そして、このママさんが、
「私は司馬遼太郎の新選組血風録という作品は、京おんなを馬鹿にしていると思います。あんな京おんな、京にいてません!」
と、言って指摘した作品が、この「胡沙笛を吹く武士」の小つるさんだったんですねー。なつかしいなー(笑)。
「京女やったら、一目惚れしても、絶対に当人に言ったりしまへん。どういうおひとかさりげなく見ていて、「ああ大丈夫やな」と思ってから、それとのう、目で合図するもんです」
ということを言っていましたねー。これね。最近僕がよく言っている、
「女性は、毎日、恋をするのが仕事。そして、女性は、目で恋を語る!」
というのに、符号するんですね。というか、ママが教えてくれているんだから、ちゃんとそれ、覚えておけよ!って話ですね(笑)。この作品見て、おもいだしたんですけどね。
「だから、小つるみたいに、自分から手をだしたりなんて・・・そんな、はしたない京おんなは、いてません。それに、この小つるって、相手の中身を全然見てへん。それで身体許すなんて、あほや」
と言い切ってましたね。自分が京おんなだから、自信があるんでしょうね。そういうことに。そして、この美人ママさんは、
「これ、はっきり言って、司馬遼太郎というひとは、京おんなを馬鹿にしてはるんです」
と、おもっそ主張してました。
「多分、このひと、若い頃に京のおんなに痛い目にあったから、こんなこすっからい仕返しをしてはるんです」
と続けます。すごいですねー(笑)。
「私はこういうお仕事やさかい、たくさんの人間を見てます。そういう目えで、司馬遼太郎さんの小説を読むと、このひと人間を見ていないことがわかる」
という、接客業一筋のママさんの見解です。
「だから、小つるは、京おんなやないし、司馬遼太郎というひとも、嫌いなんです」
まあ、だいたいこういう話だったと思いますが、多分ママさんは、サラリーマンとたくさん話をする中で、司馬遼太郎を好きなひとがたくさんいることに気づいて、
話の種に、司馬遼太郎の作品を読んだんでしょうね。
でも、ベテラン接客業のママさんから見たら、あり得ない物語ばかりだったんでしょう。体験的におかしいと思ったんでしょうね。
もちろん、当時、僕はあんぽんたんで、むしろ司馬作品を愛していましたから、
「ふーん、そんな風に感じるひともいるんだなー」
と、何も言わずにその見解を聞いているだけでした。
で、ね。
今から考えると、接客業のベテランのママが、そんなことをお客に言うの、おかしいんですよね?
だって、司馬遼太郎作品が好きなお客さんが、たくさんいたから、話を合わせるために、読んだわけだから。
で、思い出すのは、どうも、僕は、かなりあんぽんたんなことを当時言っていたんだと思うんですよ。ガキっぽいというか、オトナの世界を知らないくせに、
知った風な、ね。
だから、多分、ママが母性本能的に、僕のだめなところをやんわり指摘するために、あえて、司馬遼太郎を批判して、
「人間というものを、よく見なさい!」
と、助言してくれたんだと思います。まあ、今になって、わかるんだから、まー、遅いけど、遅くないのかもしれない。
やっと、ママの助言が、役に立つ時が、来たわけだからねー(笑)。
まあ、でも、この作品を見て、そのあたり思い出したんだから、僕が司馬遼太郎を批判しているのは、
元々、このママさんの言葉が、記憶の底に残っていたからかもしれませんねー。
しかし、鹿内薫さんですけど、あんなおっさん、京おんなが、一目惚れするかねー?
まあ、薫さんを塩谷瞬さんにすることで、かろうじて、イケメンなんだから・・・的な説得力を持たせようとしたんでしょうけど・・・、
月代剃ってない武士ってのは、見栄えむちゃくちゃ悪いよー。どうも、まあ、ママさんの助言もあって、小つるの対応がまったく説得力がないですねー。
まあ、これね、多分、これの書かれた時代の人間に夢を見させようっていう魂胆だと思うんですよ。司馬遼太郎のね。
まあ、おもしろい話があって、以前、ある女性作家が書いていたエッセイに、
「男性作家の作品を読めば、その作家が、モテる男性か、モテない男性か、すぐにわかる」
という趣旨の内容を書いていたんですね。
「女性にモテる男性は、女性の気持ちのよーくわかっている男性である。だから、自分に好意を持ってくれている女性の気持ちがわかっているから、自然、口説くのもやさしい」
「だから、そういう男性は、口説きのテクニックも自然向上してきて、さらに女性からモテるようになるものだ。だから、そういう男性が作品を書くときは」
「女性をどう口説くか、そして、それに対する女性の反応をいちいち細かく書き、説得力を上げるようにするものだ」
そして、モテない男性の側の話がまた、おもしろいんですね。
「モテない男性は、女性の気持ちがわからないどころか、女性を口説いた経験もない。だから、どう女性を口説いていいかわからない」
「だから、そういう男性の作品は、だいたい、女性の方から、口説いてくる話になる。しかも、「なぜかわからないけど」突然モテる、という状況にする」
「村上春樹さんの作品は、特にその傾向が、強いですよね(笑)」
まあ、村上春樹さんが、モテるか、モテないかは、知りませんが、村上さんの場合は、母性本能を刺激するタイプだったから、ある程度モテたんじゃないですかね。
まあ、確かに、ほぼ、だいたい、作品中では、女性から声をかけられていますけどね(笑)。
だから、司馬遼太郎の書いたこの
「なぜか、小つるが、かっこよくもない鹿内を超積極的に口説いて、身体まで、超積極的に許しちゃうストーリー」
というのを見れば、この女性作家の言葉を信じれば、
「司馬遼太郎は、女性を口説いた経験がなかったから、いや、リアルライフで、女性に人気がなかったから、こういう形のストーリーになったのだ!」
ということが、もろに、わかるわけです。
だいたい、どこを好きになるんだ?あんな、ださいおっさん。月代剃っていない鹿内薫(笑)。
まあ、それから、今の僕的に言えば、女性は好きになったからと言って、小つるのように、直接、声をかけてきません。
目で誘って、男性に誘わせるようにするのが、普通です。まあ、中には、例外もあるでしょうけどね。昨今は肉食女子なんてのも、いるらしいですから(笑)。
それが、京女だったら、尚更でしょうね。はしたない、という価値観が、京女には、ありますからね。未だに。
だから、あの小つるの物語は、ママの言うとおり、京おんなを馬鹿にした、司馬遼太郎の作り物に過ぎないんですね。
まあ、確かに、司馬遼太郎は、人間を見ていない。
こんな小品でも、わかってしまう、人間の浅さが露呈していますね。
それで、おもしろいことに、このストーリーには、同時進行で、もうひとつの、京おんなの恋愛話があるわけですよね?原作には、ない話。
もちろん、お美代さんの土方ラブストーリーなわけで、こっちは、一目惚れするけど、ずーーーーっと言わずに一年以上、耐えている。
確かに行動力旺盛だったりするんだけど、目で訴えるんですよね。このあたり、京おんなそのものじゃないですか!
これぞ、ザ・京おんなですよ。
そして、父親の要請で、結婚を受け入れ、最後に、自分の思いを土方さんに伝え、さらに、自分の気持ちをほんの少しだけ、かなえさせてもらう。
これこそ、本物の京おんなだ。ママが言っていた京おんなそのもの、じゃないですか。
だから、これ、製作側による、京おんなダメだしじゃ、ないですか。鹿内薫の物語だけでは、京おんながおかしな形で描かれてしまう。
だから、あえて、製作側が考える本物の京おんなストーリーをお美代さんの形でいれこみ、まるで、小つるは、鹿内の見た幻影かのような、処理がされていましたよね。
これは、完全に、製作側が用意した、司馬遼太郎・京おんなストーリーへのダメだしです。
なーんだ、みんな、同じこと、思っていたってことでしょう?ねー(笑)。
鹿内薫のストーリーにしたって、浅いですよ。
かみさん娶って使えなくなるサラリーマンなんて、それこそ、オトナになって社会に出ればたーくさん、それに似た話があることを知ります。
平凡な何処にでもある話なんですよ。かみさんに逃げこんで、仕事をすることを拒否してしまうわけです。
そうなったら、使えない奴として、皆から嫌われ・・・まあ、このお話の通り、最後は、否定されてしまう。
よくある話なんですね。そういう現代の話を、新選組の話として、使っているだけなんだから、誰でもわかる話でね。新鮮味がないというか・・・。
というか、現代話を、そういう時代を変えただけの話にするから、いろいろ齟齬が出てしまう。
例えば、奥州の人間が、なぜ、新選組に入ったか、と言えば、会津藩中将お預かりだから、とか、親のいない子どもだったようだから、本当の武士になりたいとか、
いろいろな志望理由があったはずだ。剣にも自信があったようだから、そういうのを活かしたいというのも、あったはずだ。
そういう自分の生きる目標みたいなものがあるからこそ、新選組に入ったんじゃないの?
そしたら、かみさん娶れて、子供まで授かったんだったら、安易に逃げるかね?どちらかと言ったら、隊務に励んで出世しようとするんじゃないの?
だいたいあの時代の武士の価値観は、何百年もかかって創り上げられた武士道によって、いつ死んでも対処できるようにしておく・・・ということでしょ?
現代サラリーマンのように、かみさん可愛さや子供可愛さで、死を恐れるような価値観はないと思うんだけどね。
つまり、現代の物語を、幕末にたーだ、持っていったから、そういう価値観のズレが露呈しちゃうわけよ。簡単に。
あの時代の価値観と、現代の価値観は、あきらかにまったく違う。というより、武士道がわかっていれば、こういうダメサラリーマン的ストーリーは、現代話に過ぎないことが
わかるはずでしょ?それも考えないで、たーだ、締切り守るために、ストーリーを書いていることが、簡単に露呈してしまう。
こういう簡単な批判にも、全然耐えられないでしょ?このストーリーは。
まあ、最後、小つるが鹿内によって、殺されていたおかげで、鹿内の見た小つるは、ただの幻影だった・・・普通に夫婦生活をしていたけれど、
恐怖によって、おかしくなった鹿内の脳内話・・・胡沙笛を吹いたら小つるが来た・・・というのも含めて・・・となったけどね。
いずれにしろ、モテないおっさんが、締切り守るために、現代によくある話を、時代を変えてストーリーに仕立て上げただけの話ですよ。
しかも、モテなかった腹いせに京おんなを狐狸の類的に書いて、復讐しようとしている最低の男の書いた話ですよ、これは。
ほんと、どうしようもないよね、司馬遼太郎は!そして、司馬遼太郎の作品も!
●司馬遼太郎にはわからない、人の器を見抜いた近藤さん!あんたは、エライ!
鹿内薫を、
「あいつは、だめだ。風采があがらない、あんな男は人の上に立つ男ではない」
と、すぱっと見抜く目を持つ素晴らしい近藤さんです。
まあ、この物語では、死をも恐れぬ目を持っていたからこそ、使えた鹿内が、
死を恐れるようになって、使えなくなった・・・という浅いお話なんですけど、
もう、頭で考えついた浅い話って、感じだよねー。
僕は風采が上がらない男って、やっぱり、ひとの上に立てないと思うんだよね。
自分を飾りたてることすら、できない人間にひとを率いる力はない。
だから、剣の力がある、というのと、ひとの上に立つというのは、また別なんだよね。
そのあたり、作者の頭が整理されていない、というか、わかっていないから、
主人公である、土方の目が狂っていた、ということを露呈させちゃうわけ。
本来、やってはいけないことなのに、本人すらわかっていない。
例えば、なぜ、鹿内は、死をも、恐れていなかったのか、を考えれば、この物語で言うと、
「孤独だったから」
というわけよ。これ、おもしろいことに、前回、「沖田総司の恋」で語られた、沖田が
「怖いものはない。なぜなら、剣の道しか知らないから」
と、ほぼ同じ構図なんだよね。
人に恋したから、剣に迷いが出た→その元を断ち、乗り越えたから、また、剣が強くなった。
まあ、恋の方は、近藤さんに、壊されちゃったんだけど、あくまで、精神的に乗り越えている。
それに比べると、ひとを見る目のある近藤さんが、風采があがらない・・・自分の管理もできない孤独者・・・そいつが強いというのは、
これは、破れかぶれ的な刹那的な強さであって、それこそ、人の上に立てる器じゃないってことになるわけ。
だから、伍長にするべきではなかったし、単に女が出来て舞い上がって、その女を殺しちゃうような人間だった、ということで、
ひとの器というものを、司馬遼太郎は、よくわかっていないんだよね。
近藤は、わかっていたわけだけど、土方もわかってないってことになって、ほんと、だめだめ物語なんだよねー。
ほんと、近藤さんだけだ。なんか、変なの。
●第一話から続いてきたお美代さんの激愛!これこそ、正統派京おんなのゆかしい恋!美しかったです、お美代さん!
今回、結婚話が、持ち上がって為すすべ無く受け入れて・・・すると女中さんが、
「土方さんに会いにいきなさい。一切合切すべて打ち明けてきなさい!」
と、珍しく的を射たアドバイスをしてくれるわけです。そしたらもう、いてもたってもいられなくなって、お美代さん、
土方さんに、最後の逢い引きです(笑)。
いやあ、一年以上、想い続けて、目で恋を訴えただけしたからね。正統な、ザ・京おんなです。
そして、退っ引きならなくなって、最後に洗いざらいぶちまけて、ほんの少しだけ、土方の男性要素を感じさせてもらう・・・その心根の美しいこと。
「ほんの少しだけ、あとちょっとだけ・・・」
の言葉が、せつない響きを持っていましたねー。
あれが、正統な京おんなの恋ですよ。
忍ぶ恋・・・沖田さんの相手もそんな心境になっていましたねー。
なんか、あのお美代さんのあり方・・・よかったですねー。
なんか、ああいう忍ぶ恋って、昭和の頃は、よく描かれていたように思いますね。
時代は、変わって、今は、婚活の時代ですからねー。
だからこそ、ああいう美しいシーンが、胸に堪えたのかもしれませんねー。
でもねー、ほんと、女性って、目で語るよねー。
目で笑うし、目で訴える。あの池田屋の夜、お辞儀したお美代さんの目は、
「あなたが、好きどす」
と、土方さんに訴えていたんですねー。
●お美代さんのことで頭が一杯だった!ひとの上に立つということは、強さだけじゃだめなの!あんぽんたんだった土方さんです!
と、その土方さんですが、今回は、ちょっとあんぽんたんだった・・・というか、ひとを見る目が不確か、でしたねー。
まあ、敵を前にして、逃げちゃうような男ですからね。
見込んじゃいけなかったんですよ。
というより、剣が強いから、人の上に立たせる、という発想がまちがっているんだな。
普通に社会に暮らしていれば、例えば、会社で、上司になれる人間と、明らかに、上司向きでない人間がいることは、誰だってわかるはず。
それは、幕末だって、同じなんですよ。
そして、鹿内は、女が出来たくらいで、けろけろ変わっちゃう、要は中身がない人間なんですよ。
ほら、よく、男によって、女の服装が、けろけろ変わるなんて、ことあるでしょう?
あれは、女性が男性に尽くすタイプだからこそ、自分を無くして相手にすべて合わせちゃうから、そういう状況が出来るわけで、
そういう人間は、中身がない、ということなんだよね。
今回、鹿内は、おもっそ、そうだったじゃん。
しかも、結局、武士として、一番大事な胆力そのものがなかった。
そんな人間が上にいられるわけはないし、元々ダメ人間だった、ということなんだよね。
だから、近藤さんは正しくて、土方さんは、ひとを見る目がなかったのでした。
まあ、今回は、お美代さんのことで、頭が一杯だった、ということにしておきましょう(笑)。
●なぜか生きているリアリティがあまりない!狐狸の類か、それとも幻影か!でも、かわいかったよ、小つるさん!
というわけで、まるで、狐狸の類に描かれていた小つるさんです。
まあ、一目惚れ・・・という説得力がまったくなかったですけれど、超積極的な女性になっていましたねー。
まるで、京おんなは、化物的な司馬遼太郎の主張なわけですけど、まったくリアリティがないのね。
「触って」
とか、まあ、女性は、そんなこと、酔っ払ったりしなきゃ、そうそう言いませんよ(笑)。
それで、関係さえ持って、子供まで作っておきながら、突然手のひらを返したような、物言い・・・あそこだけ、正統な京おんなだったように
思えますね。
「わたしは、京から出たことあらしません。京でのうては、生きていけません」
ここだけ、取材で、誰かから聞いたんでしょう。そして、物語の構想を膨らませた。そういうことでしょうね。
だから、ストーリーとして、ものっそアンバランスで、非リアリティな話になっちゃうわけで、ストーリーの構成力がない。
例えば、最初から、狐狸の類的な表現をするなら、もっと、リアリティ感を無くせばいいし、なんか中途半端。
どっちつかずの作品になってしまいましたね。
まあ、最後、鹿内に殺されていましたから、鹿内の脳内ストーリーという風にもとれて、やっとバランスがとれましたけど、
まあ、ある意味、いっちゃった人間の脳内ストーリーを見せられただけ、という感もあって、うーん、という感じのリアリティを感じ無い
京おんならしくないけど、京おんなを主張する小つるさんでした。
●目力全開で、逃げこみ者を表現!器じゃないと、逃げこまなくてはいけなくなってしまう!かわいそうな鹿内くん!
えー、塩谷瞬さん!ということで、正義の見方でなく、こういう癖のある弱い人間を、目力全開で、表現していましたー。
まあ、なんか危ういだめ人間をしっかり演じていて、まあ、新しい境地を見せていたんでは、ないでしょうかー。
にしても、これまで、書いてきたように、ちょっと作品自体が、あれなんで、こう、だめだめ感が救いようのない感じになっていました。
まあ、逃げ込んじゃうひとって、どこにでもいるものですからね。
司馬さんが生きていた時代も、ちゃあんといた、ということでしょう。
そして、逃げ込んじゃったひとって、最後はああいう最後になっちゃうんだよねー。
しかし、このひと、最後、原田さんに、斬られちゃったねー。武士としても、死ねなかった、かわいそうな鹿内くん、ということで、
元々、器じゃなかった、ということですかね。武士としても。
今週の喜び
まあ、こうやって、観てくると、ひとの上に立つひとの器というものが、まったくわかっていない作者による、おかしなストーリーという感じで、
京おんなにいやがらせしたストーリーと言えるでしょうか。まあ、確かに、あんな京おんな、いや、あんな女いないんじゃないですか?
それこそ、狐に馬鹿された感じですよ。
しかし、だとしたら、この狐になんの利があるんだ?これも、最後殺されちゃうんだから、よくわからない・・・。
もう、わからないことだらけのストーリーです。だめだめですねー。
だいたい女が出来たくらいで、人間変わっちゃうなんて、そして、それを褒めるなんて、今まで、どんだけ、浅い人間しか見てこなかったんだ、ってことですよ。
そういう男は、かみさんにいいようにあしらわれちゃって、結局、会社じゃ、使い物になりませんよ。
だとすりゃ、結局、ひとの上に立つ器がなかったってことになって、いずれにしろ、だめだめ君なわけです。
だから、今回に限り、土方さんの目は、ボンクラだった、ということでしょう。
だいたい、鹿内自体のリアリティが、まったくないんだよねー。
だいたい、逢魔が時には、胡沙笛を吹くな、と言われているのに、吹いた理由は何なの?
自分に絶望して、悪魔にこの身を売りたいと考えていたなら、そういう理由があるのなら、多少野望がある人間にもなるんだけど、
たーだ、吹いただけじゃあ、なんの説明もつかないんだよね。ただのぼんくらでしょ、それじゃあ。
それで、狐狸に騙されて、死にました・・・じゃあ、おとぎ話にもならない。やまなし、おちなし、意味なしでしょ、それじゃあ。
まあ、でも、このストーリーを書いた意味を考えてみれば、
「モテない男共に、ちょっとだけ、いい目にあわせてやる。でも、そういう女に乗せられると、最後は、こうなるよ。俺知ってんだから」
ってことでしょ?まーた、司馬遼太郎の俺偉い病にかかった自分アゲショーなわけよ。
だけど、それ、ぜーんぶ、作り物臭しかしない、できそこないのストーリーだから。
ま、原作批判は、これくらいにするか。
俳優のみなさんは、ほんと、がんばっていますよねー。頭が下がります。
あの小つるちゃんも熱演でした。ほんと、こわいわー。
こう、全体の作りもちょっと古めかしいナレーションと言い、白黒のオープニングと言い、NET版へのオマージュが感じられます。
まあ、あのー、知らない俳優さん達の群像劇的なところも、NET版を思い出させるしねー。
こういう真面目な作りの時代劇たくさん見たいですねー。というか、大河をどうにかしろ、大河を!(笑)。
今週の「?」
もう原作が「???????」なんで、そんなんばっかでした。
お美代さん、綺麗な涙でしたねーって、ただの感想か(笑)。