こんばんはー!!
写真は、写真撮る前にちょっと食べちゃったんだけど、実家ののっぺです😆
はてさて、どうも勉強させ過ぎると、「損得」で物事を推しはかるようになるなぁ、、、と思う今日この頃です。
例えば、、、
何かみんなでやるとして、始まる前に準備しないといけない。
別に誰がやる係とか決まってるわけじゃない。けど、誰かがやらないといけない、、、
そういう場合に、
んじゃちょいと早く行って準備しようーと思う人と、
あーやだやだと思いながらも準備する人と、
なんで自分がやらなきゃいけないの??早く行くなんて損じゃん?と思って早くは行かない人と、
ナーンも考えない人と、
悪いなーと思いながらも人にやってもらう人と、、、、
まーいろいろいますよねー😆
んで、話は戻るんだけど、
大人が「勉強しなさい」「勉強しないと良い大学行けないよ」とか言うのって、結局「将来いい会社に入って、たくさんお金をもらえるため」ってことないですか??
そんなにハッキリ言うと、いやらしいけど、それがその子のためであり、その子の幸せと思って疑ってないのだろうけど、
たくさんの考えるべきポイントがあると思うんですよ。
ホントに良い大学に行けば良い会社に勤められるのか?
良い会社とは?
なんのために勉強するのか?
学校の成績が良かったら、良いところに就職できるのか?
学校の成績と仕事のできるできないは関係あるのか?
結局どんな人に仕事を頼みたいか、、、
どんな人に会社に入って欲しいか、
生きるとか幸せってなんだ??
そう言う風に考えた時に、
単に点数取るために勉強してる人って、会社や社会にとって必要な人なのか??
点数取るために頑張るって、それって「自分のため」にやってることだから、別に誰かのためにもなってないし、、
で、そのための勉強さえしてたら、褒められるんだとすると、だんだん考え違いをするようになる、、、
人間は点数や大学やお金で判断されるモノだ
そんな風に無意識に刷り込んで行ってるのじゃないか??
学びたいモノに対して、一生懸命勉強するのはめっちゃありだと思う。
だけど、点数のための勉強とか、評価のための勉強とか、、、それで人間のかちがきまるとか、成績が良い人が偉いとか、、
その論法で全てを見るようになっちゃって、
「損得」を物差しにしてしまうのかな?!
ほんの少し、みんなとの時間のために奉仕する(最初に書いた、例えば早く来て準備するとかね)こと、、、
そういう小さい親切ができない人に、大きいことってできるのかなー????
できるのかな??
できるなら良いんだけど、
結局、そういうホントに小さいことを大事にしたり、ちょっと人のためになろうとしたり、それを「幸せ」と感じることができたり、、、
そういう人って、社会にとって、とっても大切な存在になっていくんじゃないかな??
社会にとって大切って、すごく価値があると思うよ。できたらそういう人と一緒にやりたいな!と思うんじゃなーい??
成績が人より100点良くてもさ、心遣いとか挨拶とか小さいことができない、って人だと「でも成績が良かったんだから、お仕事お願いしよう!」とはならないと思うよね、、、
きっとオトナはそういう社会のことを絶対知ってる。
知ってるはずだけど、もしかしたら自分が進学先のせいで日陰を歩かされた、、、と思っていたら、子どもに勉強しなさい!といっちゃうかもね。
でもそれはホントは「学歴」のせいにしたいだけかもしれない、、、
逆に良い大学に行ったから、良い職業に就けたと思ってるオトナは、その価値観の中で生きてるからそれしかみえないかもしれない。
子どもは大人の考えを反映する。
教えるなら、
ちょっとした「自分にできること」を率先してやる人になること、、、
が、ひょっとしたらいいと思うんだけどなー。それが出来ると、自己肯定感が上がると思うんだ、、
ちょっと逆から言うと、
自分の人生を生きる、っても大事。
自分の特性を活かして、それを一生懸命やってると、それが誰かの役に立ったり、社会の足りないとこを埋めることになったりして、、、、
そういうことにも想像つくようになっていけば、本当の意味で「頭使ってる」って言えると思う。
ホント、勉強が本当の学びならいいけど、点数のための勉強は、子どもの神性を「損得勘定」するような性質に変えちまうだけだと思うよー
「自分のできることを一生懸命やる」
早くオトナが気づかないかなー、、、
ホント、、、