ゆこちんのトランペット

トランペット奏者 藤井裕子のコンサート情報、トランペット談義のつもりが…こぼれ話や大きな声では言えない話も…毎日更新中♪

雑感

2010年09月17日 03時21分50秒 | Weblog
ついさっきまで、「幸せってなんだろ?」旦那とそんなことを話してしまった。気がつけば3時間くらいかな?

最近、ふとしたことに幸せを感じることがある。
別にいつもと違う事が起きてるとか、そういうのじゃない。
いつもと全く同じ、ほとんど変わらない出来ごと。

例えば、空がきれいとか、何でも話せる両親がいることとか、私を理解しようとしてくれる旦那がいることとか、可愛い教え子たちがいることやそういう生徒達を教えることができる環境を与えられている事、素敵な仲間が自分の周りに大勢いてくれること、生徒達の成長…

どれもこれも今までなかったこととか、急に起きた事じゃない。
ただ、自分はそれほど幸せとか意識してなかったことが、実はとっても素敵なことに思えてきた。

本当は音楽をすることそのものもとっても幸せなことであるはずだけど、なかなかそうばかりも言ってられないこともある。
でも、「自分がどうなりたいのか」これをもっとハッキリ意識することができれば、もしも上手くいかない事があったとしても、それはまだまだ途中だってことで、あきらめずに前進できるかどうかの問題で、まだ頑張りつくしてもいないのに、ダメだ…とか無理…とか言ってるんじゃ、やる価値ない!
そう思えば、まだまだやれる気がするね!

こういう普通のことが特別幸せなことに思えてきたきっかけは、コメントの書き込みだ。
本人は気付いているか分からないけど、誰が書いてるかは分かってる。分かってるだけにその人のことを思うと何とも辛い。どうしてそんなことを書くように彼女が追いつめられてるのか、彼女のことは誰でも認めるような、そんな人なのに…ずっとそれを悩んで考えてた。
でも今日分かった。あえてどう分かったかは書かないけど、いろんな言動の矛盾もそれで説明がつくな…と思った。そっか、そういう風に思ってたのね。
人って、自分のフィルターを通して以外に物事を認識できないし、自分のフィルターを通していること自体もあまりにも当たり前過ぎて気付きにくい。
最近、絵を描いてると、よくそれに気づく。

絶対まるのはず!!絶対こう見えるはず…そんな思い込みとは裏腹に、よーくみると全然違って見える。
例えばコップのフチ。
丸いはずだし、真上から見れば丸に違いないんだけど、ナナメ上から見たら、丸くない。
楕円に近いけど、厳密にいえば楕円ですらない。

でもなかなかそれに気づけない。よーく見て初めて気付く。
もちろん美術の人なんかに言わせたら、あったりまえー!なんだと思うけど!

色も全く同じ。位置によって同じはずの色も違っている。それもよーく見ないと気付けない。

自分の知ってる声がテレビから流れたりすると、メチャメチャ反応する。知らない声だと聞き流したり。
好きな曲だと、あ!!!と聴き入ってしまうけど、そうでもなければスルー。
気になるタイトルの本は、本屋さんの大量の本の中からでも浮かび上がって見えるけど、気にならないジャンルのものは気にも止まらない。

自分が欠点と思っていたり、ちょっと負い目のあることって、だーれもそんな話してなくても、例えば「うるさい」が自分の音のことのように感じたり、誰かが笑ってたらバカにされてると思いこんだり…過剰に反応してしまったりする、そういうこともある気がする。

もしかしたら、うるさいのは車の音かもしれないし、笑ってるのはとっても楽しいことがあったからかもしれないのに。

そんな風に、自分が気にしてることはやたら目につくし、やたら気になる。塩水も怪我してなければしみないけど、ちょいと傷があるとやたらイタイ。

普通に考えれば、全く違うことなのに、自分にはそうとしか思えない…それは、その人の心理状況によって起こりうる。

自分を等身大で、完全無欠でもなく、全否定でもなく、とても素晴らしい所もたくさんあるし、ちょっと失敗することもある。自分の中で悔しいことや恥ずかしいこともある。他人の目から見たら、全然問題なくて超ステキってこともある。もちろん反対もあるかもしれない。
そんないろんなすべてのことをひっくるめて自分だし、今の自分はそれでいいと思うし、ただそのままじゃなくてもっと成長出来る部分もあるから、そこは成長するように努力する。
それを繰り返して行くのが人生って気がする。常に完全無欠だったら、たぶんもう人間じゃない。

自分が自分でいることに安心できることって素敵だと思う。進化していきたい自分であるっていうことも含めてね。

誰もそんな風に思っていないことを深読みして傷つく。そういうことをする人は一見かわいそうだけど、そんなことをしてどうなるの?
かわいそうな自分でいることは、辛いことだろうけど、被害者意識でいればいいんだから、実際には楽な方法だ。
もしも自分で気になることがあるのなら、自分で「そのこと自体」を研鑽して進化させていくしかない。
それを指摘した人が悪いと誰かのせいにしても始まらないし、そこにある事実は変わらない。むしろ最終的には自分が一番傷つくと私は思ってる。だって、そこには本当の答えはないんだから。一時の腹いせにしかならない。結局、あとに虚しい気持ちが残るだけ。

もちろん私自身にも、そういう思い出はある。上手くいかないことを人のせいにしたりしたこともあった。そのときは本当にそうだと思ってたし、その人のせいだ、と思ったりもしていた。
でも、それって何の解決にもならなかったよ。
どんどん相手を傷つけるし、そのうえ自分も激しく傷つくし、焦るばかりで進歩もしないし。
何がどうなってるのか、もっとちゃんと直視して、現実を受け入れて、そのうえでどうするのがいいか、どうなりたいのか、それを考えなきゃいけなかった。
自分がどうしてそう思うのか、本当はどうしたいのか…大切なのは自分としっかり向き合うことで、他人に文句言ってる暇とエネルギーがあったら、自分の現実とその打開策に向ける方がずっと建設的でずっと幸せで、自信が持てる。

できることなら、いつも人に褒められたいし、厳しいことを言われたらガーン!となる。でも厳しいことを言われた時はチャンスだし、言われてなくても自分が気付いた時もまたチャンス!大事なチャンスを他人を責めることに使ってちゃ、もったいない。

実際、年々厳しいことをズバッと言ってくれる人は少なくなってくる。本当のことを言ってくれる人は本当に少なくなっていく。だから本当のことを言ってくれる人は勇気があると思うし、自分にとっては超痛いけど、本当にありがたい人だと思う。だから、一瞬はガーンとなってイラっとして…とはなるけど、絶対大事にしたい。
耳に心地よいことばかり言う人の方が、もしかしたら裏で何言ってるか分からん…裏表ない人もいるかもだけどね!



また、他人が褒められたら喜ぶとか羨ましがるのはいいけど、自分がけなされた、と思ったりする必要はないと思う。
またましてや逆に、自分を正当化するために他人を貶める必要もない。むしろ、相手がだれであれいいところは良い、と認められる勇気を持つべきだ。そのことで自分の価値が下がる、なんて思ってるんだとしたら、大間違い。いや、自分でも気付かずそんな風に思っちゃうこともあるかもだけど、でも本当に凄い人は、人をちゃんと褒めることができる。
誰にだって褒められるべき点があり、欠点もある。そのどの部分をフィーチャーするかは、その人のフィルター次第だから、また他の見方もあるだろうし。


そうそう、ズバッと言ってくれる人が少なくなって来るからこそ、自分でもちゃんと気付くようにしたい。そういう自分のダメな所に気付くのは超イヤだけど、チャンスと思って、修正していくのが自分にとっての本当の意味での幸せにつながる。人のいいところを褒め、自分に足りないと思うなら見習えばいいし、自分のいいところもまた素直に嬉しく思えばいい。

自分が一生懸命やったことが、人の役に立ったり人を喜ばせたりしたら、それは最高の幸せ。
それを目指したい。

まあ、まだまだ修行中と言う感じだけど、イタい経験は普段見逃していた幸せに気付かせてくれるから、ありがたい。それにちょっとメンタルも強くなれる。
失敗も成功も嬉しい事も悲しい事もショックもハッピーもすべてひっくるめて、自分の肥やしにさせていただいちゃうよー!
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする